かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

責任を引き受けること

私が初めて所属した部署は、法規担当だった。

法規担当は、扱っている内容の重要性や専門性から、チェック体制を厳重にしていた。
具体的には、担当のほかに、チェックする者が2人いる体制にしていた。

こうすることで、例規という厳格さが求められる仕事に対応していたのだ。
ただ当の私は、この体制に甘えていた部分があった。

その時の私は「新人で何もわからないし、間違えるのが当たり前だよね。チェックされたら直せばいいや」ぐらいの認識で仕事をしていた。

当時は「完璧を目指すより、まず終わらせろ」というような「アップデート思想」が流行っていたことも、この私の認識を手伝っていたように思う。

しかし、このような認識は、やがて自分を苦しめることになった。

当たり前だが、完璧を目指していないから、チェック役から大量の修正が返ってくる。その修正は、単なる機械的な修正ではもちろんなく、一つ一つ「詰めるような」指摘なのである。

こういった「指摘→修正→再提出」という作業を延々繰り返していると、最初は「修正されて当然だよね」と思っていたはずが、精神的に参ってきて「指摘されるのが辛い」とか「ミスばかりの自分が嫌い」と思い始めるようになる。

少し考えれば分かるように、この「指摘→修正→再提出」というサイクルは、業務に必要なサイクルではない。
指摘されずに、最初から完璧に業務をこなすことができれば、このサイクルを駆動する必要はない。

率直に言って「この部分はちょっと分からないけど、調べるのも面倒だから、チェックに回そう」ということもあった。

ただ、そもそも指摘されている事項は、本来、自分が担当として解決しておかなければならない問題だ。
それを他人に指摘してもらうこと自体おかしい話だと、途中から気付いた。

そこで私は、できるだけ完璧を目指すようになった。

 

そうすると、「指摘→修正→再提出」というサイクルの頻度は瞬く間に減り、指摘されたとしても、それを前向きに捉えられるようになった。

この前向きさは、修正の量的な改善からくる前向きさというよりも、「この案件の担当は私だ」という責任感の発生からくる前向きさであった。

「この案件の担当は私だ」という責任感は、「この案件のミスは、全て私の責任だ」という感覚を与える一方で、仕事の進め方やスケジューリング、交渉などを自分のやり方で行うことが出来るという意味で、仕事に対する納得感を与える。また、自分の責任外のことについて疑問があっても、担当が自分であるからこそ、担当者として上司と相談し対応をお願いすることが出来る。

このような責任感の発生は、つまるところ「自分がこの仕事をコントロールしている」という感覚へ至ることになる。

逆に、このような責任感が発生するまでは、「私は、この仕事にコントロールされている」という、非常にストレスフルな感覚であったわけだ。

 

「責任を引き受ける」ということは、その字のとおり、受動的なことである。
しかし、引き受けるからこそ、それが反転し、主体的にコントロールを握ることができる。

たまにネットの言説で「積極的に責任を”取りに行け”」と言われることがある。だが、おそらくこれは「若いころは苦労した方がいい」というよくある話の範囲を超えない。

 

責任は「引き受ける」からこそ良い。受動的だからこそ良い。
今の私の仕事観は、この反転の経験から形作られている。