かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

「誰がやってもいい仕事」を誰がやるのか?

「かつげん君のやってることって、別に君じゃなくても出来るよね」

3年ぐらい前、あるグループに所属してたとき、友人から言われたことだ。

私は当時、議論の交通整理やリマインドなどを、ボランティア的な感じでやっていた。
確かにこれらのことは、特殊な技術が必要なわけではない。
「やろうと思えば、誰でもできること」と言われれば、そのとおりだ。

私自身としても、こういうときは「誰かがやった方がいいけど、誰もやろうとしないことをしている」という自覚がある。
私の性格的な問題として、そういう場面に遭遇すると、イライラしてしまうのだ。

こういった「誰かがやった方がいいけど、誰もやろうとしない」という状況は、決定権のある上司がいないとか、決め手に欠けるときに起こりやすい。
上司がいれば「じゃあ、お前な!」と決めればいいし、「この人しかいない」という事情があれば、その人に決まるだろう。

仕事をしていても「誰でもいい」とか「どちらでもいい」ということを決めるのは、けっこう難しい。

例えば、条例改正の説明文を作るとき。
係の中で、細かい文言を話し合って決めるわけだが、なかなか決め切れないときがある。
どちらの言い方でも理由が立つし、別におかしくない。

こういう場合に、どちらを選ぶのかが、意外と難しい。
しかし、そのまま放置することもできないし、長引けば長引くほど、他の仕事ができない。

そのとき「何でもいいから、誰か決めてくれよ」という空気になる。
それを察知すると、我慢ならない私は「じゃあ私がやります」とか「じゃあこっちで」と決めてしまう。

そうやって、誰がやってもいい仕事を私が背負うこととなる。

だが、こうやって背負った仕事は、評価されることがない。
私が友人に言われたように「君じゃなくても出来る」からだ。

しかし「結局、やってるのは俺だ」と、私は言いたい。
「誰でも出来る仕事なら、なぜ君は手を挙げなかったのか?」と、今なら友人に言いたい。

おそらく世の中には、このようにして誰かが背負っている仕事が、山ほどある。
それらに対して「別に、君じゃなくても出来るよね」と言ってはいけない

むしろ、その「ちょっとした決断」に対して、適切な評価を与えなければいけない。

 

現役地方公務員が、新人地方公務員に伝えたいこと(実践編)

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動画をアップしました。

今回は「新人地方公務員に伝えたいことシリーズ」の第2弾ということで、具体的にどうすればいいのかという話をしています。

次回は、オススメの本を紹介します。
とりあえず、「新人地方公務員に伝えたいことシリーズ」は全3回で終了。

また新年度が始まったら始まったで、新人地方公務員向けの動画も作っていくつもりです。

他人の無意識を責めることができるか?

ちょっとした仕草や発言が、社会問題と結び付けられて、意味を持たされる。
ネット上の言論は、近頃、そういう傾向にある。

むしろ「ちょっとした仕草や発言を、いかに社会問題と結びつけるか?」という争いをしているようにさえ感じる。

啓蒙という観点から見ると、確かに、ちょっとした仕草や発言の中に含まれる差別意識などを指摘することによって、人間社会は社会的公正を出来るだけ果たしてきたという歴史がある。
「そうやって人類は良くなっていくものだ」と言われれば、そのとおりなのかもしれない。

しかし一方で、こういった傾向に違和感を覚えることも多い。
一言でいえば、「お前のその行動には、差別的意味がある」と、他人から意味づけされる怖さだ。

そもそも、人間に意識できることには限界がある。
今、この場で地震が起きるとか、外出したら車に轢かれるといったことは可能性としてゼロではないが、こういった可能性すべてを意識しながら、わたしたちは生きているわけではない。
つまり、可能性としてはあり得るが、その可能性をあえて想像しないことによって、無意識下に沈めることによって、人間は行動できる。

しかし、こういった他者からの行動の意味付けは、無意識でやっていた行動を叩き起こして、意識化し、意味づける。

そしてその意味付けは、決して自分ではなく、他人からなされる。
だから、本人から見れば「そんなつもりじゃなかったのに」となる。

 

全体的な議論として、「価値観をアップデートして行こう」という話は理解できる。

しかし、そもそもここで言う「価値観」とは、いったい誰の価値観なのか。
その価値観を持つ者が、なぜ特権的に相手の無意識を叩き起こし、矯正できるのか。

「他人を啓蒙していく」という特権性と暴力が、本当に「価値観のアップデート」に繋がるのか。
むしろ、そのような啓蒙のスタンスこそアップデートしていくべきではないだろうか。

 

現役地方公務員が、新人地方公務員に伝えたいこと(考え方編)

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もうすぐ4月ということで、新しく地方公務員になる方に向けて、たった6年目の私が先輩ヅラして語っている動画です。

少しだけ補足をします。

 

動画では、「何回もミスを繰り返さない」など、若干プレッシャーを与えるようなことを言っています。

新人を迎える側の立場としては、何回でもミスしてもらって構わないと思っています。それをカバーするのも周りの仕事です。
しかし、だからといって新人側が「カバーしてもらえるからいっか」と思っていいわけではありません。

「それはそれ、これはこれ」です。ミスは極力減らすべきです。

どうやって、ミスを減らしていけばいいか。
それには、自分のミスを反省して、改善していくしか方法はありません。

そういう意味で、ちょっと厳し目の話をしました。

4月になり、仕事が始まって「ついていけるか不安」と思う人もいるでしょう。
そういうときは遠慮なく、Twitterで相談してください。出来る限り(ときには厳しく)ご相談には乗るつもりです。

 

 

作者の意図を正確に伝えるための仕組みは、権力的か?

最近、ロラン・バルトの解説書を読んだ。

バルトは、作者の意図とは別に、「読者の読みたいように読む権利」を尊重する。
つまり、作者の意図を権力的なものと捉えて、それを無効化する議論をしているように思う。

確かに「読者の読みたいように読む権利」は擁護されるべきで、その権利を行使することによって新たな解釈が生まれることもある。
逆に「正しい解釈」というものがあると、「お前の解釈は間違っている」という話になるわけで、もしそれで誰かを責めるようなことがあれば、まさしく権力的といえる。

しかし、このような考えを突き詰めていけば、
「そもそも、自分の意図を正確に伝えるための仕組みは、読者にとって、すべて権力的である」
ということになりかねない。

なぜこんな事を考えるかというと、あいちトリエンナーレ後に、弓指寛治がゲンロンカフェに来て、イベントを行ったことがある。
そのとき東浩紀は、

「炎上する人は『ちゃんと見てくれれば分かる』というけど、そもそも人はちゃんと見ない。」
「弓指くんは『ちゃんと見てくれる環境を整える』のが上手い」

というようなことを言っていたからだ(大意で)。

私も、この言葉には共感する(そして今のSNS時代には必要なことだと思う)のだが、一方で、前述のような流れから見れば、「これは権力的行為なのではないか?」とも考えてしまう。

つまり「作者の意図どおりに見てもらうために、環境を整備すること」とか「意図どおりに読んでもらうために、読者と信頼を構築すること」は、権力的で、回避しなければならないことなのだろうか。

しかし、仮にそうだとしたら、作者は単なる「テクスト製造機」となってしまうのではないか。

これまで進んできた「読者の解釈は、作家の意図から自由」という考え方が、Twitterによって増幅されている。
それにはいい面もあるし、悪い面もあるが、しかしあまりに増幅しすぎていて、解釈が散乱している。

これをどうやって収拾していくか。
もう一度、作者の意図を強調していくのか、このままで良いのか、はたまた別の道があるのか。

「誰もが作者となり、読者となる」という新しい環境の中で、「作者-読者」という関係性自体を、もう一度考え直さなければいけない。