かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

人間の感情を信用していないからルールがある。

 SNSが出来てからというもの、「面白いから良い」とか「気持ち悪いからダメ」というように、物事を「快」と「不快」で判断されるケースが多いように思う。
 これは「私は嫌だ」という感情が紛うことなき事実であって、論理でどうこう出来るものではないという発想から起こっている。

 このような発想がなぜ起こっているかといえば、「説明する必要がなくなった」ということだろう。

 感情を発露すれば、SNS上にいる誰かしらの共感を得られる。もっと正確にいえば「共感を得られるかもしれない」という期待を得られる。
 だから、とりあえず感情を発露する。
 こうして、他者に対して自分の正当性を説明するために必要な、「論理」の居場所はなくなる。

 そもそも論理は、説明するためのものであって、物事それ自体の善悪を決めるものではない。
 「論理的な正しさ」はフィクショナルなものである。実際は、論理的な正しさに、感情的なものが加えられて「納得」していくものであろう。

 しかし、論理が欠如し、感情のみに支配されていくような判断を重ねていて、本当に良いのだろうか。
 このまま続いていけば、やがて「自分の感情は絶対に正しい」という発想一色になってしまうのではないか?と不安になる。

 人間の感情は間違う。
 これまでの社会(という論理)の積み重ねは、その感情の間違いを省みるために存在している。

 論理と照らし合わせて、自分の感情を省みながら生きていくか。
 それとも「気づかないうちに、感情すらも誘導されている」という感情管理的な社会で生きていくか。

 残念ながら、後者のような社会になっていくような気がしている。