かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

「分けること」と「分かること」

目の前にピザがあって、それを8等分して、それをまた8等分して….と分けていき、分子や原子レベルまで分けていったとしたら、それはいったい「何」なのだろう。
そもそも「分けられない限界」ってあるんだろうか。 

子供のころに、そんなことを考えたことがある。

ピザを永遠に分けていったとき、おそらくどこかの時点で、それは「ピザ」ではなくなる。
生地となり、小麦粉となり、グルテンとなり、分子となり、原子となり・・・

このような認識(そしてその限界)は、その物質を名づけているからこそ出来る。

しかし例えば、名付けられないような物質について、私たちは認識できるのだろうか。
そもそもこのような「分割して命名する」という形式は、いつまで続けていけばいいんだろう。
終わりはあるんだろうか。

もっと簡単な例を思いついた。

立体は面で構成されていて、面は線で構成されていて、線は点で構成されている。
じゃあ逆に、点を集めれば線はできるんだろうか。というか、どんなものにも「長さ」があるという意味で、点って存在するんだろうか。

私たちは、分解するのが好きだ。
分解した後に、それぞれの部品に名前を付け、機能を見つけることで、それを「分かった」と考える。
出てきた部品や機能を抽象化させて、他のものに適用する。

そういった営みによって、私たちは進歩してきた。 

だけど、このような「分かる」は、キリがない。だから、分けても分けても「分かる」ことはない。

「私」と「あなた」で考えることの限界 - かつげんの拠り所 でも書いたように、「私」と「あなた」という区別された枠組みで考えたところで、結局はそれを縫合する何かが必要になる。

「分ける」ことは、「分かる」に役立つ。
だが、これから重要になってくるのは、それとは反対の行為だろう。

しかし例えそうだとして、私たちはいかにして、「分けない分かり方」が出来るのだろう。
これはあくまで想像上の分かり方なのだろうか。それとも、実際に私たちが経験していることなのだろうか。
そもそも「分けない分かり方」のそれ自体は、どのようにして「分かる」のだろう

考えれば考えるほど、ドツボにはまっている気がする。
今日はここらへんでやめておこう。