昔は東浩紀が好きだった。
「じゃあ今は?」と聞かれれば、「好きでも嫌いでもない」と答えるだろう。
なぜこのように変化したかといえば、彼はよくTwitterで炎上しているからだ。引用RTで相手を晒して「ブロックしますね」とわざわざ"通告"することもある。
どのようにTwitterを使おうが自由なのだが、文面を見てイライラしているのが分かるし、頻度としてさすがに炎上しすぎだなと思う。炎上の発端も、彼の「安易な言及」に依るものが多い。
彼が炎上しがちなのは、批判されている渦中の人や物事について、その一部分を限定的に擁護することが多いからである。
例えば、
いろいろ取り沙汰されていた黒瀬深について、
ぼくは黒瀬深氏の挨拶に答えただけ。それ以上の交流も言及もないし、日々無数のアカウントに似た返信を返している。こういうのをいちいち掘り出して何か言った気になっている人々は、本当におかしいと思います。
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) 2021年11月12日
といったり、
小山田圭吾について、
ぼくはまったく擁護派ではないんだけど、いじめがあったのは25年前ではなくおそらく35年くらい前で、それについて語ったのが25年前、しかも当時の出版・メディアの常識はいまとは全然違っていて雑誌の特性上大袈裟な可能性もある。
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) 2021年7月15日
と呟いても、こんどはぼくが炎上するだけなんだろうけど・・・ https://t.co/wXgwdomN6M
といったり。
つまり、「この人は批判されているが、ただこの部分は理解できる」と擁護したり、「ただそうしただけ」と意味を限定させるのである。そして「擁護している!」と感情的な批判が寄せられたり、あくまで限定的な擁護であることを理解できない批判が寄せられると、引用RTをして再批判した後、ブロックする。
彼としては「正しいことを言っているのに、なぜ炎上するのか?」という気持ちかもしれない。しかし、私から見ると「なぜそんな危なっかしいことをわざわざするのか」と、不思議に思う。
同じ内容を発言するにしても、いわく付きの人をダシにすることはない。もっと「マシな人」を選べばいいのに、わざわざ火中の栗を拾うようなことをする。
おそらくこのような"手癖"は、彼が批評家であることからくるのだろう。批評の機能は、今までになかった解釈の道を見つけて、指摘することである。そのような批評は、今まで注目に値しなかったようなものにあえて注目し、新たな解釈が生まれる「価値を逆転させる批評」であればあるほど、面白いだろう。
彼はこういう態度を、現実のニュースや物事にも適用しているのではないか。つまり、世間で批判されている人や物事に対し、新たな見方を提示し、擁護することで、逆転を狙っているのではないか。卑しい言い方をしてしまえば「逆張りの快楽」に浸ってしまっているのではないか。
こういう態度が正しいか間違っているかは、言及されている内容による。しかし、
観客はたしかにゲンロンの活動に注目してくれます。うちが出すコンテンツも買ってくれます。でもつまらなくなったら買ってくれないし、店にも足を運ばなくなる。観客とのあいだにはそのような緊張関係があります。それが大事です。『ゲンロン戦記』(251)
と書いている中で、こういう態度に「緊張関係」があるのかどうかは考えなければいけないだろう。
例えば、ゲンロン現代表の上田さんはそれほど炎上していない。おそらく、腹を割って話したいことも山ほどあるだろうが、炎上案件には容易に触れず、理知的な態度でTwitterをやっているように見える。
せっかくシラスを作ったのだから、リスクのある発言はシラスで話し、Twitterでは配慮したことを言えばよい。
これを読むかぎり、そのような理由でシラスを作ったのではないかと思うのだが、彼自身はあまりそういう区別はしていないようだ。
Twitterをどのように使うかは、個人の自由だ。しかし、不用意な炎上をすればするほど、人は離れていくと考えるのが常識だろう。
私から見ればこのような炎上癖が、ゲンロンやシラスの足を引っ張っているように見える。彼は「そのような(※会社経営の)経験を経てついに「大人」になった」と、ゲンロン戦記で語っているが、その謙虚さはいまや失われている。
「シラスで儲かっているから、離れたい人はどうぞ」というのなら、もはやそれでいいのだが。