かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

他人の無意識を責めることができるか?

ちょっとした仕草や発言が、社会問題と結び付けられて、意味を持たされる。
ネット上の言論は、近頃、そういう傾向にある。

むしろ「ちょっとした仕草や発言を、いかに社会問題と結びつけるか?」という争いをしているようにさえ感じる。

啓蒙という観点から見ると、確かに、ちょっとした仕草や発言の中に含まれる差別意識などを指摘することによって、人間社会は社会的公正を出来るだけ果たしてきたという歴史がある。
「そうやって人類は良くなっていくものだ」と言われれば、そのとおりなのかもしれない。

しかし一方で、こういった傾向に違和感を覚えることも多い。
一言でいえば、「お前のその行動には、差別的意味がある」と、他人から意味づけされる怖さだ。

そもそも、人間に意識できることには限界がある。
今、この場で地震が起きるとか、外出したら車に轢かれるといったことは可能性としてゼロではないが、こういった可能性すべてを意識しながら、わたしたちは生きているわけではない。
つまり、可能性としてはあり得るが、その可能性をあえて想像しないことによって、無意識下に沈めることによって、人間は行動できる。

しかし、こういった他者からの行動の意味付けは、無意識でやっていた行動を叩き起こして、意識化し、意味づける。

そしてその意味付けは、決して自分ではなく、他人からなされる。
だから、本人から見れば「そんなつもりじゃなかったのに」となる。

 

全体的な議論として、「価値観をアップデートして行こう」という話は理解できる。

しかし、そもそもここで言う「価値観」とは、いったい誰の価値観なのか。
その価値観を持つ者が、なぜ特権的に相手の無意識を叩き起こし、矯正できるのか。

「他人を啓蒙していく」という特権性と暴力が、本当に「価値観のアップデート」に繋がるのか。
むしろ、そのような啓蒙のスタンスこそアップデートしていくべきではないだろうか。