私は今、来年の研修に向けて、資料を作っている。
出来るだけ分かりやすく書こうと試みているわけだが、これがなかなか難しい。
作成の仕方としては、前担当の資料を改定する形で作成している。この前担当の資料が、極めて分かりづらい。
言ってることは分かるが、腑に落ちない。納得しづらいと思う文が多いのだ。
2種類の理由
「なぜ分かりづらいのだろう」と考えると、どうやら理由の示し方に問題があるようだった。
前担当の資料が、業務を行う理由として挙げているのは、「第○条に規定されているから」とか「○○という通知に示されているから」というような「根拠的な理由」なのだ。
確かに、私たちの業務は数々の根拠に基づいて行われている。だから、それを示すことは何も悪いことではない。相手に説明するときも、「○○で決まってるから、私たちではどうしようもないのです」と根拠を示せば、折れてくれる人もいる。
でも、もし「じゃあ、なんでそういう規定があるの?」と質問されたら、どのように答えればいいのだろう。
根拠を示すことは、確かに一面では正しい。しかし、それだけでは不十分である。
むしろ「○○で決まってるから」という理由の示し方は、どこか他人事で、無責任なようにも思える。
つまり、私たちが掲げるべき理由は、上述したような根拠的理由では足りず、この「なんで?」に答えるべく、説明的理由が求められている。
根拠的理由の錯覚
根拠的理由は、「○○で決まっているから」と言われてしまえば、良くも悪くも、そこで終わってしまう。
「決まっているからどうしようもない」と言えるのは、その根拠の提示によって、追求することが出来ないと分かっているからである。
しかし、そのように決まっているのは、そのような根拠を決めた理由があるからであって、物理学的な諸原理のように、初めから決まっていたわけではない。
つまり、根拠的理由の特徴は、本当はその根拠を変更・修正することも出来るのに、根拠を所与のものとし、変更できないものとして錯覚させてしまうことにある。
説明的理由の奥深さ
一方、説明的理由は、根拠的理由の錯覚を解除することができる。つまり「なぜ?」と問うことにより、その根拠の理由をさらに問うことが出来る。
しかし、この「なぜ?」への答えは、簡単ではない。
説明的理由とは、いわば「解釈」である。誰でもその理由を付与することが出来るし、時代によっても変わる。だから、完全な正解がない。おそらく説明的理由における正解は、各々の納得感によるところが大きいのではないだろうか。
そういう意味で、説明的理由に必要な態度とは、「本当に説明を果たしているのだろうか?」という「不断の問い直し」だろう。
今の私は、研修資料の作成が「年に1回やると決まっているから」ではなくて、「異動してきた職員が、業務内容を分かるようになるため」だと知っている。
研修の準備は面倒だが、それが分かっただけでも、少し前向きに取り組めそうだ。