ボランティアの現状
ボランティアという言葉は、1997年に起こった阪神・淡路大震災の際に有名になった。
その年は、「ボランティア元年」と言われるほどだ。
その後、1998年に特定非営利活動促進法(NPO法)が制定され、ボランティアという言葉は一般的になった。
社会福祉協議会において把握しているボランティアの人数は、阪神・淡路大震災のときには600万人を超え、近年は減少傾向にあるものの、平成29年4月時点で700万人を超えている。
それほどまでに「ボランティア」という言葉とその活動は広がっているのだ。
しかし「ボランティア」とはそもそも何だろうか?
「ボランティア」の語源
ボランティアとは、元々"Voluntas"というラテン語から派生した言葉だ。"Voluntas"は、自由意志などと訳される。また”volunteer”は、いわゆる「ボランティア」の他に「志願兵」などと訳されることもある。つまり「ボランティア」という言葉には、「意思」や「自発性」という意味が備わっていた。
だが、私たちが一般的に「ボランティア」というとき、その「自発性」の意味についてはあまり考慮されない。どちらかというと、その金銭面に着目しがちだ。
私たちの使う「ボランティア」という言葉には「自発性」ではなく、「無償」という意味合いが強く備わっている。「有償ボランティア」という言葉に違和感を覚えるのはそのためだろう。
ではなぜ、「ボランティア」は「自発性」ではなく、「無償」を意味するようになったのだろうか。
労働と必要性
翻って、ボランティアとは真逆の、私たちが普段行っている「労働」について考えてみたい。
労働には賃金が生じる。私たちは、その賃金を目当てに労働をする。
なぜ賃金を目当てにするかと言えば、それは生活を営むためである。
生活を営まなければ、人間は死んでしまう。
だから、労働は必要性によって生じている。
「労働は必要性によって生じる」ということは、簡単に言えば「生活のために働かなければいけない」ということだ。
つまり、「しなければならない労働」に「自発性」はない。
「ボランティア」の意味は、なぜ「無償労働」になったのか
「賃金」と「自発性」という概念の間に、「労働」という概念を噛ませることで、両者をつなぐことが出来た。
今度はこれを
「賃金を得ていない」→「労働でない」→「必要性がない」→「自発的である」→ボランティア
という風に、ひっくり返せば良い。
つまり「自発的である」という証明には、「無償である」ということが必要なのだ。
最初のテーマに戻ろう。「『ボランティア』の意味は、なぜ『無償労働』になったのか」だった。
この質問に答えるならば、私の答えは「ボランティアの自発性を、その無償性によって証明しようとしているから」となる。
やりたい人が、やればいい
ここからは、私の雑感。
この「ボランティア」に関する迂遠な証明回路は、端的に言って「こじらせている」と思う。
むしろ、この「こじらせ」自体に意味があるのではないかと思ってしまう。
つまり、「困っている人を助ける」といったような行為それ自体ではなく、その無償性であるとか、自発性であるとか、そういったことの証明から「ボランティア」は始まったのではないだろうか。
3.11以後、「やりがい搾取」という言葉が流行ったのも、このような証明回路に対する違和感が一つの要因なのだと思う。つまり「自発的であろうがなかろうが、働いた分は払ってくれ」と。
最近では、有償ボランティアやプロボノという考え方が広まっているから、ボランティアと無償性のつながりは弱くなってきている。だから、このような証明回路は必要なくなっているし、むしろ批判されている面もある。
そう考えるとボランティアは、もはや「やりたい人が、やればいい」という純粋な自発性に頼ることになる。そしてこの純粋さが故に、そのつながりはとても脆弱になる。
「ボランティアをしたい」という純粋な自発性をどのようにして引き起こすか。
「ボランティア」は、もう次の段階に移行している。