かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

繰り返すことに対する試論 -解説-

はじめに

 ここでは、2019年04月06日の土曜会で発表した「繰り返すことに対する試論」について、スライドを交えながら解説していきます。
 スライド自体は、土曜会のHPでも後日公開されると思いますので、そちらも御覧ください。

 今回の発表は、1月の土曜会で発表されたじょいともさんのループ論を受けて、自分なりにループ論を考えたものです。

発表の中身

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 今回の目次です。
 まず、じょいともさんのループ論を検討したあと、私のループ論→その拡張→まとめといった流れになっています。

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 じょいともさんのループ論は、「ループ物語論が、ある特定の時期の作品しか論じられていないのではないか?」という疑問から生じている。
 そのため、最近のループ作品(=SF的ループ)だけではなく、それ以前の作品へ遡って、同じ「ループ論」の中に組み入れるというのが、発表の目的となっていた。

 しかし、これはすでに浅羽通明時間ループ物語論で、論じられていることである。
 ちなみに、浅羽通明は、浦島太郎まで遡って、時間ループを検討している。

 もちろん、すでに行われているからと言って、浅羽通明の論が正しいというわけではない。
 その点については、この後検討する。

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 じょいともさんのループ分類は、以上のようなもの。
 右側のスライドについては、時間の都合で省略されていたので、私も検討を省略する。

 左側について、じょいともさんは、ループものを3種類に分類している。

 しかし「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」の分類について、疑義が生じた。
 この物語は、

 文化祭の前日が楽しい→文化祭前日がループする

 という物語である。
 これは確かに「日常への耽溺」とも捉えられるが、一方で、それは「ラムちゃんの理想の獲得」とも捉えられる。

 では、「うる星やつら」という作品は、一体、どこに分類されるのだろうか。
 これを私は勝手に「ラムちゃん問題」と呼ぶことにする。

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 前述した浅羽通明の本でも、ループ作品を4つに分類している。
 しかし、ここでも「2つ以上にまたがる作品も多くなりました」と述べている。

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 じょいともさんも浅羽通明も、作品の分類をしておきながら、その分類に当てはまらないような作品の存在を示唆している。

 これは、2人の作った分類が「全く無意味だ」というつもりはないが、しかし、少なくとも100点満点ではないということである。

 このような事態になったのは、この2人の分類がいずれも、登場人物への心情(「理想」「悲劇」「耽溺」「ネガティブ」「ポジティブ」「楽しんで肯定する」)に依拠して分類してしまっているからではないか。

 つまり、何を「理想」とし、何を「ネガティブ」とするかは、結局は読者が決めることであり、その登場人物の心情は、原理的に読み取ることが出来ない。
 例えば、「1回目と2回目で、読んだときの感想が異なる」ということが生じるのは、そういった曖昧さ故の効果なのである。

 そして、そもそも「物語」というのは、その曖昧さこそが一つの要点ではなかったか。
 つまり、登場人物の心情に依拠して分類することは、そもそも「物語」という構造上不可能なのではないだろうか。

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 一通りの批判をしたところで、「それではお前はどう思うのか?」という話になってくる。
 そこで、ここからは「かつげん的ループ物語論」を展開していく。

 不可逆的ループは、「時間」自体は遡らない。しかし、その生産物や成果がリセットされるループである。
 例えば、賽の河原やシジフォスの神話などは、時間が遡っているわけではなく、頑張った成果が、他者によって台無しにされるという繰り返しを描いている。

 タイムトラベルは、時間の客観化によって生じた。今までは、生業と時間が密接になっていた(例えば「農業時間」など)ものが、交易などにより、客観化されるようになった。
 客観化された時間は、やがて数字で表すようになり、その性質から「時間が遡る」というイメージを喚起するようになった。
 その結果、タイムトラベルが生じたと言える。

 しかし、タイムトラベルには、タブーやパラドックスがついて回る。
 例えば「時間を遡って、自分の親を殺すことが出来るか?」という問題がある。殺すことができれば、そもそも自分の存在が矛盾した状態となってしまう。

 このパラドックスを解決したのが、多世界解釈である。

 多世界解釈は「ある行動をした自分としない自分で、世界線が分岐する」という理論である。詳細はwikiなどで見てほしいが、これを導入することにより、タイムパラドックスを説明できるようになった。
 つまり、「時間を遡って、自分の親を殺すことは出来る。しかし、それは違う世界線の親である」と説明することが出来る。

 この「辻褄合わせ」に私は納得しているわけではないが、その物語上で理論的説明が出来るようになった。
 その結果、これら3つの要素を組み合わせるような形で、近年の時間ループ作品が登場しているのである。

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 物語の構造は、おおよそスライド右部のような構図になっている。

 物語の世界は、登場人物たちが生きている世界であり、時間・分岐・階層の3軸で分けることが出来る。
 時間はループに、分岐は並行世界(多世界解釈)に、階層はメタフィクションに関連している。
 これらは、それぞれの軸に対応する関数(スライド左下)に分解することが出来る。

 また、物語の世界の外側には、メタ的世界が広がっている。
 東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)で取り上げていたのは、この部分である。

 物語の世界の登場人物が、そのメタ的世界へ視線を向ける(例えば、ever17のココのように)とする。その視線は、本来はメタ的世界への目線であるが、その矢印を延ばしていくと、そのさらに外側にある私たちの世界に達する。
 つまり、ゲームにおけるメタ的目線は、本来はメタ的世界への目線であるはずなのに、「私たちの世界のことを指しているのだ」と誤解をしやすい構造になっている。

 一方でゲームとは、私たちの世界から物語の世界を操作することではなかったか。ゲームとは、外から内への操作(視線)ではなかったか。

 つまりここでは、内から外と、外から内という(偽の)相互作用やコミュニケーションが働いていることになる。
 東浩紀が行ったゲーム分析のある部分では、このような議論が行われているのではないかと考えている。

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 時間的ループは、このような図で分けられる。まず登場人物が、そのループを理解していのるか、していないのか。
 次に、そのループは自分の意志又は希望で行えるものか、そうでないか。

 前述した「ラムちゃん問題」は、どのように解決されるか。

 うる星やつら2におけるラムちゃんは、

  ループについて途中から気づいている。
  ラムちゃんの願望が、ループを生んでいる。

 ことから、「手段」に割り振られることになる。
 では、「日常の耽溺」や「ループそのものを楽しんで肯定する」といった分類をどう捉えればよいのだろうか。

 「ラムちゃんは、ループ自体が目的なのではない」というのが私の回答である。

 ラムちゃんの目的はあくまで、「文化祭前日の楽しい日をずっと続けたい」という目的なのであって、その目的を達成するのであれば、例えば、毎日文化祭を開くことによっても可能なのである(それが実際に可能であるかはさておき)。

 だから、そもそも「ループ自体を目的にする」という目的があるとすれば、それはその先の大目標のための手段であると解するのが自然である。
 「ループ自体が目的でループする」という分類を許してしまえば、他と違うメタ的な分類になってしまい、レベルを合わせることができない。

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 さて、今まで「ループ物語論」を考えてきた。しかし、前述のじょいともさんの発表では、絵画やCMなど、物語以外の作品も分析している。
 そもそもよく考えてみれば、ループは物語のものだけではない。
 ここからは、簡単ではあるが、他の分野におけるループを考えていく。

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 音楽においても、「ループ」や「リフレイン」など、繰り返しの概念は多数用いられている。

 物語との異同は、音楽がポリフォニー的(ハモれる)であるが、物語はモノフォニーである。
 一方、始まりから終わりに向かうという方向性があることについては、物語と似ている。

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 絵画における繰り返しは、線対称などの幾何学的なパターンと言う意味での「マクロ的繰り返し」と、この右の絵のような「ミクロ的繰り返し」に分けることが出来る。

 この絵を見たときに、私たちはこの絵の中に入り込んで、初めて繰り返しであることを知る。
 この「入り込み」による繰り返しのことを「ミクロ的繰り返し」と呼ぶ。

 建築においても繰り返しは考えられるが、音楽や絵画と異なるのは、建築が私たちの生きている世界と同じ次元に存在するということである。
 音楽や絵画は、あくまで虚構的世界に存在しているが、建築はそうはいかない。

 そうなると、建築の分野における繰り返しとは、前述したマクロ的繰り返しとミクロ的繰り返しが同居するような、そういった繰り返しになるのではないか、と考えている。

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 さて、ここからは今回の試論に当たって、思いついたことを論点として挙げていきたいと思う。

 1つ目は「ループから脱出することは可能か?」である。

 登場人物がループから脱出したとしても、その先がまた異なるループである可能性があることを、誰が否定できるのだろうか?という問題である。
 ループが起こる世界とは、それだけで超常的な世界なのであって、ループから脱出したら普通の世界に戻るということ自体、よく考えればおかしな話ではないか。

 例えば、世にも奇妙な物語で「さっきよりもいい人」という物語がある。


 私は幼い頃にこれをみて、トラウマになったのだが、よく出来た物語だと思う。
 果たして彼は、いつになったらループから抜け出せるのだろうか。

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 「ループ」と聞くと、たいてい「円」を思い浮かべる。
 これは、始点と終点が一致していて、かつ、その間に線分があるときに、その最短距離であるのが円の形をしているからである。

 しかし、物語においては「円」である必要はない。むしろ、物語とは紆余曲折を経て、回り道をして描かれるものである。
 そういう意味で、物語におけるループは、むしろ「円」でないほうが良い。

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 ループには2つの面がある。

 一つは、「たった3分しかない!」というときの時間的・空間的制限からくる閉鎖性。
 もう一つは、選択肢の増加からくる開放性である。

 この2つの面は、おそらく1ループあたりの時間(1日を繰り返すのか、1時間を繰り返すのか)から大まかに分けることが出来るのではないか。

 そうすると、そのボーダーラインは、一体どこにあるのだろうか。
 また、この2つの面が共存するような物語はあるのだろうか。

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 私たちの社会において、ループは日常茶飯事に行われている。
 それは「PDCAサイクル」といった言葉が隆盛していることからも読み取ることが出来る。

 解決してもさらなる問題が生み出されてしまう社会において、前述した「さっきよりもいい人」のように、私たちは、このループから抜け出すことが出来るのであろうか。
 抜け出すことが出来たとして、どのようになるのだろうか。

雑記

 というわけで、土曜会にて発表した内容とその補足を書いてみた。

 発表の中で取り上げた浅羽通明さんにも来ていただいたようで、驚いた。
 お褒めの言葉(皮肉でなければ)をいただき、大変光栄だった。

 個人的には、別にループ論にこだわりがあるわけではないので、これについてさらに突き詰めて考えようとは思っていない。

 これまでもこれからも、書きたいことをただ書くだけのブログにしていきたいと考えています。
 何卒よろしくおねがいします。

かつげんが3月に読んだ本

遅くなりましたが、3月に読んだ本の紹介。

今月読んだ本

リーダーを目指す人の心得 文庫版
『必要だと思う以上に親切にしなさい。あなたが思うよりもはるかに強く、親切を受け取る側はその新設を必要としているのだから』
(2019年03月01日)

自治実務セミナー 2019年 03 月号 [雑誌]
『「自分は合意できない」という人間がでてきたとき、そこからすべてが始まる。』
(2019年03月05日)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
『私たちはいま、ひとつのパッケージでひとつの物語を受容するよりも、ひとつのプラットフォームのうえでできるだけ多くのコミュニケーションを交換し、副産物としての多様な物語を動的に消費する方を好む、そういう環境の中に生き始めている。言い換えれば、物語よりもメタ物語を、物語よりもコミュニケーションを欲望する世界に生き始めている。』
(2019年03月08日)

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版
ゲーテルは、何とかして命題を数で表すことができさえすれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた。いいかえれば、符号化の考えが彼の構成の中心にある。』

法学教室 2019年 03 月号 [雑誌]
(2019年03月12日)

はじめての日本近代画(京都で配布されていた冊子)
(2019年03月13日)

新超高速勉強法
『ただし、注意することがあります。この(エビングハウスの)忘却曲線は、無意味な言葉や数字をおぼえたときの結果に過ぎないことです。意味のある言葉や数字、あるいは印象深いこと、衝撃的なことは、この曲線のように忘れていくわけではありません。』
(2019年03月15日)

勉強の技術 すべての努力を成果に変える科学的学習の極意 (サイエンス・アイ新書)
『勉強できなかった理由を書くことそのものが苦痛になり、勉強するようになる。』
(2019年03月16日)

図説・標準 哲学史
(2019年03月21日)

完全保存版 できる人の勉強法
『勉強時間を確保するために、睡眠時間を削るといいますが、削る時間は他にもいっぱいあるはずです。』

ほか、仕事関連の本3冊。。。

 雑感

 試験勉強に向けて、勉強法の本を何冊か。ためになる部分もあるし、ならない部分もありました。
 結局は「やるかやらないか」なのだろうと思っております。

 今月は異動もあり、現段階では少しバタバタしております。
 いまのところ、帰宅後は試験勉強のみをしているので、息抜き程度に本を読んでいくことになるのだと思います。

 自分の読みたいものが読めないというのは、ストレスでもありますが、仕方ない。
 終わったときのことを考えながら、ちょっとずつ進めていきます。

日本財団に寄付しました!

 昨日、日本財団から、お知らせが届きました。

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 2月20日に寄付したので、前回の日本赤十字社よりもだいぶ早く、領収書が届きました。
 なぜ突然寄付したかというと、かつげんはこんなプロジェクトを(勝手に)やっているからです!

 #飲み会断って寄付 - Twitter Searchというハッシュタグも作っています。
 いまのところ、実行しているのは私だけのようですが、ブログと同じく、無理せず続けることが大事なことだと思っています。

 私も含め「寄付したいなー」と思いつつもちょっと気が乗らない方は、何かのキッカケが必要なのだと思います。
 そのキッカケの一つの選択肢として「飲み会を断ったとき」を入れていただければ、とても嬉しいです。

なぜ公務員は、4月に一斉異動するのか?

 昨日、この記事を読みました。

 「4月一斉異動っておかしいよね?」という感覚はなんとなく分かりつつも、ちょっと間違っているのではないかと思ったので、現役公務員として書いてみたいと思う。
 ちなみに、人事担当になったことはないし、勉強したこともないので、あくまで推測であることはご了承いただきたい。

 話す前の前提として言っておきたいのだが、公務員の異動は、4月だけに行われるわけではない。法律でそう決まっているわけでもない。
 ただ、大部分の異動は4月に行われている。そういう意味で「慣習」という言葉を使っている脱社畜ブログさんは、正しいと思う。

組織改正と人事異動

 まず疑問に思ったのは、公務員の異動について話題にしながら、組織改正については全く触れられていないことだ。

 4月というのは、人事異動だけでなく、組織改正が行われる。
 新しい組織が出来ると、それに伴って異動が行われる。当たり前の話である。

 なぜ4月に組織改正が行われるかといえば、予算の都合が大きいだろう。

 会計年度は4月1日から始まり、翌年の3月31日に終わる。
 これは、慣習ではなく、地方自治法第208条に規定されている。

第二百八条
普通地方公共団体の会計年度は、毎年四月一日に始まり、翌年三月三十一日に終わるものとする。
各会計年度における歳出は、その年度の歳入をもつて、これに充てなければならない。

 自治体は、この法律に則って、4月から新しい予算の下で業務を行う。

 新しい予算では、新しい取り組みを行うことも多い。この新しい取り組みに伴って、新しい組織が創設されたり、逆に不要な組織はなくなったりする。

 では、組織改正に伴う人事異動は、「特に理由のない異動」なのだろうか?

 「空いた場所に人員を補充する」という意味で、組織改正に伴う異動は、まさに「パズルのピースを嵌めることだけを目的に異動させられる」ことに当てはまってしまうのではないだろうか。(もちろん私は違うと思うが)

4月一斉異動は、逆に効率的なのではないか?という視点

 「4月一斉異動」という言葉からは、なんとなく「新卒一括採用」と似たような雰囲気を感じる。
 みんなが同じことをするし、その時期にやる理由も特になさそう。しかも、公務員。

 そう考えると、なんだか非効率な気がしてきた。
 なんとなくそういう印象を与える。

 しかし、私から見ればそれは先入観なのであって、最初から批判的な目線であるように見えてしまう。

 「異動のタイミングが4月に固定されている」というのは、職員としてはありがたいことである。

 個人の視点では、異動に向けて引継書の作成などの準備もできる。
 その人の知識や経験を共有するために、担当の割振りを考えることも出来る。

 年度の途中で変わらないから、有給や時間外勤務手当の引き継ぎなども必要ない。
 なにより、先が見えるから、色々な業務計画が立てやすい。

 逆に、年度途中で異動となれば、年度単位で行われている業務に反していることになる。
 そうなると、引き継ぎの難易度も高くなり、引き継ぎミスも増えてしまうだろう。

 こうやって考えていくと、4月一斉異動はデメリットばかりではない。

異動の目的は、果たしてどのように分かるのか?

 そもそも、脱社畜ブログさんの言う「異動すること自体が目的となっている異動」は、果たして現実に存在しているのだろうか?

 このようにして記事にされると、あたかもそのような異動が存在することが前提となっていて、少し驚いてしまう。

 例えば「異動すること自体が目的となっている」というときの「目的」とは、一体誰の「目的」なのだろうか。
 また、私たち職員は、その「目的」をどのようにして知ることが出来るのだろうか。

 異動のシステムというのは、かなり複雑である。

 市長が独断で何もかも決めるということは、まずない。
 部長や課長、職員本人の意向、来年度の組織編成、新規採用で入ってくる人の数や属性など。様々な要因によって決まっている。

 そのような複雑なシステムの中で、「職員が分かるような目的」というものはあまりない。
 それは「目的がない」ということではない。「目的があってもなくても、職員側は目的を推測するしか無い」ということだ。

 だから、例え勤続年数が長いとしても、「◯◯さんは、もう6年目だから、そろそろ異動かもね」というぐらいしか言えない。

 このような中で、異動の目的をどのようにして、正確に理解することができようか。

定期異動に対する誤解

 脱社畜ブログさんは、定期異動が行われている理由について、3つ挙げている。

 1. 人員の固定化による癒着防止
 2. ジョブローテーションによるゼネラリストの育成
 3. マンネリ化によるモチベーション低下の防止

 なるほど確かに、的を得ているような気もする。

「人員の固定化による癒着防止」について

 確かに、異動の目的には、癒着の防止もあるのかもしれない。(前述のとおり「かもしれない」としか言えない。)

 しかし、癒着の防止だけが目的で異動が行われることは、おそらく無いのではないか。

 というのも、癒着の危険のある部署とは、会計部署や契約部署だと思うが、他の部署と比べて異動回数が特段多いということは感じられないからである。
 もし、そのような理由があったとしても、おそらくそれは副次的な部分が大きい。

 また、脱社畜ブログさんのおっしゃるとおり、癒着の防止だけの理由なら、ちょちょっと異動させてしまえばいい。(人事担当部署も喜ぶだろう)
 それを行える環境にあるにも関わらず、やっていないということは、定期異動が行われている理由にはなっていないということである。

「ジョブローテーションによるゼネラリストの育成」について

 確かにジョブローテーションによって、3年~4年やったら異動するという話はよく聞く。
 しかし、その目的は、ゼネラリストの育成ではないと思っている。

 というのも、少なくともうちの役所におけるジョブローテーションは、1年目~7年目ぐらいの職員が対象であるからだ。

 ジョブローテーションの目的は、「様々な部署を経験することによって、自分の強みや希望する仕事を明確にする」ということが第一である。
 そのため、ただ無目的に異動させるのではなく、住民票の交付のような「窓口職場」の次は、部署間の折衝を行う「調整部署」などと、異なるジャンルの部署を経験させるのである。

 そうすることによって、自分のやりたい仕事を見つけ、異動希望調査や管理職との面接などで、異動希望を伝えることが出来るし、勉学に励むこともできるだろう。

 だから、少なくともわたしの役所では、「ゼネラリスト育成!」などと標榜していないし、育成もしていない。
 すべての部署を経験するのが不可能なことからも、「ゼネラリストの育成」が無理なことは分かることであろう。

「マンネリ化によるモチベーション低下の防止」について

 マンネリ化によるモチベーション低下の防止については、異動の理由として確かに挙げられると思う。

 激務で有名な部署に異動が決まったとき、よくかけられるのは「3年頑張れば、異動できるから...!」という慰めの言葉である。
 さすがに面と向かって「モチベーションが低下してきました」と言う猛者は居ないと思うが、将来異動できるというのは、一つの希望でもある。

 また、脱社畜ブログさんは、「それまで積み上げてきた能力などを放棄して」と書いているが、これは全く違う。
 今まで積み上げてきた能力や経験は、違う業務であっても必ず役に立つ。役所の仕事は、意外と繋がっているものなのである。

 つまり、3については、論理的には「どちらとも言えない」になるとは思う。しかし、働いている者としての実感としては、「デメリットが大きい」とは言えない。ただこれは、あくまで主観的判断である。

最後に

 脱社畜ブログさんのおっしゃりたいことは、なんとなく分かる。
 しかし、今回の批判については、ほとんど当てはまっていないように思う。

 冒頭に申し上げたように、私も人事担当の経験がないので、役所内部の人間としての推測でしか言えない。

 ただ、見方を変えれば、このような記事が出ること自体が、公務員の発信力不足なのであり、そういったところは恥じなければならないと思う。

新人の教育係に指名されたあなたへ

 地方自治体などでは、そろそろ異動の内示や組織改正等が発表されたことかと思います。

 今回の中身の記事では、来年度から新人の教育係(ここでは「メンター」といいます。)に指名された方へ、その準備等を私なりに書いていこうかと思います。

メンターは、新人のキャリアを左右する

 まず、メンターになった方は、自分が「新人のキャリアを大きく左右する存在である」という認識を持ちましょう。
 入庁時に新人が教わる内容は、仕事の基礎です。基礎に欠陥があれば、その上にどんなに良いものを建てたとしても、ねじれた構造になってしまいます。だから、基礎を教えるメンターは重要な役割なのです。

 また、その新人が、今後異動した先でどのような評判を受けるかは、自分の評判に直結することもあります。褒められることはあまりないかもしれませんが、「誰が育てたんだ!」と陰で評判を落としていることもあるのです。

 ですから、もちろん新人にとっても、自分にとっても、メンターとしてどのように準備し、どのように教えていくのかは非常に重要です。

新人だったころを思い出そう

  では、どのように準備をすればよいのか。

 まずオススメするのは「自分が新人だったことを思い出す」ということです。
 例えば、自分が入庁1年目だったころに使っていたメモや資料などを掘り起こしてみましょう。

 そのメモや資料を見ると、いかに自分が無知であったか、そして自分がいかに、知識や経験を積み重ねてきたかに気づくと思います。

 彼ら新人は、何も分からないのです。むしろ、入庁早々に「役所の常識」を知っていたら、恐ろしい。

 あなたの今の地位は、自分が努力できる時間と周りの人の支えがあって、初めて成り立つものです。
 その「時間」と「支え」というアドバンテージがない新人に、多くを求めてはいけません。ましてや「なんでこんなことが分からないんだ!」と叱るなんて、してはいけません。

 また「自分が新人だったことを思い出す」ことは、メンターとして新人を教える際の具体的な指針にもなりえます。

 つまり、「自分が新人だったころに周りからされたことで、嬉しかったことはする。嫌だったことはしない。」ということです。
 そういった「ポジティブ(ネガティブ)リスト」を書き出すことによって、新人に対する接し方は、ただの精神論ではなく、より具体的な方法になっていきます。

 このように、メンターとして新人に接する際は、まず新人の立場になって考えてみることが大事です。
 具体的な方法をあれこれ考える前に、落ち着いて考えてみましょう。

項目を考えよう

  自分が新人だったことを思い出したら、次は、教える項目を具体的に考えていきましょう。

 具体的な項目は、前項で述べたような「新人の頃に使っていたメモ」などを参考にするとよいでしょう。
 自分が昔つまづいた部分は、新人もつまづく可能性が高いからです。

 普段業務をしていて思いついたことでも構いません。とりあえず「これを教えよう!」と思ったことをリストアップして、まとめていきましょう。

 ちなみに、私がリストアップしていた項目はこんな感じ。

出退勤の管理、残業申請の仕方、有給の取り方、文書管理の方法、書類整理の方法、文房具のありか、コピー機の使い方、雑用のやり方、PCの使い方、メールの設定(署名など)、業務内容、1年のスケジュールと繁忙期、組織や役職の構造・・・

  まだまだありますが、詳細な内容や順番などは気にせず、とりあえず書き留めておくことが重要です。
 また、出し惜しみしないこと。知識や経験の専有は、自分の価値の向上には繋がりません。

順番を考えよう

  リストが溜まってきたら、今度はどのように教えるかを考えましょう。

 まず考えるべきは、教える項目の順番です。

 リストの内容を1日で覚えてもらうことは不可能です。
 そこで、次のような順番で整理をしていきます。

 1. その項目を大まかなジャンルに分ける。
 2. すぐに教えなければいけないジャンルと、そうでないジャンルに分ける。
 3. ジャンル内にある項目で、優先順位をつける。

 このようにすることで、教えるべき順番がある程度判明していきます。

 注意しなければならないのは、この順番はあくまで目安であって、必ずしも守らなくてよいということです。
 ここであなたが並び替えを行っている理由は、あくまで大雑把な方向性を掴むためであって、「順番どおりにしなければならない!」というルール作りではないのです。

内容を考えよう

 教える順番が決まったら、次は教える内容(=項目の中身)を考えていきましょう。

 やり方は、項目を考えるときと、ほとんど同じです。
 一つの項目の詳細な部分を広げていくような形で、教える内容を書いていき、後で順番を付けて整理していきましょう。

 ここで注意すべきは、教える内容を考える際には、内容とともにその理由や他の項目とのつながりも考えるということです。

 例えば、物品の購入などで契約業務を行う際は、様々な書類を印刷し、ハンコを押してもらうことになると思います。
 これらの「書類」や「ハンコ」は、それぞれに意味があるはずです。
 これらの意味を教えずに「そうなっているからやりなさい」と言っても、新人は納得しません。

 逆に、教える内容に理由をつけたり、他の項目とのつながりを示すことができれば、記憶の定着率もよく、芋づる式に覚えることができます。

 そして、理由やつながりを考えることは、あなた自身にとっても役立つことなのです。

 つまり、理由付けやつながりは自分の知識や経験の言語化であり、体系化であり、この作業は、ゴチャゴチャした今までの経験を整理し、頭に定着させるという意味で、とても重要です。

 教える内容を考えることは特に難しく、おそらく正解はありません。

 だからこそ、真剣に取り組んでいきましょう。

方法を考えよう

 教える項目と内容が決まったら、次は教え方です。
 色々な手段を複合的に使うべきですが、私のおすすめは、「マニュアルを作って渡す」です。

 利点としては3つあります。

 1. 付きっきりにならなくてよい。
 2. 後でアップデートが出来る。
 3. 文書に残すことで、何年後も使える。

 一番の理由は、メンターが本来抱えている業務に充てる時間を確保することです。
 教える際は、最初は付きっきりで一緒にやってみましょう。そのあとは基本的にマニュアルを見ながらやってもらい、困ったときに質問してもらう方式にしましょう。

 そうしなければ、いつまでも自立しませんし、メンター自身の負担が大きくなります。
 ちなみに、この方式を取る際は、教える前に「付きっきりで教えるのは、1回だけだからね」と宣言すると良いと思います。

 また、文書に残すことで、新人自身が使いやすく加工できますし、新人に対してだけでなく、ほかの職員に共有することもできます。

 マニュアルを作るのは大変ですが「内容を考えよう」でも書いたように、自分の知識や経験の体系化として、マニュアル作りは重要です。
 異動する際の引継ぎ書も兼ねて、作ってしまいましょう。

1対1の面接をしよう

 ここであなたに質問があります。

 そもそも「メンター」という存在は、なぜ必要なのでしょうか?

 色々な理由がありますが、大きな理由としては、3つ挙げられます。

 1. 「誰に聞いたらよいか分からない」という不安を消す。
 2. 新人にとっての「味方」を作る。
 3. 新人と他の係員とのコミュニケーションのハブとなる。

 しかし、「不安を消す」とはいっても、新人にとっては、メンターですら不安です。
 質問のタイミングや内容など、コミュニケーションの取り方が分からずに、そのまま問題を抱えてしまうこともあります。

 そこで、おすすめなのが1対1の面接です。
 面接といっても、試験をするわけではありません。

 面接の狙いは3つあります。

 1. 職場での悩みや仕事で分からないことをじっくり聞く。
 2. メンターとのコミュニケーションの取り方について、ルールを決める。
 3. 新人に対して「私はあなたの味方ですよ」と安心感を与える。

 1つ目について。
 仕事中では、新人からみればメンターはいつも忙しそうで、なかなか質問する勇気が出ません。
 そこで、周りに職員がいない面接の場を設けることで、じっくりと安心して質問を受けることができます。

 ただ、質問を受けるためには、事前に面接を予告し、聞きたいことをまとめてもらうように指示する必要があるため、その点には注意してください。

 ちなみに私は、あえて業務時間外に面接を行うことで、残業申請の仕方も一緒に教えました。

 2つ目について。
 面接では、業務中の質問のタイミングなどについて、認識を共有することも大事です。
 「忙しいときは、忙しいっていうから、とりあえず分からなかったら質問して!」などと伝えるだけで、新人は不安から脱することができます。

 最後に、安心感を与えること。
 1対1の面接は、「あなたを大切に思っているのだ」ということを、言葉だけでなく行動で示すことができます。

教えることと教わること

  以上、メンターとしての心構えや準備などを書きました。

 私の経験上、メンターというのは「新人に教えること」とともに、「新人から教わること」も多いです。
 何年も職場にいると、やはりその職場の習慣が「常識」として身についてしまいます。

 メンターになることは、職場の常識をリセットし、もう一度捉えなおすキッカケにもなります。

 「自分の仕事をしながら、メンターなんて無理だよ~」という方もいることでしょう。
 しかし、 あなたはすでにメンターに指名されてしまったのです。

 指名された以上あなたには、より能率的に、より効果的に、メンターという職務を全うしていく責務があります。
 これも良い機会だとポジティブに捉えて欲しいと思います。

 なお、新人の側から見た、以下の記事も書いています。
 参考までにご覧いただければうれしいです。