かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

紙のしおりと環境問題

 私は最近、マグネットで出来た本のしおりを愛用している。

 よくある紙のしおりは、目印になるように本から飛び出させておくと折れる。中に入れると、どこか分からなくなる。しまいには、本から落ちてなくなっていたりする。

 マグネット型のしおりは、磁石によってページを上から挟むことによって、その機能を果たす。だから、そもそも本から飛び出させる必要はないし、中に入れる必要もないし、落ちることもない。

 「素晴らしいものを見つけた!」と思って、それ以来、使い続けている。

貰ってきてしまう紙のしおり問題

 しかし、せっかく良いしおりを見つけたのに、新しい本を買うたびに、その出版社の紙のしおりが付いてくる。私には「自分のしおり」があるから、この新しく貰ってきてしまう紙のしおりの処理に困るのである。

 捨てようにも、紙のしおりには「一言辞典」や「偉人の名言」が載せられており、出版社から「捨てないでくれ!」と言われている(実際にそのような意図を持った工夫だと思う)ような気がして、捨てられない。

 その結果、特に使うわけでもない紙のしおりが、現在も机の左奥にストックされている。

本のしおりと環境問題

 さて、巷では「プラスチックごみ」の問題が盛んに提起されている。その結果、プラスチック製のストローの使用がチェーン店で廃止されたりと、かなり大きな影響を及ぼしている。
 また、レジ袋削減のためのマイバック運動は、レジ袋に対する課税という話も出てくるなど、もはやレジ袋を使わないことが常識であるような動きとなっている。

 このような流れの中で、どうして紙のしおりだけが、その批判を避けることができるのだろう。

 そう考えると、いずれは紙のしおりも無くなっていく世の中になる。そして、紙のしおりが無くなったのであれば、紙の本自体も、電子書籍の存在によりその存続が怪しくなってくる。

 「電子書籍があるのに、なんでわざわざ紙の本で読むの?」

 そう聞かれたとき、私たちは、どのように抗弁すればよいのだろう。
 私には、その答えがまだ見つからない。

感情はなぜ波及するのか

 言語は、コミュニケーションにおいて必須なツールである。しかし、そのコミュニケーションの円滑さを促進しようとして、全人類に共通な言語を作ろうとしても限界がある。

 それは言語には、全人類を覆うような水平性だけでなく、専門性によって表されるような、垂直性があるからである。
 その結果、言語は分割されてしまい、個別化していく。

 この個別化の行き着く先に、感情がある。
 感情は、基本的に個人に属する。しかし、なぜか感情は波及する。むしろ、言語よりも強力に波及することすらある。

 これは、感情というものが、コミュニケーションにおいて共有できない、極小になったときに、逆に転回が生じて普遍的になっているからなのではないだろうか。
 つまり、一人ひとりの身体は異なるが、原子レベルや遺伝子レベルでは、その成分がほとんど同じなように、極小だからこそ共通し、強力に波及するのではないだろうか。

 最近のTwitterを見ていて、そんなことを思った。

 

占いと俗世

 ある時期、私は、占いにハマっていたことがある。
 何をしてもうまく行かない時があり、藁をもすがる思いで、占いに行き着いたのだ。

 元々私は占いに対して、「どうせ当たらないし、くだらないな~」と思っていた。テレビで流れる星座占いも、話半分で聞いていた。

 ただ、占いに行ってみて、その考えは180度変わった。

予言とタブー

 占いというと、今日の運勢や未来予知などを想像しがちである。いわゆる「予言行為」である。
 もちろん、占いにはそういう部分もあるのだが、重要なのはそこではない。

 それは、占いにおけるタブーとして「寿命を占うこと」や「どの馬が勝つか」などを占えないことからも分かる。また占い師を試すようなこともタブーとされている。
 これらのタブーは「あまりにも重要な予言は出来ない」ということであって、逆に言えば「外れても良いことであれば予言できる」ということである。

 つまり、占い師側から見ても、予言行為は重要ではなくて、しかもリスクが有るということが言える。

占いは統計学なのか。

 また、最近言われている言説として、「占いは統計学である」ということが言われる。
 確かに、占い師は何百何千という人を見ていて、経験を統計学的に見ることが出来る。手相占いも「こういう手の人は、こういうことが多い」という意味で、統計学的なのかもしれない。

 しかしそれならば、統計学をそのまま適用すればよいのではないか。いちいち高いお金を払わせなくても、自らの経験を、統計学としてきちっと証明するということを行えばよいのではないかと思う。

 そういう意味で、占いは「統計学的」ではあるかもしれないが、「統計学」ではない。

占いとはなにか。

 それでは占いとはなにか。
 それは「カウンセリング」である。

 占い師は、いわゆるコールドリーディングや統計学的な自らの経験によって、その人の経験を語らせる。それによって、あるべき未来を提示する。

 占いは、このカウンセリングを行うための仕組みがある。

占いと俗世

 占い師は赤の他人である。だから、これからの人間関係を気にせずに、相談することが出来る。
 占い師側も、それをわかった上で「キャラ設定」をしている。

 つまり占い師は、「この人は、俗世にいる人ではない」ということを印象づけることが必要なのである。だから、占いをする環境、儀式的行為、仮名などの工夫を行うのだ。

 「俗世にはいない」という意味では、当然お坊さんも同様である。
 また昔で言うところの「オカマ」も、「男でも女でもない」という意味で、同じ様な立ち位置にいたように思う。

俗世とは異なるチャンネルを持つこと

 占いを受けてみて思ったのは、俗世とは異なるチャンネルを持つことの重要性である。つまりは「駆け込み寺」である。

 特に信じてもいない占いを安易に勧めるのは気が進まないのだが、しかし、どうしようもなくなったときに行き着く先を、あらかじめ確保しておくのは重要なことであると思う。

 

 実はこの記事を書いたのは、東浩紀氏がツイッターを辞めたのがきっかけだった。
 とりあえず騙されたと思って、占いに一度行ってみてはどうか。

 

芸術鑑賞に素養は必要なのか

 「アート」という存在が問題になっている。

 きっかけは、あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展 その後」の開催中止だ。
 その後、多数の作家が、この中止等に抗議し、その作家の展示を中止した。

 このブログの通り、私も見に行った。感想としては、個々の作品で素晴らしいものもあったが、全体的には中止された展示が多く、満足度は低かった。

 さて、一連の騒動の中で、「表現の自由」や「検閲」という問題が論じられている。様々な論点が次から次へと繰り広げられているのだが、話題を広げすぎていて混乱している。
 個人的には、このまま話題が拡散し、霧消していって、得たものは何もないという形に収束しそうで怖い。

 そこで、今の私の考えていることを、一度まとめてみたいと思う。

サンチャイルドを忘れたか

 そもそも鑑賞者は、作品を鑑賞して、どのような感想を持っても良いはずであり、アートの文脈を作家と共有する義務はない。もし、素養のある鑑賞者のみを対象としたいのであれば、それこそ「自費でやれ」という話になってしまう。

 税金を用いて国際芸術祭を開くということは、国内外を問わず様々な鑑賞者の存在が、初めから想定されていなければならない。その中には当然、私も含めて、素養のない者もいるに違いない。

 アート関係者は、ついこの間起きた「サンチャイルド騒動」を忘れたのだろうか。公共の場にアート作品を設置する危うさは、このときからすでに問題になっていたはずである。

表現の自由は作家だけのものか

 それぞれの鑑賞者はそれぞれの感想を持って良い。そして、鑑賞者は公序良俗に反しない限り、感想を述べたり、抗議をして良い。

 つまり「作品を表現する自由」を作家が持っているのと同じように、鑑賞者も「感想を表現する自由」を持っているはずである。

 今回の場合、この「公序良俗」が問題となっている。つまり、作家側の「不快な作品を表現してよいのか?」という問題と「不快な方法で感想を述べていいのか?」という問題である。
 どうも、この点に関する作家側の議論を見る限りでは、「不快な作品を表現するのは良いが、不快な方法で感想を述べるのは良くない」という構造になっているように見える。これでは一方通行で、妥当な議論とは言えない。

 もちろん、抗議における脅迫や暴言を許容するわけではない。それは犯罪である。
 しかし、単に「感想を表現する自由」の行使量が多いこと(=電凸)をもって批判するのは、いささか疑問である。

態勢の問題

 そして、なぜそのような批判が生じるかと言えば、結局のところ、電凸の多さに耐えられなかった運営側が、鑑賞者側へ責任転嫁した現れなのではないだろうか。
 批判が多数起こることは承知の上で、展示を決めたのであれば、それなりの態勢をとっておくべきであった。

 もちろん、すでに準備をしていたのだろう。しかし、このような大騒動になってしまったということは、事実準備が足りなかったのであり、その責任は重い。

擁護されるべき「表現の自由」とはなにか

 また、今回の騒動を理由に、展示を中止した作家も多くいた。

 例えばこれまでの経験でも、特別展などに借り出されていたり、トラブルが起きたことによって、作品が見れないということもあった。

 しかし今回の展示中止は、端的に言えば、作家の自己都合であり、その規模があまりにも大きい。

 鑑賞者はチケットを購入し、宿泊費を払い、交通費を払っている。だから、当然「表現を鑑賞する自由」を持っているはずである。

 作家は「表現の自由」を擁護するために、展示を中止し、抗議するという。

 しかし、その抗議は展示の中止という手段でしか、達成出来ないことなのだろうか。
 そして作家の擁護する「表現の自由」の中に、我々鑑賞者の存在は入っているのだろうか。

今の社会状況

 さて、昨今の社会状況において、コミュニケーションがうまく行かなかったときの責任は、コミュニケーションの発信者側にあると考える傾向にある。

 例えば、セクハラやパワハラについて、ハラスメントを行った側が「スキンシップのつもりだった」と釈明しても、逆に、ハラスメントを受けた側へ「きちんと断らなかったのが悪い」などと責めても、非難轟々となってしまうだろう。

芸術鑑賞に素養は必要なのか

  しかし、今回の騒動を見るに、コミュニケーションの発信者が責任を取る気配はない。どちらかというと「アートの素養のない日本人」とか「アート後進国」というような形で、鑑賞者にその責任を求める傾向にある。
 実際「表現の不自由展 その後」の再開後の鑑賞方法は、教育プログラムを受けた上でのガイドツアー方式だという。

 このような対策では「鑑賞者にアートを鑑賞する素養がないから、炎上したのだ」と言っているようにしか聞こえない。

 しかし、そのような結論では、例えその結論が正しいとしても、根本的な解決には至ることは出来ないし、そもそも鑑賞者に失礼である。「素養がないこと」を理由にしてしまっては、その解決策は教育しかない。そして、教育とは長い年月をかけた末に結果が出るものである。

 今回の炎上の理由は、果たして本当に「鑑賞者に素養がないから」なのだろうか。それが仮に正しいとして、それでは「素養のないものは、芸術鑑賞をしてはいけない」のだろうか。

 このような結論を求めている人が、一体どれだけいるのだろう。

技量がないから炎上しただけでは?

 では、なぜこのような炎上が起きてしまったのか。
 それは「作家が表現したいこと」と「鑑賞者に伝わったこと」の乖離が激しいからではないか。

 それでは、その乖離は誰が埋めなければならないか。
 それは、基本的には作家側なのではないだろうか。

 つまり、作家側の技量がないから炎上したのではないだろうか。

 もし、炎上することが目的(=表現したいこと)なのであれば、今回の展示は成功と言えるだろう。その場合、この炎上によって被った汚名は甘受すべきである。

 しかし、炎上が目的でないのであれば、それは(教育という意味では、過去を含めた)作家側の責任と言えるのではないだろうか。いや、仮に今回の炎上の理由が、そうでなかったとしても、そのように解釈し、責任を引き受けてこそ、アートは発展していくのではないだろうか。

 

 

自分が動けなくなったときのことを想像する。

人生の要素

 人生の三大要素は、「お金」と「時間」と「身体」だと思う。

 働き始めてすぐに思ったのは、学生時代は「時間はあるが、お金はない」のであり、社会人は「時間はないが、お金はある」ということだ。
 それを実感してから、「時間をお金で買う」ということの重要性を認識した。

 ただ、このときの要素は「お金」と「時間」だけで、「身体」というものは考えてもいなかった。いわゆる学生起業家のような若さを売りにした商売を見て、「ああだけはなるまい」と思っていたぐらいだった。

福祉と身体

 しかし、異動した先が福祉の仕事ということもあり、最近は「身体」ということについて考えることが多くなった。

 仕事柄、高齢者と話す機会が多く、それも杖をついている人や車いすの人が多い。
 脳梗塞を発症して失語症になっていたり、認知症から話が噛み合わない人もたくさんいる。

 そういう人たちを見ていると、「いくらお金と時間があっても、身体が動かなければ意味がない」と思うようになってきた。

 つまり、「身体は資本」なのだ。

動けるうちに何をするか

 もちろん「こんな夜更けにバナナかよ」のように、他人の協力の下、やりたいことをやるということも出来る。そのような生き方を否定するわけではないが、今よりも必ず制限はかかる。

 そう考えると、老後の資金などを考えて、今を切り詰めていく生活は、果たして最善なのだろうか。

 「今が、人生で一番若いときだ」と言われる。
 こうやって一つずつ、「巷で言われる陳腐なこと」を実感し、また同じ言葉で後輩に伝えていくのだろう。