「自由という牢獄」について
少し前にこの本を読んだ。
著者は「今の社会は、選択肢が多すぎて何をしたら良いのか分からない。そう考えると、私たちが思っている自由は、実は不自由なのである」という問題を提起して、話を進めていく。
この問題自体、確かに現状の社会を表しているものだと思うのだが、その問題解決に用いる手段として、著者は「他者論」を用いる。
他者論というのは、私以外のものを「他者」として、その他者(必ずしもそれが人間とは限らない)が得体のしれないものだという前提から、コミュニケーションや社会などを考えていく論じ方だ。
私も、哲学や思想が好きだが、そういったことを考え始めたきっかけは、他者論だったように思う。
二項対立の限界
しかし最近、他者論で考えることの限界を感じる。その限界が、この本では如実に出ているような気がした。
この本の中では「第三者の審級」や「未来の他者」という、「私」と「他者」以外の、まさに「第三者」が登場する。そして、その登場によって、先述した問題を解決に導こうとしている。
そこで私は、読書メーターの感想でこんなことを書いた。
「そのような二項対立的な考え方で良いのか。このような解決方法は、循環しないか。」
二項対立的な考え方は、弁証法的に第三者を作るか、または循環させるかして、結局その「あいだ」を取り持つしかない。
人間には、二項対立的な考え方の源泉である「分からないものを、区別して考えたい」という欲求がある反面、「区別されたものを一緒にしたい」という欲求があるからである。
さて、しかし二項対立とは違う考え方は、人間にとって不可能なのだろうか。
例え、そのものをありのままに見るということが不可能であったとしても、それを分けたりくっつけることでしか、人間は認識できないのだろうか。
高校生の時から、私の考え方の主軸となっていた他者論について、そろそろ省みる必要がある気がしている。