かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

私たちは、生きようと思って生きているわけではない

考えてみれば、私がこの世に生を受けているのは、別に自分で「生まれたい」と思って生まれたわけではない。
ただの他人の営みによって、生まれ出たのであって、そこに私自身の願望や意志は存在しない。というより、存在し得ない。

ただ、自我が発達し、社会生活を営むようになると、人間の願望や意志は、なぜか強調される。

私は生活保護の仕事をしているが、理論的には「本人の意思決定」とか「アドボカシー」などといって、本人の願望や意志が尊重される。
そして基本的には、それに従って今後の本人の行く末が考えられていく。

例えば、入院している末期がん患者に対して、このまま病院にいるのか、自宅に戻るのか、介護施設に入所するのか。
そういう選択について、様々な制度的条件はあるにせよ、本人の願望や意志は最大限尊重されるし、されるべきだと考えられている。

ただ、現場で本人と話をしていると、「本当にこの人の意思なんだろうか?」とか「そもそもこの人に意志というものが存在しているのか?」と疑問に思うことも多い。
精神疾患認知症といった本人の状態だけでなく、親族や関係者からプレッシャーを受けた結果、“自分の意思”が形成されているということも見受けられる。
率直に言って、私自身もそういったプレッシャーをかけることもある。

つまり現場における「意思決定」では、意思が”形成されたことにする”とか、もっと現実的な言い方をすれば「言質を取る」ということが重要視されている。

これは、関係機関の責任逃れ(美容師が「痒いところはありませんか?」と聞くようなもの)もあると思うが、意思が”形成されたことにする”ほど、いびつなまでに意思が重要視されているのは、ひとまず確かと言える。

しかし、最初に書いたように、そもそも私たちは「生まれたい」という意思を持って生まれたわけではない。
生を受けた後も「私は生きたい」と日々考えながら生きているわけではない。
むしろ「私は生きたい」と考えるときは、ほとんど、死が傍に迫っているような異常事態であって、日常とはかけ離れている。

 

さて、「中動態」という言葉を考えたとき、その響きはどこか、能動態と受動態の「あいだ」と解される。
だから前提として、まず能動態と受動態があって、中動態については、それ以外のものとか、そこには収まらないものとして考えられる。

しかし、本当にそうだろうか。

私たちは、ただ、なんとなくこの世に生を受けて、なんとなく生き続けている。
これはまさしく中動態的であって、能動態や受動態の手前にある、人間において本質的なものなのではないか。

そういう認識から始められることはないだろうか。
なんとなく、そんなことを考えている。