かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

資料のお守り的使用法について

 紙、紙、紙

 私は地方公務員で、現在、条例や規則(まとめて「例規」という。)に関する事務を行っている。この事務においては、ひたすら紙を使う。

 しかも、それぞれの「紙」は、間違ってはいけないものがほとんどだから、多くのチェックが入る。チェックのために紙を印刷する。裏紙だけが増えていく。

 特に、条例案を議会に提出する時は、膨大な紙を消費する。

 条例案自体はもちろんのこと、管理職へ条例案の改正を説明するための概要文、その概要文を補足するための資料。
 条例案や概要文は議員の数だけ配布するから、それも当然印刷する。

 ひたすら、紙、紙、紙

 それが、私が今所属している部署の現状である。

資料のお守り的使用法について

 もちろん、今使用している紙の資料をすべて電子化するのは不可能だ。例えば、条例案の原本は、原本として紙で存在することに意味がある。
 しかし、それほど必要でないであろう資料を作っているときに「本当にこの資料を読んでいるのだろうか」と思うことも多々ある。管理職から「こんなにたくさん資料もらっても、読めないよな~笑」と言われたことすらある。

 特に思うのは、「想定外の質問のために、とりあえず資料を持っておきたい」という、念のために作成する資料のことだ。
 私は、こういった資料作成のことを、

 「資料のお守り的使用法」

 と呼んでいる。

見直しのない前例主義について

 こうした「お守り資料」の他にも、資料が増大する原因はある。それは「見直しのない前例主義」だ。
 本来的には、資料が必要となったその都度、資料の要・不要を検討し、作成する資料を決めていくはずだ。しかし、私の職場では、「前回もこの資料を作成したから、今回も同じ資料を作成しよう」といった形で、特に過去を見直さないまま、資料を作成することが多い。

  この論考に対する一連のツイートでもあるように、「前例」というのはあくまで参考であって、判断の根拠とするには弱い。「昔やっていたからorやっていなかったから」というのは、単なる前例の存在に対する指摘であって、それ以上のものではない。
 大事なのは、前例の存在に対する指摘ではなく、なぜそのような前例が作られたのかという理由の考察である。昔と今は、行政のあり方も社会情勢も、何もかもが異なっているはずだ。それなのに、「前例だから」といって、過去の判断を現在へと平行移動するのはおかしな話である。

改善するための正攻法とは

 「資料のお守り的使用法」と「見直しのない前例主義」によって、少なくとも私の職場では、紙の資料が年々増大している。
 では、どうすればこのような慣例をなくせるのか。

 今のところは決定権者に、現状と改善の必要性を提示するという正攻法しかないように思う。

 例えば、毎回どれだけ紙を用いているか。また、それによってどれだけのお金を使っているのか。
 ここでいう「お金」とは、紙の費用だけではなく、印刷代や作業にかかる人件費なども考慮されるべきだろう。
 また、その資料を作成するのに、どれだけの時間を費やしているのかといったことも重要だ。資料の作成によって残業をしていたら、それだけ生活を圧迫していることにもなる。

 しかし、結局のところ、決定権を持つ者が決断しなければ、事態は大幅に動かないのだ。

苦しい決断の積み重ね

katsugen0331.hatenablog.com

 事態の改善には、この記事でも書いたように、「アップデートの思想」が求められる。

 「やったほうが良い」と思ったときに行動しないと、人間は先送りにする。そして、その先送りの積み重ねが、新たな前例となり、判断の根拠となる。
 こうした泥沼に嵌っているのが、私の今の職場である。

 この負のサイクルから抜け出すためには、決断が必要だ。

 改善は、トップが変わったり、使用する機器が変わったりすること、つまり「外圧」によって行われてはいけない。そのような改善は、表面的に刷新されるだけで、中身を改善させることには繋がらないことが多い。

 事なかれ主義で先送りするのではなく、その都度、必要性を吟味し、決断をする。こうした、地味で苦しい決断の積み重ねでしか、負のサイクルを改善することはできない。

 理想論だろうか。しかし、理想を語らないと現実は始まらない。

 

初詣に行った。

 公務員は暦通りの休み。明日から仕事だ。
 「公務員は、土日が休めていいね~」と言われるが、民間企業に勤めている人は、12月27日も、1月4日も休みだったりする。
 意外と、どっこいどっこいなのではないか。

 そんなわけで、神田明神に初詣に行った。

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 実は、1日の夜にも行ったのだが、あまりに混んでるし寒いしで諦めた。
 1日は、境内まで入れないほど人が並んでいたが、今日は午前中に行ったからか、すんなり入れた。

 おみくじは中吉。悪くないだけマシ。

 神田明神には、「神田明神文化交流館」という新しい施設ができていた。

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 中を見ると、こんなお土産も。

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 買わなかった。

 中にはお土産屋の他にホールなどもあった。スタンディングで700人入るということだから、ちょっとしたライブハウスだ。
 定期的にイベントをチェックしていきたいなと思っている。

 その後ふらふらして、こんな建物に辿り着く。

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 電気街にこんな古い建物あったっけ?と思って見てみると、1月中に解体されるらしい。
 中に入っている会社は、移転する模様。

 周りと比べてかなり古い建物で、なんだかもったいない。でも、なんで今まで気づかなかったんだ?と言われると反論できない。
 何かがなくなるときにだけ「やめないで!」という人ほど、普段は無関心で、応援していなかったりするものだ。

 その後、秋葉原で一番好きな場所へ

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 好きな場所なのに上手く撮れないのがもどかしい。
 曲がりながら登っていくこの感じがとても良い。

 で、お昼になってお腹が減ったので、

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 かつやのカツ丼。さすがに「かつげん」らしいところを見せなければ。
 カツ丼を食べたらアップするようにします。

 私は日記をつけるのが不得意なので、この場を利用して、こういったユルい日記も更新していく所存です。
 毒にも薬にもならない文章ですが、どうぞよろしくお願いします。

 

現在の法は、適切でないかもしれない

 

福島第一原子力発電所事故の報告書を読んだ

 私は先月、福島第一原発に視察へ行った。
 この視察については、また後日書こうと思う。

 私は、視察の予習をしたいと思い、事前に福島第一原発の3つの報告書(東電・政府・国会)を読むことにした。
 3つの報告書は、東電→政府→国会と進むに連れて、「今回の事故は、天災ではなく人災である」というニュアンスが強くなるとともに、科学・工学的な考え方よりも人文的な考え方が強まっていく印象だった。

 報告書の中で、門外漢である私が一番読みやすかったのが国会事故調の報告書だ。その中でも、気になった文がある。
 それは、班目春樹原子力安全委員会委員長が委員会の中で話した以下の発言だ。

 横目に見ながら、何ら対応もしなかったというのは問題であったと思います。結局、この問題のさらに根っこにあるところは、……わが国ではそこまでやらなくてもいいよという、言い訳といいますか、やらなくてもいいということの説明にばかり時間をかけてしまって、いくら抵抗があってもやるんだという意思決定がなかなかできにくいシステムになっている(第5部 事故当事者の組織的問題(その1) | 国会事故調

 「わが国では」というほどの、日本特有の話かはさておき、私たちの身近でもよく起こる話であることは確かだ。

 

安全神話と信仰心

 事故後、東電を批判する文脈で、「原発安全神話」という言葉がよく聞かれるようになった。
 これは「原発は安全だから、今のままの対策で良い」という「神話」があったから、東電は対策を怠ったのだという意味でよく用いられる。

 これだけ聞くと「よくそんな『神話』を信じていたな」という批判的になってしまうのだが、公務員として仕事をしていると、なんとなく共感する部分もある。

 詳しくは、それぞれの報告書を読んでほしいが、東電には新たな対策を講じる機会が幾度となくあった。しかしその度に、対策の否定もしくはその強度を減らされて、結果としては、今回の地震に対する対策としては不十分なものになってしまっていた。
 このようになったのは、東電が盲目に安全神話を信じていたわけではない。もっと組織的で構造的な理由がある。それは、

 安全対策を講じると、現在の原発に不備があるということを示してしまう。

 ということだ。
 これは、原発を安全だと信じるor信じないという信仰心の問題ではない。組織としての一貫性の問題だ。

 

例規事務の神話

 翻って私が行っている「例規事務」という仕事(自治体の条例や規則の案を審査し、作成する仕事)を考えたとき、同じような現象に出会うことがある。
 一例を上げれば、時期を逸した条ズレの改正だ。

 例えば、建築基準法施行規則という自治体の規則には、建築基準法という国の法律が多数引用されている。
 そこで、国が建築基準法を改正し、今まで「第9条」だったのが「第10条」に変更されたとしよう。この場合、自治体でも、建築基準法施行規則で引用されている「建築基準法第9条」を「建築基準法第10条」に修正しなければならない。
 しかし、たまにではあるが、建築関係を担当している課がこの条ズレを把握しておらず、条ズレが発生して1年後に発覚するということがある。

 このとき、条ズレを修正するとなると、担当課は「今まで条ズレを把握していませんでした」ということを示すことになってしまう。
 当然、例規担当としては、例規(条例や規則のこと)としては明らかに不適切なのだから、この際改正しましょうと話を持ちかける。しかし、担当課が渋るということがよくある。

 ここで生じている現象は、決して「条例や規則は無謬である」と信じているからではない。
 「間違っていると認めたくない」というメンツの問題である。

 

アップデートの思想

 先日ノーベル賞を受賞した本庶佑は、テレビのインタビューでこのようなことを言っていた。

世の中のことは嘘が多い。教科書が全て正しかったら、科学の進歩はない。基本は人が言っていること、教科書に書いてあることをすべて信じない。なぜかと疑って行くことが重要

 科学は、現状を批判することで、発展していく学問だ。
 もちろん私は、科学の世界については門外漢だから、実際には異なるということもあるかもしれない。しかし、このような「アップデートの思想」が、科学の発展に寄与していることは確かだ。

 

法は適切さを保証しない

 少し前に、以下の本を読んだ。

超合法建築図鑑 (建築文化シナジー)

超合法建築図鑑 (建築文化シナジー)

 

 この本では、法律を守ろうとしたがゆえに、町並みからすると、逆に奇怪な建築物が生まれてしまうことを表している。
 合法だからといって、きれいで整った建築物が生まれるわけではないのだ。法は適切さを保証しない。

 窓口対応などで「法律で決まっていることなので」と言っても、市民から「その法律が間違っているんだ!」と言われたら反論できなくなってしまうのは、このような特性が、元来、法に存在しているからだ。

 現在の法は、適切でないかもしれない。

 この前提が共有されることで、組織の呪縛は解放されることになる。
 じゃあ、具体的にどのようにして、その前提を共有すべきか。

 それは、私にもまだ分からないのだ。
 また考えることにしよう。

 

飲み会を断る代わりに、その会費を寄付するプロジェクトを開始します!

飲み会を断る代わりに、その会費を寄付するプロジェクト!

 タイトルの通りですが、

「飲み会を断る代わりに、その会費を寄付するプロジェクト」

 を開始します!

 ルールは3つだけ

  • 気が乗らない飲み会があったら、遠慮なく断り、その会費の分だけ、慈善団体に寄付する。
  • 会費が不明の場合は、3,000円を寄付する。
  • プロジェクトに動きがあったら、本ブログやツイッター#飲み会断って寄付)で報告する。

 なぜこのようなことを思いついたのかを、以下に記します。

 

飲み会が苦手

 私は飲み会が苦手だ。

 正確にいうと、上司のありがたい話を聞いたり、気を使ったりしなければならない飲み会が苦手だ。
 お金を使って、時間も使って、一体何が得られているんだろうか。あの辛い労働ですら、時間を使えばお金がもらえるのに。これなら、家で静かに本を読んでいたほうがマシだ。
 だから、気の乗らない飲み会はできるだけ断りたい。

 「じゃあ断ればいいじゃないか」と言われるかもしれないが、そう簡単にはいかない。「親睦」や「付き合い」といった名目で、ほとんど強制的に参加させられてしまう。確固たる意思がないと、断るのはなかなか難しい。

 

断る言い訳を考える

 同じように考える人の中で、その対策としてドタキャンをするという人もいる。最初は参加を表明するが、直前になって断るということだ。確かに「行きたいんだけど、理由があって行けなかった」という雰囲気が出て、これなら断りやすい。
 しかし、幹事は、再度電話をかけなければいけないから負担になる。そもそも幹事は、上司への挨拶のお願いや会費の管理など気を使うことがたくさんある。こんなことのためだけに、幹事に負担を強いたくない。

 では、どうやって断ろうか。

 

「飲み会を断る人は、自己中心的だ」というイメージの払拭

 そもそも、なぜ職場の飲み会は断りづらいのだろうか。
 それは逆に、飲み会を断るときの理由を考えればみえてくる。

 飲み会を断るときは、たいていこんな理由だろう。

  • 体調が悪くて...
  • 予定が入っていて...
  • 親族の容態が悪くて...

 共通しているのは、「他責的である」ということだ。つまり「私のせいではありません。しょうがないことなんです。」と責任転嫁をしている。

 このような他責的な言い訳が一般的に行われているということは、自分の意思で飲み会を断ることが避けられているということだ。逆に、言い訳もせずに飲み会を断る人に対しては、「会社への貢献意識が足りない」とか「自己中心的」というイメージが付いてしまう。
 なにより、飲み会を断って浮いたお金は、自分のために使うことになってしまう。これでは「ケチだな」と思われても仕方ない。

 だから飲み会を断るには、「飲み会を断る人は自己中心的だ」というイメージを払拭する形で、断らなければならない。

 

より大きな貢献意識を提示して断る

 そこでひらめいたのが、

「より大きな貢献意識を提示して断る」

 ということだ。

 会社よりも大きな範囲で物事を考え、それに対して貢献しているということを示すことができれば、「飲み会を断る人は、自己中心的でケチ」というイメージも払拭できる。
 そして具体的な方法として、

「飲み会を断る代わりに、その会費を寄付するプロジェクト」

 を思いついたのだ。

 このプロジェクトを説明した上で断ると、「は?なに言ってるの?」と言われてしまうかもしれない。おそらく職場では浮くことになる。だが、少なくとも「そんなこといいから飲み会に来い」と言われることもないだろう。
 また、寄付という行為が身近でない日本で、例え少額でも寄付をしているという事実は、ちょっといいことをしているようで、誇らしく思うのではないだろうか。

 

本当のきっかけ

 上述したのは、今回のプロジェクトの論理的な説明だ。ただ、実際のところはこのように筋道を立てて考えたわけではない。

 「1人4,000円で×10人なら、一回の飲み会で40,000円か... 寄付したほうがよっぽどマシだな...」

 と単に思っただけなのだ。
 ただ「思いついたからやりました」では、自分の中で納得ができないから、このような説明をあとから付け足したという具合だ。

 勤めている会社にもよるとは思うが、私の場合は、それほど飲み会が頻発する職場ではない。だから金銭的に負担が大きいというわけでもないし、そもそも使っていたはずのお金なのだから、そんなことを考える必要もない。

 

 プロジェクトに共感して実行してくれれば、この記事を書いた甲斐があったというものだ。
 寄付した際は、#飲み会断って寄付を使い、Twitterでつぶやいて、このプロジェクトを広めてほしい。

 

努力できることすらも才能なら、私たちは何をすればよいのだろう。

村上隆の「芸術起業論」について

 村上隆の「芸術起業論」を読んだ。

芸術起業論 (幻冬舎文庫)

芸術起業論 (幻冬舎文庫)

 

 言ってみれば「ジャケ買い」なのだが、読んで良かった。
 アートについては、どうしても「変人がやるもの」というイメージがある。趣味で絵を書くのと違って、それを職業としているのは「変わり者」だと思っていた。

 しかし、村上隆はこの本で至極まっとうなことしか言っていない。

「アートの文脈を捉えて、新しい切り口を見つけないといけない」
「世界と勝負しなければいけない」
「アートは、お金が大事」

 大事なのは、アートと真逆の位置にありそうな学術研究でも、日々の企業での仕事でも、結局同じではないか。

努力の人

 さて、この本を読む限り、村上隆は努力の人だ。
 この本を読みながら、私は、リーガルハイ2でのある話(以下の動画の31分すぎから)を思い出した。

jp.channel.pandora.tv

 明らかに宮崎駿を意識しているこの物語。読み進めていたら、やはり村上隆宮崎駿が好きらしい。

 ここで問題となっているのは、「才能」と「努力」の問題だ。
 動画では、伊東四朗がこんな風に言っている。

俺だって、天才なんかじゃない。
誰よりも必死に働き、階段を一つひとつ踏みしめてきただけだ。
振り向いたら誰もついてきていない。
怠けた連中が麓でこうつぶやく 

 

『あいつは天才だから』

 

冗談じゃない。

  才能があって結果を残す人もいる。一方で、才能がないと自覚し、努力を積み上げて結果を残した人もいる。そして、努力をして報われた人もいれば、報われなかった人もいる。
 努力が報われた人からみれば、「あいつは天才だから」という言い訳は、当然「冗談じゃない」と言い返したくなる。
 だから、努力が報われた宮崎駿(を模している伊東四朗)や村上隆は、

「結果を残したいなら、まず努力をしろ。話はそれからだ。」

 と主張することになる。

努力と才能

 しかし、最近の世の中の傾向を見ると「努力は才能を凌駕する」という話にすら、疑いの目が向けられている。つまり、「努力できるのも1つの才能だ」という主張だ。

karapaia.com

 才能の拡張は、ついに努力をも飲み込もうとしているのである。

 そもそも努力は、天才(神)に近づくための、極めて人間的な発明だったはずだ。「どのように努力すればよいか」を具体的に知るために、科学が生まれたといっても良い。
 今やその科学によって、天才に近づくためのツールとしての努力は否定されようとしている。

 しかし、努力できることすらも才能なら、私たちは何をすればよいのだろう。

 産まれたときの個体差と家庭環境の偶然(今風に言えば「ガチャを回す」ということになるのだろうか)に賭けるしかないのか。
 しかしそれでは、産まれたときからすべてが決まっているようで、あまりにも報われないではないか。

 私はまだ、このような「科学的決定論」には与したくない。
 例えその態度が非科学的で、前時代的であっても。