かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

東浩紀の炎上パターン

昔は東浩紀が好きだった。

「じゃあ今は?」と聞かれれば、「好きでも嫌いでもない」と答えるだろう。

なぜこのように変化したかといえば、彼はよくTwitterで炎上しているからだ。引用RTで相手を晒して「ブロックしますね」とわざわざ"通告"することもある。

どのようにTwitterを使おうが自由なのだが、文面を見てイライラしているのが分かるし、頻度としてさすがに炎上しすぎだなと思う。炎上の発端も、彼の「安易な言及」に依るものが多い。

彼が炎上しがちなのは、批判されている渦中の人や物事について、その一部分を限定的に擁護することが多いからである。

例えば、

いろいろ取り沙汰されていた黒瀬深について、

といったり、

小山田圭吾について、

といったり。

つまり、「この人は批判されているが、ただこの部分は理解できる」と擁護したり、「ただそうしただけ」と意味を限定させるのである。そして「擁護している!」と感情的な批判が寄せられたり、あくまで限定的な擁護であることを理解できない批判が寄せられると、引用RTをして再批判した後、ブロックする。

彼としては「正しいことを言っているのに、なぜ炎上するのか?」という気持ちかもしれない。しかし、私から見ると「なぜそんな危なっかしいことをわざわざするのか」と、不思議に思う。

同じ内容を発言するにしても、いわく付きの人をダシにすることはない。もっと「マシな人」を選べばいいのに、わざわざ火中の栗を拾うようなことをする。

おそらくこのような"手癖"は、彼が批評家であることからくるのだろう。批評の機能は、今までになかった解釈の道を見つけて、指摘することである。そのような批評は、今まで注目に値しなかったようなものにあえて注目し、新たな解釈が生まれる「価値を逆転させる批評」であればあるほど、面白いだろう。

彼はこういう態度を、現実のニュースや物事にも適用しているのではないか。つまり、世間で批判されている人や物事に対し、新たな見方を提示し、擁護することで、逆転を狙っているのではないか。卑しい言い方をしてしまえば「逆張りの快楽」に浸ってしまっているのではないか。

こういう態度が正しいか間違っているかは、言及されている内容による。しかし、

観客はたしかにゲンロンの活動に注目してくれます。うちが出すコンテンツも買ってくれます。でもつまらなくなったら買ってくれないし、店にも足を運ばなくなる。観客とのあいだにはそのような緊張関係があります。それが大事です。『ゲンロン戦記』(251)

と書いている中で、こういう態度に「緊張関係」があるのかどうかは考えなければいけないだろう。

例えば、ゲンロン現代表の上田さんはそれほど炎上していない。おそらく、腹を割って話したいことも山ほどあるだろうが、炎上案件には容易に触れず、理知的な態度でTwitterをやっているように見える。

せっかくシラスを作ったのだから、リスクのある発言はシラスで話し、Twitterでは配慮したことを言えばよい。

これを読むかぎり、そのような理由でシラスを作ったのではないかと思うのだが、彼自身はあまりそういう区別はしていないようだ。

Twitterをどのように使うかは、個人の自由だ。しかし、不用意な炎上をすればするほど、人は離れていくと考えるのが常識だろう。

私から見ればこのような炎上癖が、ゲンロンやシラスの足を引っ張っているように見える。彼は「そのような(※会社経営の)経験を経てついに「大人」になった」と、ゲンロン戦記で語っているが、その謙虚さはいまや失われている。

「シラスで儲かっているから、離れたい人はどうぞ」というのなら、もはやそれでいいのだが。

 

iDeCoそんなにいいか?問題

NISAという単語は、もはや一般化していると言ってよいだろう。

私自身もやっているが、周りにも株式投資投資信託をやり始めた人もいて、若い人の間では、かなり広まってきていると感じる。

しかし、NISAと共に宣伝されているiDeCoについては、手を出していない。そもそもiDeCoは「年金」である。今から投資信託を利用した積み立てをしておいて、定年後に引き出される。そして定年までは引き出すことが(基本的には)出来ない。

定年は、20代~30代から見れば、まだまだ先の話である。今から30年前に、現在の状態が予測できないように、定年までの間にどのような社会情勢になるのかは予想がつかない。もしかしたら、iDeCoという制度自体がなくなるor縮小されることだってあるだろう。

そういった何が起こるか分からないリスクを抱える中で、引き出すことが出来ないというのは、かなり危なっかしいことのように思う。ということで、私はiDeCoではなく、積立年金をちょくちょく貯めている。社会情勢に左右されることはiDeCoよりは少ないだろうし、何より途中で引き出せる。

若い人にとって見れば、iDeCoという制度はメリットが有るとはあまり思えない。40代になって、「積立年金にプラスして貯蓄したい」というときに考える程度かなと個人的には思っている。

やりたいことは、やってみて分かる

大学へ進学するとき、私は政治系の学部を選んだ。小さい頃からなぜか政治家になりたかったし、前からそういう分野に興味があったのだろう。しかし、その中で勉強したのは、政治理論や政治思想ではなく、NPOだった。なぜなら私が入学した年は東日本大震災が起きた年で、理論や思想ではなく、公共的なものへの具体的な支援方法を勉強したいと思ったからだ。

もちろんNPOを学んでよかったこともたくさんあった。しかし今となってはこのような選択をしたことを少し後悔している。

というのも、私は結局、NPOの対極とも言える地方公務員になるわけだし、大学は理論や本筋を勉強するためのに適した場所であって、実学的な部分はむしろ社会に出てからの方が、勉強する機会が多いからだ。

またNPOに興味を持ったのは、今思えば”一時的な"興味であったということもある。もちろん今でも震災のことは考えるが、「大学でなにを勉強するか?」という重要なテーマを、突発的な出来事によって動かされた心情で決めてしまった感は否めない。

ただこういった後悔は、結局のところ、後になって分かることである。だから後悔しつつも、同時に「自分のやりたいことが分かってよかった」とも思う。「私は哲学や政治思想の分野が好きなのだ」と改めて思い直すことになった。

なかなか人生難しいもので「適切な選択」というのは、その選択を前にしては分からず、振り返ってみて「あー、あれが適切”だった”のだ」と分かるものなのかもしれない。

 

「分かるやつだけついて来ればいい」では、誰もついていかなくなる。

平沢進は、何を言っているのかを明確にしない書き方をする。しかし「一方ネオナチにせっせと募金するグロテスクな善意たち。」という文は、明らかに現在のウクライナ情勢について話しているし、ウクライナをネオナチと言っているようにしか読めない。

そもそも「ネオナチ」という単語は、非常に強い意味を持つ言葉である。特に昨今の情勢では、この言葉を使うことは危険だと言ってよいだろう。例え私の解釈が間違っていたとしても、誤解されるだけの表現をしているのではないかと思う。

普段は、あいまいで形而上的な言葉を使う平沢が、今回なぜこのような言葉を使ったのかよく分からない。自分の意見があるにせよ、もっとぼやかした言い方をすればよかった(というか前半の文で終わらせればよかったのに)、そこで終わらせることが出来なかったのだろう。感情的に、どうしても後半の一言が言いたかった。というかむしろ、このTweetは、その最後の一言を言うためにこしらえたのかもしれない。

そしてこのあとに、

と言っているけれども、「学ぶチャンス」などというように、どうも上から目線な感じが目立つ。

「平沢ワールド」というのはたしかにある。その世界観は音楽自体もそうだが、本人のキャラや言葉から構築されている。それがファンを生み出しているといってよいだろう。そしてその根底には「分かるやつだけついて来れればいい」という考えがある。

エヴァンゲリオンもそうだが、難解なものはインターネットで好まれる。「俺だけが本当の意味を分かっている」というマウントを取りやすいからである。こういった習性を活かしているのが「平沢ワールド」と言えるだろう。

しかし、今回については「分かるやつだけついて来れればいい」という考えが仇となっているような気がしてならない。

「平沢さん、今回のはさすがにマズイですよ」と指摘してくれるファンや関係者がいてほしいなと思う。

 

お年寄りは、なぜ「死ぬのは怖くない」と言うのか

生活保護の仕事では、かなりの頻度で高齢者と会って話をする。今は難しいが、コロナ以前は世間話もしていた。その中で気になったのが「俺ももう長くないから」とか「もう死んだほうがいいね」と話す人が、かなりの数で存在するということだ。

私は死ぬのが怖いし嫌なので、そういう死に関する発言をすること自体も、避ける傾向にある。しかし高齢者の少なからぬ人たちは、むしろ積極的にそういう話をしたがる。「死ぬのが怖くないんですか?」と聞けるわけはないので、本心は分からないが、死に対する恐怖が私より少ないことは想像できる。

こういう話を聞くたびに「なんで高齢者は死が怖くないのだろう?」と不思議な気持ちになる。よく言われるのは「歳をとったら、死が怖くなくなる」という話。たしかにそういう傾向はあると思うが、「この私=かつげん」について同じことが言えるかは分からない。私からみれば、「死は救い」とか「信じる者は救われる」というタイプの話にしか聞こえないのだ。

しかし、最近なんとなく「歳をとったら、死が怖くなくなる」という理由が分かるような気がしてきた。というのも、彼らは「死ぬのが怖い」のではなく、「自分の身体が動かなくなるのが怖い」のではないか?と思ったのだ。

老化とは、以前は出来ていたことが出来なくなっていくことである。ピークをすぎれば、生きれば生きるほど「あれも出来なくなった。これも出来なくなった。」ということを実感することになる。老化と向き合うことは、かなり辛いことなのだろう。
このように、高齢者が「死は(老化からの)救いなのだ」と考えていても不思議ではない。

翻って自分のことを考えてみると、私のような若い人は「現在の自分」と「死」を直接的に結びつけやすく、その間に「老化」という現象があることが抜け落ちやすい。だから、なんでも出来る現在の自分が、突如「死ぬこと」によって出来なくなってしまうことに恐怖を覚える。

しかし、実際には「死ぬこと」はもっとゆるやかな現象なのかもしれない。むしろ私たちは「常に死にゆく存在」なのだと言えるだろう。もちろん病気や事故で、突如不幸が起こることもあるだろうが、多くの場合は、老化する自分を実感することになる。

若い人は、老化を忘れがちである。それを思い出すことで、もしかしたら死の恐怖は和らいでいくかもしれない。

いや、その代わりに老化を恐れるようになるのかもしれない。