かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

ネット社会における椅子取りゲーム化

何かとポジションを取りたがる人

 何か事件があったときに、すぐに意見表明をし、その事件に対するポジションを取りたがる人が多い気がしている。まるで椅子取りゲームをやっているような、そんな様相である。

 たいていの場合、まっとうな極論のあとに逆張りが発生して、特に総括もなく次の話題に移る。
 もちろん、途中で新たな事実が判明したりすると、また椅子取りゲームが加速していく。

 しかし、こういった椅子取りゲームを傍から見ている者としては、かなりの違和感を覚える。

ゼロからの距離

 例えば、リベラル的極論を+10、保守的な極論を-10としたときに、ネット上で発表される意見は、どこに位置するのかと考えることがある。

 最近の議論を見ていて思うのは、それぞれの意見において「数直線において0の発言をしないこと=責任のある発言」と捉えられているのではないかということだ。

 つまり、

 ポジションを取る=責任のある発言=数直線における0以外の発言

 という等式があるのではないだろうか。

ゲームに参加しているのは誰か?

 私が何かニュースに対して意見を言うときは、すぐに噛み付くのではなく、情報が出揃うのを待つ。
 第1報は間違っていたり、誤解させようとする文脈になっていることがあり、それが後から判明することも多い。

 椅子取りゲームの世界では、「いち早く意見を表明する」ということが重要視されている。けれども、そもそもこのゲームに参加する意味ってあるのだろうか?
 少なくとも私は、ゲームに参加する意味がないので、「いち早く意見を表明する」ということを守らなくても良い。だから私は「待つ」ということができる。

 逆に言えば、参加する意味のある人たちとは、どういう人たちなのだろうか?

 そう考えていくと、ゲームに参加する意味のある人たちとは、「すぐに、0以外の意見を表明しなければならない人たち」ということになる。
 しかし、こういう人たちは果たして「普通」なのだろうか。具体的に言ってしまえば、ただのPV稼ぎなのではないだろうか。 

毒にも薬にもならない意見

 私たちは、このゲームに参加する必要がない。
 逆に、極論が飛び交うようなゲームに対して、抗わなければならないとすら思う。
 そしてこれに抗うためには、数直線上における0の意見、つまり「毒にも薬にもならない意見」を表明する必要があるのではないか。

 この「毒にも薬にもならない意見」は、単に「何も表明しない」だったり、「中身がない」ということを意味しない。

 「毒にも薬にもならない意見」には、振れ幅が必要である。
 つまり、「単に0」なのではなく「+3と-3を足して0」という数直線上の振れ幅である。

 「毒にも薬にもならない意見」は、派手ではないから目立たない。PVも取れないだろう。
 しかしそもそも「派手」とは、普通とは異なるから「派手」なのではないか。

 私たちは、派手ではない、日常感覚に寄り添った意見を、もう一度取り戻すべきなのではないだろうか。
 そして、そのためには「毒にも薬にもならない意見」が必要なのではないだろうか。

 なんとなく、そんなことを考えている。