最近のトレンドは「コト消費」らしい。
消費は今まで、日用品や嗜好品などの具体的な物質を対象としていた。しかし最近は、ある出来事を消費する傾向がある。
この傾向のことを、前述の記事のように「モノ消費からコト消費へ」などと言ったりしているらしい。
この移行の理由は、「具体的な物質が溢れすぎていて、消費者が飽きてしまった」だとか、「他の消費者との差異化を図るため」だとか言われている。
しかし、そう単純な図式なのだろうか?
そもそも、このような消費活動の全体は、個人の心理的な理由によって説明できるのだろうか。もっと社会的で、構造的な要因があるのではないだろうか。
流行とはなにか。
ファッション業界では、流行は人為的に作り出されている。つまり「流行りである」と宣言することによって、消費者の購買意欲をかき立てている。
服だけでなく、パンケーキもタピオカもチーズハットグも、私たち消費者はそのモノ自体ではなく、それに付与される「流行」という記号を購入していると言って良い。
パンケーキもタピオカもチーズハットグも、その記号さえ手に入れてしまえば、そのもの自体は実は「不要」なのではないだろうか。
情報を乗せるモノ
例えば、音を乗せるモノは、大まかに言って、レコード→カセット→CD→MD→ストリーミングと変化している。段々と、モノが小さくなり、必要となくなっている。ストリーミングが主流となった今では、もはやモノとしての音楽は手元にない。
つまり、今や音楽の情報は、常に提供元にあって、そのデータを「借りる」という形で聞いているのだ。だから、「ストリーミング」というモノのない世界では、「誰がその音楽を所有しているのか」という問題が出てくる。
排泄物としてのモノ
このように、現代においてモノは、削ぎ落とされつつある。流行も、音楽も、情報を直接やり取りできればそれに越したことはないのだというのが世界の潮流のように思う。
そう考えると、モノは経済活動の中でどうしても出てしまう「排泄物」なのであって、なければない方が良い、必要悪の存在と言えるのではないだろうか。
そして、そうであるなら「モノ消費からコト消費へ」という移行で注目すべきは、「コト消費への移行」なのではなく、「モノ消費の消滅」なのではないか。