かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

現在の法は、適切でないかもしれない

 

福島第一原子力発電所事故の報告書を読んだ

 私は先月、福島第一原発に視察へ行った。
 この視察については、また後日書こうと思う。

 私は、視察の予習をしたいと思い、事前に福島第一原発の3つの報告書(東電・政府・国会)を読むことにした。
 3つの報告書は、東電→政府→国会と進むに連れて、「今回の事故は、天災ではなく人災である」というニュアンスが強くなるとともに、科学・工学的な考え方よりも人文的な考え方が強まっていく印象だった。

 報告書の中で、門外漢である私が一番読みやすかったのが国会事故調の報告書だ。その中でも、気になった文がある。
 それは、班目春樹原子力安全委員会委員長が委員会の中で話した以下の発言だ。

 横目に見ながら、何ら対応もしなかったというのは問題であったと思います。結局、この問題のさらに根っこにあるところは、……わが国ではそこまでやらなくてもいいよという、言い訳といいますか、やらなくてもいいということの説明にばかり時間をかけてしまって、いくら抵抗があってもやるんだという意思決定がなかなかできにくいシステムになっている(第5部 事故当事者の組織的問題(その1) | 国会事故調

 「わが国では」というほどの、日本特有の話かはさておき、私たちの身近でもよく起こる話であることは確かだ。

 

安全神話と信仰心

 事故後、東電を批判する文脈で、「原発安全神話」という言葉がよく聞かれるようになった。
 これは「原発は安全だから、今のままの対策で良い」という「神話」があったから、東電は対策を怠ったのだという意味でよく用いられる。

 これだけ聞くと「よくそんな『神話』を信じていたな」という批判的になってしまうのだが、公務員として仕事をしていると、なんとなく共感する部分もある。

 詳しくは、それぞれの報告書を読んでほしいが、東電には新たな対策を講じる機会が幾度となくあった。しかしその度に、対策の否定もしくはその強度を減らされて、結果としては、今回の地震に対する対策としては不十分なものになってしまっていた。
 このようになったのは、東電が盲目に安全神話を信じていたわけではない。もっと組織的で構造的な理由がある。それは、

 安全対策を講じると、現在の原発に不備があるということを示してしまう。

 ということだ。
 これは、原発を安全だと信じるor信じないという信仰心の問題ではない。組織としての一貫性の問題だ。

 

例規事務の神話

 翻って私が行っている「例規事務」という仕事(自治体の条例や規則の案を審査し、作成する仕事)を考えたとき、同じような現象に出会うことがある。
 一例を上げれば、時期を逸した条ズレの改正だ。

 例えば、建築基準法施行規則という自治体の規則には、建築基準法という国の法律が多数引用されている。
 そこで、国が建築基準法を改正し、今まで「第9条」だったのが「第10条」に変更されたとしよう。この場合、自治体でも、建築基準法施行規則で引用されている「建築基準法第9条」を「建築基準法第10条」に修正しなければならない。
 しかし、たまにではあるが、建築関係を担当している課がこの条ズレを把握しておらず、条ズレが発生して1年後に発覚するということがある。

 このとき、条ズレを修正するとなると、担当課は「今まで条ズレを把握していませんでした」ということを示すことになってしまう。
 当然、例規担当としては、例規(条例や規則のこと)としては明らかに不適切なのだから、この際改正しましょうと話を持ちかける。しかし、担当課が渋るということがよくある。

 ここで生じている現象は、決して「条例や規則は無謬である」と信じているからではない。
 「間違っていると認めたくない」というメンツの問題である。

 

アップデートの思想

 先日ノーベル賞を受賞した本庶佑は、テレビのインタビューでこのようなことを言っていた。

世の中のことは嘘が多い。教科書が全て正しかったら、科学の進歩はない。基本は人が言っていること、教科書に書いてあることをすべて信じない。なぜかと疑って行くことが重要

 科学は、現状を批判することで、発展していく学問だ。
 もちろん私は、科学の世界については門外漢だから、実際には異なるということもあるかもしれない。しかし、このような「アップデートの思想」が、科学の発展に寄与していることは確かだ。

 

法は適切さを保証しない

 少し前に、以下の本を読んだ。

超合法建築図鑑 (建築文化シナジー)

超合法建築図鑑 (建築文化シナジー)

 

 この本では、法律を守ろうとしたがゆえに、町並みからすると、逆に奇怪な建築物が生まれてしまうことを表している。
 合法だからといって、きれいで整った建築物が生まれるわけではないのだ。法は適切さを保証しない。

 窓口対応などで「法律で決まっていることなので」と言っても、市民から「その法律が間違っているんだ!」と言われたら反論できなくなってしまうのは、このような特性が、元来、法に存在しているからだ。

 現在の法は、適切でないかもしれない。

 この前提が共有されることで、組織の呪縛は解放されることになる。
 じゃあ、具体的にどのようにして、その前提を共有すべきか。

 それは、私にもまだ分からないのだ。
 また考えることにしよう。