かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

芸術鑑賞に素養は必要なのか

 「アート」という存在が問題になっている。

 きっかけは、あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展 その後」の開催中止だ。
 その後、多数の作家が、この中止等に抗議し、その作家の展示を中止した。

 このブログの通り、私も見に行った。感想としては、個々の作品で素晴らしいものもあったが、全体的には中止された展示が多く、満足度は低かった。

 さて、一連の騒動の中で、「表現の自由」や「検閲」という問題が論じられている。様々な論点が次から次へと繰り広げられているのだが、話題を広げすぎていて混乱している。
 個人的には、このまま話題が拡散し、霧消していって、得たものは何もないという形に収束しそうで怖い。

 そこで、今の私の考えていることを、一度まとめてみたいと思う。

サンチャイルドを忘れたか

 そもそも鑑賞者は、作品を鑑賞して、どのような感想を持っても良いはずであり、アートの文脈を作家と共有する義務はない。もし、素養のある鑑賞者のみを対象としたいのであれば、それこそ「自費でやれ」という話になってしまう。

 税金を用いて国際芸術祭を開くということは、国内外を問わず様々な鑑賞者の存在が、初めから想定されていなければならない。その中には当然、私も含めて、素養のない者もいるに違いない。

 アート関係者は、ついこの間起きた「サンチャイルド騒動」を忘れたのだろうか。公共の場にアート作品を設置する危うさは、このときからすでに問題になっていたはずである。

表現の自由は作家だけのものか

 それぞれの鑑賞者はそれぞれの感想を持って良い。そして、鑑賞者は公序良俗に反しない限り、感想を述べたり、抗議をして良い。

 つまり「作品を表現する自由」を作家が持っているのと同じように、鑑賞者も「感想を表現する自由」を持っているはずである。

 今回の場合、この「公序良俗」が問題となっている。つまり、作家側の「不快な作品を表現してよいのか?」という問題と「不快な方法で感想を述べていいのか?」という問題である。
 どうも、この点に関する作家側の議論を見る限りでは、「不快な作品を表現するのは良いが、不快な方法で感想を述べるのは良くない」という構造になっているように見える。これでは一方通行で、妥当な議論とは言えない。

 もちろん、抗議における脅迫や暴言を許容するわけではない。それは犯罪である。
 しかし、単に「感想を表現する自由」の行使量が多いこと(=電凸)をもって批判するのは、いささか疑問である。

態勢の問題

 そして、なぜそのような批判が生じるかと言えば、結局のところ、電凸の多さに耐えられなかった運営側が、鑑賞者側へ責任転嫁した現れなのではないだろうか。
 批判が多数起こることは承知の上で、展示を決めたのであれば、それなりの態勢をとっておくべきであった。

 もちろん、すでに準備をしていたのだろう。しかし、このような大騒動になってしまったということは、事実準備が足りなかったのであり、その責任は重い。

擁護されるべき「表現の自由」とはなにか

 また、今回の騒動を理由に、展示を中止した作家も多くいた。

 例えばこれまでの経験でも、特別展などに借り出されていたり、トラブルが起きたことによって、作品が見れないということもあった。

 しかし今回の展示中止は、端的に言えば、作家の自己都合であり、その規模があまりにも大きい。

 鑑賞者はチケットを購入し、宿泊費を払い、交通費を払っている。だから、当然「表現を鑑賞する自由」を持っているはずである。

 作家は「表現の自由」を擁護するために、展示を中止し、抗議するという。

 しかし、その抗議は展示の中止という手段でしか、達成出来ないことなのだろうか。
 そして作家の擁護する「表現の自由」の中に、我々鑑賞者の存在は入っているのだろうか。

今の社会状況

 さて、昨今の社会状況において、コミュニケーションがうまく行かなかったときの責任は、コミュニケーションの発信者側にあると考える傾向にある。

 例えば、セクハラやパワハラについて、ハラスメントを行った側が「スキンシップのつもりだった」と釈明しても、逆に、ハラスメントを受けた側へ「きちんと断らなかったのが悪い」などと責めても、非難轟々となってしまうだろう。

芸術鑑賞に素養は必要なのか

  しかし、今回の騒動を見るに、コミュニケーションの発信者が責任を取る気配はない。どちらかというと「アートの素養のない日本人」とか「アート後進国」というような形で、鑑賞者にその責任を求める傾向にある。
 実際「表現の不自由展 その後」の再開後の鑑賞方法は、教育プログラムを受けた上でのガイドツアー方式だという。

 このような対策では「鑑賞者にアートを鑑賞する素養がないから、炎上したのだ」と言っているようにしか聞こえない。

 しかし、そのような結論では、例えその結論が正しいとしても、根本的な解決には至ることは出来ないし、そもそも鑑賞者に失礼である。「素養がないこと」を理由にしてしまっては、その解決策は教育しかない。そして、教育とは長い年月をかけた末に結果が出るものである。

 今回の炎上の理由は、果たして本当に「鑑賞者に素養がないから」なのだろうか。それが仮に正しいとして、それでは「素養のないものは、芸術鑑賞をしてはいけない」のだろうか。

 このような結論を求めている人が、一体どれだけいるのだろう。

技量がないから炎上しただけでは?

 では、なぜこのような炎上が起きてしまったのか。
 それは「作家が表現したいこと」と「鑑賞者に伝わったこと」の乖離が激しいからではないか。

 それでは、その乖離は誰が埋めなければならないか。
 それは、基本的には作家側なのではないだろうか。

 つまり、作家側の技量がないから炎上したのではないだろうか。

 もし、炎上することが目的(=表現したいこと)なのであれば、今回の展示は成功と言えるだろう。その場合、この炎上によって被った汚名は甘受すべきである。

 しかし、炎上が目的でないのであれば、それは(教育という意味では、過去を含めた)作家側の責任と言えるのではないだろうか。いや、仮に今回の炎上の理由が、そうでなかったとしても、そのように解釈し、責任を引き受けてこそ、アートは発展していくのではないだろうか。