かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

大きな声と小さな手

ゲンロン戦記を読んだ。

本の内容としては、哲学者が起業してからの紆余曲折という話で、哲学書というよりも、ドキュメントとか私小説的な本であると思う。
全体的な流れとして、若い夢が潰えていく過程というか、大きな夢を語っていた人が、ビジネスや事務の壁に阻まれて、目標を再設定するというか、そういう感じの本であった。 

まず思うのは、東浩紀は、どこかのタイミングで「大きく社会を動かすこと」を諦めたということだ。

哲学者が鋭いことを言えば、大衆が呼応して社会が動いてくれるとか、大勢の人の声によって社会が動いていくとか、こういう「声のモデル」を東は採用しなくなった。
最近の「ハッシュタグデモ」に対して懐疑的なのも、「社会を変える手法としての声」に期待していないことの表れなのだと思う。

私も「自由民主党の解党を求めます」と「立憲民主党の解党を求めます」というハッシュタグが、どちらも同時にトレンド入りしたのを見たときは、さすがに「ハッシュタグ政治も終わったかな…」と思った。

その代わりに東がやっていることは、「手で作る」ということだと思う。
それは本来"action"という概念が注目されるハンナ・アーレントについて、東があえて"Work"に注目していることからも、伺い知れる。

会社を作る、場を作る、イベントを作る。それを継続する。
手のモデルは、そういう小さな積み重ねによって、社会を動かすということを希求している。

このモデルは、大きく社会を変えることはできないが、より確実に変えることが出来る。

そもそも「社会」とはどういうものか。
この「社会」に対する認識が、声のモデルと手のモデルでは異なっている。

声のモデルにおける社会は、デュルケームの総合社会学のように、生活している個人と社会そのものを切り離し、社会が一つのモノとして存在していると考えている。
だから、直接的に社会そのものを動かそうと、声をあげる。

一方、手のモデルにおける社会は、ウェーバーの理解社会学のように、生活している個人の集合として、社会を捉えている。
だから、個人の理解を変えることによって、社会を動かそうとする。

物事を大きく変えたい人は、声を使う。
物事を確実に変えたい人は、手を使う。

どちらの方がいいという話ではないし、併用するということもあるだろう。
だけど、愚痴を言うだけで、手を動かさない人を見てきた私にとって、やはり手を動かしている人に惹かれてしまうし、私もそうでありたいと思う。

手を動かしている人の姿を見て、周りの人が影響されていく。
「知の観客を作る」というのは、たぶんそういう繰り返しで広がっていくことなのだろう。