かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

加害者になる勇気

自分の気持ちや要望を伝えずに、「周りの人が自分の気持ちを察するべき」と思っている人がいる。

それで周りの人が察してくれればよいが、自分の思うままに動いてくれないと「なんで察してくれないの?」と逆ギレする。または、気持ちは察したものの、その手段が不適切だと「うわ、キモ…」なんて言われてしまう。

こういう人は、自分からは動かないことによって、被害者の側に回ることができる。なぜなら、積極的な行動をするのは常に周りの人で、自分は受け身に回ることで、周りの人の積極的な行動の加害性が目立ってしまうからである。

何もしないという行動は、そもそも目立たないし、「しないのではなく、出来ない」とか「私が悪いのではなく、社会や環境が悪い」という言い訳も立ちやすい。

そうやって被害者の側へ引きこもるのは楽だし、特に最近は、社会全体にそういう傾向が有るように見える。

しかし、本当にそれでいいのだろうか。互いに不干渉で、誰かに何かをしてもらったり、誰かのせいにするのが当たり前になっていいのか?と思ったりする。

積極的に行動するということは、それだけ目立ちやすいし、自分がそれを行うことで嫌な思いをする人も出てくる。そういった人を減らす努力はすべきだが、被害者をゼロにはできないだろう。

しかしだからといって、何もしないという訳にはいかない。被害者のままでは、いつまでも周りの"加害者"に振り回され、そして暗に振り回されることを望み、人生の主導権を他人に握られたままなのである。

自分の人生を主体的に作っていくには、加害者になる勇気が必要だ。そしてそれに伴って発生した責任を引き受けることが必要なのだ

 

アイデアを出すことと、それを実現すること

うちの係にタブレットが支給された。DX推進の一環らしい。

「支給された」といっても、同じ課の他の係には支給されているのに、なぜかうちには支給されていないということが分かり、「うちにもくれ!」と要望したのだ。

こう簡単に書いたものの、うちの係にタブレットが届くまでには、

① 私の所属している係の係長に話をする
② DX推進担当の係長に話をする
③ DX推進担当の職員と、具体的な導入方法について話を詰める
④ 課長の了解を得る
⑤ 導入に向けて、物品を用意する
⑥ 係員へ使い方やルールを周知する
⑦ 導入

というステップを(簡略化しているが)踏まなければならなかった。「他の係にすでに導入されているものを、うちにも導入する」ということのためだけにだ。

イデアを出すことは誰にでもできる。

しかし、アイデアを出すことと実現することの間には、想像以上の距離がある。そしてその距離は、実現に向けて動き始めたときに、初めて認識することができる。

つまり、「着手した人にしかわからない困難さ」なのだ。

だからこそ逆に、着手しない人は、その困難さが分からないから、要望(だけ)をするのである。

周りから見ると「たったそれだけのこと」なのに時間がかかるのは、理由がある。
その理由を想像できるのは、やはり、問題解決をしようとした者だけなのだろう。

 

「係員が増えれば…」という前に

私が担当している仕事は、他の係から仕事の依頼があって、その依頼に基づいて初めて動く。だから依頼の件数=仕事の件数といっていい。

あるとき、今年異動してきた上司から「依頼の件数が減っているけど、なんで?」と聞かれた。私はコロナ禍の影響かもしれないことと、そもそも依頼の件数を減らすように、様々な工夫をしていることを説明した。

第一、依頼の件数が増えることは、私の仕事が増えることである。また、私の仕事が終わったとしても、それを受けて次の人に仕事が受け継がれていくので、次に待ち構える人の仕事量も増える。だから、できるだけ依頼数を抑制するような工夫をしていることを説明した。

そうすると、その上司は「それだと来年の係員の数を増やせないから、困るんだよね」と言う。「依頼の数が減ると、人事担当係への増員交渉がしづらい」と言うのだ。

「こいつはなにをいってるんだ?」と思いつつ、「仕事が減って係員を増やさなくて良いなら、それでよくないですか?」などと、手段と目的が転倒していることをやんわり伝えた。結局上司は「ちょっと聞いただけだから」といいつつ、自席に戻っていった。

この"事件"を受けて、「係員を増やす」という解決策について考えてしまった。「仕事が減ると係員が増やせなくて困る」という本末転倒な悩みはさておき、そもそも係員を増やすという解決策自体、効果的なのだろうかと。

第一、人を増やすという解決策は、実現しないことがほとんどである。だから、それを期待しないほうがいいだろう。また実現したとして、増えた係員が一人前の仕事をしてくれるとは限らない。むしろ「新しく来た係員の面倒をみる係員」が必要になったりして、全体としてはマイナスになることもよくある話だ。

そうすると、仕事が多いからと言って係員を増やすという解決策は、そもそも実現しづらいし、実現したとしても当たり外れが大きいということになるだろう。だから解決策としてあり得なくはないが、期待値はかなり低い。

そもそも人が足りないという問題は、2つの視点に分けて考えることができる。

一つはこれまで書いてきたような、「人員が足りない」という視点。もう一つは「仕事量が多い」という視点である。

つまり、前者の視点に立てば「人が足りないから人を増やそう」という発想になるわけだが、後者の視点に立てば「仕事量が多すぎるから、仕事を減らそう」という発想になる。

このように分けて考えると、人を増やすという期待値の低い解決策を実行するよりも重要なのは、今ある仕事を減らすことである。なぜなら、今ある仕事を減らすことは、人を増やすよりも確実に効果が出るし、仕事を減らす試みは意外と労力がかからないことも多いからである。

長い期間仕事をすると、一時的に必要だった仕事が未だに残っていたり、念のために行っていた仕事が積もっていく。そういう仕事を棚卸しして、整理していくことで、ある程度は人不足に対処できる。これは「業務改善」と言えるほど大仰なものではない。

人不足対策はむしろ、「この仕事、なんでやってるんだっけ?」から始めるのが筋なのだと思う。

自分の人生は、自分で決めるのか

「自分の人生は、自分で決める」というのは、なんとも威勢のいい言葉だが、そんなことは不可能である。

なぜなら、そもそも自分が生まれたこと自体が、自分で決めたことではないからだ。

そんな極論を言わなくとも、人生の中で自分で決められることなど、たかがしれている。だが、それを勘違いして「自分の人生は自分で決められる」と思っている人は、自分で決められない状況に陥ったときに、他人のせいにする。「自分の人生なのに、なぜ自分で決められないのか?」と。

そうして「自分はこうしたかったのに、あいつが邪魔をした」と他責思考に陥る。だから「自分の人生は自分で決める」という考えは、そもそも不可能であるし、実は自分を幸せにしない。

それではどう考えればいいのか。

ヒントは「自己決定」という物事のはじまりではなく、「自己責任」という物事の終わりにあるように思う。

つまり、その物事の始まりにおいて他人が決めたことであったり、自分の思いどおりにいかなかったことであったとしても、自分の人生に対しては責任を取るということだ。もっと言えば、そもそも自分の人生は、自分以外の誰も責任を取れない。誰かの命令に従っても、自分の思いどおりにいかなくても、結局は自分の身に降りかかることであって、その始末をするのは、自分しか存在しないのである。

「自分の人生は自分で決められない」という後ろ向きの諦めと「だが、自分の人生は、自分で責任を取るしかないのだ」という前向きな諦めのバランスを取ることが、よりよい人生を歩むことにつながるのではないかと思う。

昇任試験に合格しました!

昇任試験が終わった - かつげんの拠り所 の続き。

おかげ様で、試験に合格することができました。努力の成果が出て良かった。

前にも書いたように、試験勉強を4月からやりつつ、8月からこういう話こんな話があり、今年は激動の1年だった。これで「試験に落ちました」という結果だったら、笑うにも笑えない。

昇任したからといって、職責が大きく増えるわけでもないので、今のペースでやっていくのがいいなとは思っている。結局、昇任後の職務でも、自分の仕事をコツコツやっていくしかない。

とりあえず合格してよかった。プライベートも落ち着きつつあり、ようやく読書ができるようになった。これから何をしよう。