かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

言葉をキメすぎるのもあまり良くない。

Amazonの評判が良いので読んでみたが、ガックリきてしまった。

本の中身は特別なことを言っているわけではない。鶴見俊輔文章心得帖 (ちくま学芸文庫)と同じような感じである。しかしなぜこれほどまでに読みにくいのか。

思うに、言葉をキメすぎていて、文章の圧が強い。「ほら、この言葉の響きいいだろ???」と狙っている感じが透けて見える。

常体と敬体がコロコロ変わるし、文章術の話をしつつも、強調したい部分を太字にするというのもいかがなものか。全体的にチグハグで「読むのが辛い...」と久々に感じる本だった。

これも今日読んだが、こちらはいい意味で気が抜けてて、とても面白かった。イラストも雰囲気に合っていて良い。「言語学」というが、中身はエッセイ。著者は、真面目な話になると、卑近な例を出してバランスを取りたくなるのではないかと思う。その落差が、心地よかった。

新人職員から中堅職員になるために

新人の頃は、誰しも与えられた仕事をこなすだけで精一杯である。その仕事がどういう意味を持ち、どういう流れで私のところにたどり着いたのかなど、考える余裕はない。
しかし、だいたい3年も経つと、仕事のやり方も確立できて、次第に周りのことが見えてくるようになる。

この記事で紹介したBさんは、今まさにこういう状態だ。

ただBさんを見ていると気になることがある。彼は係の中でも中堅になってきて、周りから頼られている。しかし頼られているが故に、いろんな雑務を任せられる。仕事を依頼する側としては、より確実な方法を取りたいから、確実な成果を納品してくれる人に頼みがちになってしまう。

そしてBさんは、頼まれてしまった手前、断ることができずに、安請け合いをしてしまう。結果として、別に自分がやらなくてもいい仕事を抱えてしまう。
今はまだ安請け合いをして仕事がパンクするということはなさそうだが、将来的なことを考えると「仕事を安請け合いしないこと」や「他人に仕事を任せること」などに慣れておいた方が良いのだろう。

ただ実際、一通り仕事ができるようになると、「仕事ができる自分」に甘えてスタイルを変えられないことも多い。その結果、いつまで経っても仕事の任せ方が分からず、「自分がやったほうが早い病」に罹患してしまう。

 

以前、仕事をする上での責任感について文章を書いたことがある。

責任を引き受けること - かつげんの拠り所

このような責任感は、今でも大事だと思っている。しかし、担当に責任があるというのは、仕事を一人で全部やれということではない。責任さえ取れば、他の人に仕事を振ってもいいし、無理だと思えば仕事を断ってもいい。そこを取り違えて「私が担当なんで!」とか「責任があるんで!」と"真面目"にやる必要はない。

結局は自分の身に降りかからないと分からないから「仕事がパンクする」という経験を一度してみるのも良いかもしれない。
ただ、いずれにしろ、何でもかんでも仕事を受けるとか、間違った責任感に駆られて仕事を抱えるのは、自分の身を守るためにも卒業しなければならない。
この卒業は、責任の放棄ではなくて、むしろ責任があるからこそ、卒業しなければならない。

ただ難しいのは、こういう考えをいかに教えるかということだ。後輩に教えるという意味では、私もまた、試されているのかもしれない。

 

「なぜ仕組みにこだわるのか?」という問いと、その答え

Twitterで「自分が居なくても仕事が回ることを目指す」ということを話したことがあって、それについて考えてみたい。私が言いたいのは、次のようなことだ。

1. 特定の人に依存した仕事を避けたい
2. 業務の方法や経過を形として残したい
3. 体系的に業務を構成することで、業務に対する理解を深めたい

特定の人に依存した仕事を避けたい

まず1について説明すると、例えば「介護保険のことだったら○○さんに聞け」という慣習があったとする。私はこの状況があまり好きではない。その人から介護保険制度のことをいろいろ聞いて、文書にして共有した方が絶対に良い。

なぜなら、第一に、知識や技能を特定の人が抱えることによって、その人がいなくなったとき(異動・休暇・病欠のとき)に誰も分からなくなる。第二に、体系化されていないがために、その知識や技能が適切かどうかの検証がしづらい。

第三に、業務の効率化という面も挙げることが出来る。特定の人が知識や技能を専有することで、その人は同僚から頼りにされ、部署内での政治的影響力を増すことが出来る。だから、知識や技能は専有されやすい。しかし基本的に、同じ仕事であれば一人でやるより、複数人で手分けしてやる方が効率的だ。例え一人でやる方が早いとしても、複数人で出来るという選択肢が存在していた方が良い。

だから、業務効率化のためには、知識や技能の専有状態を崩し、共有されていた方が良い。

業務の方法や経過を形として残したい

次に2について説明したい。業務においては、イレギュラーな問題に接することも多い。例えばいくつかの対応方法があって、どれが良いかで迷っているとする。このときに「私は、こっちの方が良いと思う!」という個人のセンスで決めてしまうのは無責任である。クリエイティブ職ならまだしも、公務員たるもの、まずは前例を参照しなければならない。

そのとき「そもそも前例が記録として残っているのか?」は重大な問題だ。残っていなければ、そもそも参照できないわけだから、根拠をゼロから調べていくしかない。

まさに公務員における文書主義の話だが、当時の経緯が記録が残らず、ある職員の“記憶”だけを根拠に対応することは、やはり望ましくない。そもそもせっかく当時調べたことが後世に受け継がれないのは、もったいないことだ。当時の記録が残っているかどうかはゼロかイチかであり、両者の差はたった1だが、かなり大きな差である。

だから、個人の経験や記憶だけにとどめておかず、それを共有できる状態にしておくことというのは、当たり前だが、重要なことである。

 

ちなみに、ここで言いたいのは「前例に従わなければならない」ということではない。当時と今では状況も違う。前例に従うだけでは、進歩はない。私が言いたいのは、過去に同じような問題が起こっていたときに「どのような状況で、どのような根拠で、どのような判断をしたのか」が分かれば、少なくともイレギュラーな問題を解くためのヒントにはなるということだ。

前例を参照したうえで「当時はこういう状況だったけど、今はこういう状況だから、こういう判断をしよう」という考え方をしなければならない。(おそらく我々より”前例”を重んじる皇族でも、同じような考えで動いているという話が侍従長の十年半 天皇家の執事 (文春文庫)に書いてあったような気がする。)

前例は根拠ではない。あくまで参照するものであって、ヒントにしかならない。

体系的に業務を構成することで、業務に対する理解を深めたい

次に3について説明したい。これまで、ある個人が専有していた技能や知識を共有するには、文書、図、写真、映像など、なんらかの形にする必要がある。これは、個人の経験や記憶を元に客観的な記載をすることが求められる。

このような作業を行った者は、体系的な業務の理解が進む。人に伝わる形に落とし込むことによって、感覚的に理解していたことを言語化する必要があり、自分の業務のMECEを意識することになる。また、そのような作業を通してできた文書等を共有することで、当然、同僚の理解も進むだろう。

もちろん、どのぐらいまで理解が進むかは、共有する形や内容による。例えば、「単に手順だけを追っていけば業務が出来るだけのマニュアル」を作ってしまえば、業務は出来るかもしれないが、理解は進まない。ある銀行員が前任者からマニュアルを引き継いで、その通りにやっていたら、実はそれが違法なやり方だったという話を聞いたことがある。

ここまで極端な話は、現実には少ないかもしれないが、マニュアルを作ることによって「今私はどういうことをしているのか?」という理解を阻害してしまう面はあるだろう。だから、マニュアルを作るのであれば、手順だけを書くのではなく、「なぜそれをやるのか?」「なぜその手順なのか?」といった理由や「その業務を行わなければならない背景」などは盛り込んでおくべきだろう。

仕組みに”こだわる”理由

ここまでは、どちらかといえば客観的な話で、カッチリした話だった。しかしここからは、もっと主観的な方向で、「なぜ私は仕組みにこだわるのか」を考えていきたい。

まず「なぜ私は仕組みにこだわるのか?」という問いについて。この問いに対する答えは「自分が異動しても、仕事が回るように」という利他的な動機ではない。そもそも、こういう利他的な動機を私はあまり信用しておらず、「結局は自分のためでしょう?」と思っているフシがある(それが悪いと言っているわけではない)。

もし「自分が異動しても…」に近い動機があるとすれば、それは「この仕組みを作った方が、絶対に効率が良い」という確信だ。逆に言えば「なんで、わざわざ効率の悪いやり方で仕事してるの?」と思っている部分について、仕組みに落とし込んで改善していきたいという気持ちを持っている。

簡単に言えば、“おせっかい”なのだ。

私の人間理解

そもそも私は、(私も含めた)人間に対する理解として「心ではやろう思っているけど、実際は面倒くさくてやらない生き物だ」と考えている。人間は、自分からは手を挙げないが、どこかできっかけを欲しているし、“段取りをつけてくれる人”を求めている。

「心ではやろう思っているけど、実際は面倒くさくてやらない生き物だ」という前提を逆に考えると、「きっかけを与えると、意外と変わることがある」し、「1度仕組みを作ると、なかなか変わらない」ものだと思っている。

こういう状態を私は「もったいない」と思ってしまう。みんなが改善したいと考えているのに、誰もそれを言い出さないということだけで、改善されない。「じゃあ面倒くさいことにあまり抵抗のない私が、キッカケを作ろう。」そういう感覚で、私は“おせっかい”をすることが多い。また、そうやって動き出さないまま我慢することに、消化不良感を覚えるということもあるだろう。

あれこれ改善に動くことには、当然弊害もあって、まず“出しゃばり”であることは確かだ。「俺がきっかけを作る」という考え方自体、極めて横柄だと思う。また「みんなが改善したいと考えている」と言うが、実際は違うかもしれないし、実際に動き出しても必ずいい結果をもたらすわけではない。

だが、後に話す私の気質などを考えたときに、私には、この“おせっかい”や“出しゃばり”が向いているのだと思うし、多少弊害があっても意味があると思っている。

また、私には地頭がないから、道具や仕組みをフル活用して、自分の能力以外で勝負していかないと仕事を進めることが出来ない。マルチタスクが出来ないので、シングルタスクに切り分けて、優先順位をつける。ケースと話すのが苦手で、聞こうとしたことを忘れたりする。だから自分専用の質問票を作って備える。これまでそういうことをやってきて、ようやく人並みに仕事が出来るようになってきた。

これまでつらつら書いていることは、個人でやってきたことを同僚や組織に延長させているだけである。

経験を増やそうと思ったキッカケ

そもそも私は、何か問題が起こったときに、それを分析して改善するという営み自体が、好きなのだと思う。トラブルや予想外が(嫌だけど)好きなのだ。

なぜなら「問題→対策を考える→改善」というサイクルをこなしていくことが、自分の知識や経験を増やすのに、一番手っ取り早いからである。というよりむしろ、このような方法(そもそもこれは「方法」と言えるのだろうか?)によってでしか、自分の経験は増えない。また「こういう経験を率先して増やしていかないと、さもしい人間になるのではないか?」という恐怖心も同時にある。

なぜそのような考えに行きついたのか。

きっかけは、一つには自分が病んでいたころに行った占い師に「結果が予想できたとしても、経験してみることが大事」と言われたこと。もう一つは約3年前に行ったチェルノブイリツアーに行ったことだと思う。

占いと俗世 - かつげんの拠り所

素人がチェルノブイリと福島に行ってきた(その1) - かつげんの拠り所

そもそも、チェルノブイリツアーに行ったこと自体、「経験してみることが大事」という占い師の言葉の影響があったと思う。

チェルノブイリツアーに参加して思ったのは、「世の中にはいろんな人がいる」ということ。チェルノブイリ云々ということも当然勉強になったが、それよりもチェルノブイリツアーに集まる多種多様な人々(こんなツアーに集まる人は、どう考えても「多種多様」だろう。)に、「自分が住んでいる世界はいかに狭いか」ということを思い知らされた。

それからは「自分の知らない人や空間が、私の外にはもっと広がっていて、それは積極的にチャレンジしていかないと経験できない」と考えるようになった。

 

客観的な理由を色々と建てることはできるけれど、最終的には「私の気質や好きなことの結果として、仕組みにこだわっているのだ」というところに帰結する。一言でいえば「趣味でやってる」ということだろう。それで良いと思うし、それが良いと思う。

 

Twitterで地方公務員を名乗って、文句ばかり言う人

地方公務員を名乗っているTwitterアカウントは、今や数え切れないほど存在する。いろいろな趣のアカウントがあるが、残念なことに、いつも文句ばかり言っているアカウントがある。

たまに自分のタイムラインに流れてきて、「どんな人かな」とアカウントの投稿を見てみると、愚痴や文句ばかりが並んでいる。「あぁ『そういう人』なんだな」と思って、その度にミュートしている。放置しても良いのだが、そういうツイートは見るだけでもエネルギーを浪費してしまうから、直接的に絡んだことはなくても、先にミュートするようにしている。

人がどんなことを発言しようと自由だが、個人的な思いとしては、「文句ばかり言っていると、地方公務員の評判が悪くなるから止めてくれ」と思う。

 

さて、文句ばかり言う人の発言を見ていると、色々考えることがある。

まず、彼らのツイートは意外と「練られている」ということだ。おそらく、彼らは怒りの感情が伝播しやすいことを知っている。バズらせたいために、怒りや愚痴を主体にした発言をしているのだろう。だから、彼らのツイートをよく読むと「共感してほしい」や「愚痴を聞いてほしい」といった素朴な目的ではなく、「どうやっていいねを稼げるか」や「どうツイートすればバズるのか」というゲームをしているのが分かる。

次に、彼らの発言は、どこか他人事な雰囲気が漂うのが特徴的だ。Twitterでは強い口調で文句や愚痴を言うが、事件の起こったその場で言い返したり、問題を改善しようという気概が感じられない。私から見れば「で、あなたは何か改善しようとしたの?」と言いたくなるツイートも多い。

ところで「現実」という言葉について、丸山真男は、こんなことを言っている。

いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等値されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。(丸山眞男セレクション 247)

その場で言い返そうとか、改善しようという気概が見られないのは、このように現実を「与えられたもの」でしかないことを暗に示したいのかもしれない。「現実だから仕方がない」と言いたいのかもしれない。しかし、その捉え方は極めて一面的な捉え方ではないか。理不尽な現実が襲いかかったときに、私たちが言い返すのも現実だし、改善するのも、また現実ではないのか。現実には、与えられる面だけではなく、私たちが作り出せる創造的な面があるのではないか。

最後に、彼らは「職場で理不尽なことが起こってほしい」とか「同僚はバカで居てほしい」という、いわばマゾヒスティックな感情を抱いているという点を指摘したい。もし彼らの貢献が認められたり、同僚がいい仕事をすれば、職場の文句が言えなくなり、優越感に浸れない。だから彼らは逆に、仕事で理不尽なことが起こって欲しいのである。

こういう心象は、共依存の人によく見られる。例えば、DV夫と被害者の妻という関係で、妻をシェルターに案内しても頑なに拒否することがある。なぜか。

それは妻が「こんなDV夫を支えてあげられるのは、私しかいない」というアイデンティティを持っているからである。シェルターに避難することは、妻にとっては、DV夫を見捨てることであり、今まで自分を支えてきたアイデンティティを剥奪されることなのである。

同じように、もはや彼らは、仕事を見下していて、その文句をいうことに社会的なアイデンティティを見出している。だから、Twitterに愚痴を垂れ流すことから抜け出せない。普通に考えて、そんなに仕事が嫌なら、仕事を辞めるだろう。しかし、それを辞めない(ひどい人は、辞めてなお文句を言う)のは、そこにアイデンティティを見出していると考えるのが自然だろう。

彼らは、共感してほしいのではなく、リツイートやいいねがほしいだけだ。寄り添っているような発言は、「こういうことを言えば、お前は反応するだろう?」という見下しでしかない。だから私たちは、何も反応せずに無視するのがいいのだろう。少なくとも、彼らのツイートに共感したところで、現実は変わらない。

 

面倒くさがった結果、より面倒くさいことになる

生活保護の仕事をしてると、面倒くさいケースに遭遇する。その人の生活歴や障害などを見ると、しょうがないなと思うこともある。両親から虐待されたなんてケースを見ると、可哀想に思うこともあるぐらいだ。

ただ、ケースワーカーのなかには、そういった背景を見れないがために、ケースを上手く許せない人もいる。「背景がどうであれ、私の仕事を増やすケース」と考えてしまう。

こういうケースワーカーは、仕事を表面的にしか捉えられない。「なぜこの人は、こういう行動を取ってしまうのか」と深掘りしない。逆に言えば、表面的に事件が収まれば、それでよいと考えがちである。

しかし、表面的に事件が収まったように見えても、水面下では重大な事態が動いていたりする。例えば、精神疾患で服薬管理が出来ておらず、引きこもりがちになり、通院もしていないということが、たまにある。このような場合、ケースワーカーから見れば、家の中で何が起こってるのかは知る由もないから「便りがないのは良い便り」として、現状をわざわざ把握しようとしない。

その結果(ケースワーカーから見れば)突然、ケースが自殺企図をしたり、夜中に大声を出したりする。そして、騒動に巻き込まれたケースワーカーは、「また面倒なこと起こしやがって」と思うのである。予兆はあったはずなのに。

問題ケースに対して、出来るだけ深く関わりたくないという気持ちは分かる。だいたい2~3年経てば担当も交代するから、その間を乗り切れば良い、という思考になるのかもしれない。その結果、表面的な対処だけで済ませてしまうのだろう。

ただ、そういう思考は、さらなる大きな問題を引き起こすことが多い。問題を表面的に処理することは、対処に一貫性がないのと同じだからだ。問題が再燃すると、「この前はAと言ってたのに、今度はBと言うのはおかしい!」などと、むしろ問題が複雑になってしまうことだってある。

ケースは一貫性のなさに敏感だし、こうなってしまっては信頼関係も築けない。「アイツラは俺のことをバカにしてる!」と激怒されても、文句は言えないだろう。

問題が起きてから対処するのは、体力的にも精神的にも辛いことが多い。辛い状況では「今この問題さえ乗り切れれば」という狭い視野に陥り、正確な判断が出来ないこともある。だから、ケースのためにも、ケースワーカーのためにも、問題が起きる前に芽を摘み取っておく方がよい。

ただ、言葉では簡単だが、実現するのは難しい。

何しろ相手は人間であり、思うように動かせるものではない。頑張ったところで、望むような結果が出るとは限らない。むしろ裏切られることのほうが多いだろう。しかし、やるべきことをやり切ることで「どこまでが自分のやるべきことなのか」という境界は、よりハッキリしてくるし、「私はやるべきことをやった。あとは相手次第だ」と気持ちが楽になる効用もある。

「面倒くさがらずに、やるべきことをやり切る」というのは、精神論的で陳腐なスローガンかもしれない。しかし、結局はこのように言うしかないのではないか、と思っている。