かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

「終わらせたこと」に意味はない。「作ってきたこと」に意味がある。 ーシン・エヴァンゲリオンを見てきたー

シン・エヴァンゲリオンを見てきた。
ネタバレをしながら、良かったシーンなどをつらつらと書いていきたいと思う。だから構造を読み解くようなことは基本しない。

結論をいうと、とてもよかった。今までみた映画で一番良かったと言っても過言ではない。
何回も泣いてしまった。

私は、TVアニメのリアルタイム世代ではない。パチンコとかで注目され始めて、テレビ版をあとから見て、新劇場版から入った世代だ。
だから、綾波派vsアスカ派という枠組みもないし、なんというか「ニワカ」と言っていいと思う。
一応、映画館で新劇場版は見ていたが、これまでの話の流れは忘れてしまっていたので、アマゾンプライムでおさらいして、今回の映画に望んだ。

当時、映画館で見たときは、正直理解不能。いや序・破はまだ分かった。普通に面白かった。
けど、Qは意味わからん。

全体的な感想としても「Qは意味わからん」という感想が多かったように思うし、逆張り的に「この意味不明感こそがエヴァだ!」みたいな古参イキリの風潮もあった。
ただ、今回の映画に向けて見返してみると、エヴァンゲリオンの話の筋は意外とわかりやすい。

つまりは、「シンジが大人になれるか」「父を越えられるか」
そういう話なのだろうと、私は理解した。

序・破はまだしも、エヴァQですら私がまだ大学生だったときに公開されたものだ(そう考えるとQ→シンは、かなり「待たされた」期間だ)。
当時はまだ実家暮らしだったし、当然仕事もバイトしかしていない。そういう生活の中で「大人になれるか」とか「父を越えられるか」という問題の映画を理解できるはずがなかった。

父殺しの方法

さて、シンエヴァでは、直接的に「父殺し」に言及された。

このときの方法が良い。
「力ではムリだ」とゲンドウが言うのに、シンジは聞かない。お茶の子さいさいでゲンドウはシンジを跳ね返す。

見ていて「力で越えられないなら、どうやって越えるの?」と思った。つまり「殺す」ことができないではないかと。
普通なら「応援してくれる仲間の力」とかが不思議に湧いてきて、敵が「うわ~~~」とか言って退場するのがお決まりなのだが、エヴァがそんなことをするわけがない。

で、結果は「話をする」だった。

徹底的に話をする。質問する。過去の話を聞き出す。
そうすることで、お互いに理解する。乗り越える。

陳腐だ!極めて陳腐だ!しかしそれしかない。
この方法を選んだことに、ある種の泥臭さというか、リアリティというか。
「話したって、そんなに上手くいくわけないだろう」という気持ちがありつつも、結局はそれしかない。人間関係において「話し合いをしなくても解決できる手段」は、そう簡単に見つからない。

第3村における「時間」とエヴァQにおける「時間」

 まず「第3村」ということは、「第1村」とか「第2村」があるのか?という疑問が湧いたことは、少しメモしておきたい。
そして、これが「第3新東京市」といった物言いと被っていることにも触れておく。あと、今回の映画の副題も「3」だ。

さて、シンジやレイが暮らしていた第3村の描写は、かなり多くの時間が割かれていたように思う。多くの人が指摘しているが、この描写はエヴァンゲリオンの世界観の中では、かなり特殊である。

元々エヴァンゲリオンは「セカイ系の元祖」的な解釈をされることも多い。
セカイ系とは、「私とあなた」の関係が即世界と繋がるような世界観で、裏を返せば、「中間組織である社会を描かない」ということだ。

しかし今回の映画では、そこをミッチリ、時間を掛けて描いている。そこがこの映画の素晴らしいところだと思う
それは、鑑賞者である私達に対してということだけでなく、登場人物であるシンジやレイに対しても同じだ。

シンジやレイに対して、十分な時間を与える。たとえ、主人公が話さなくても、とにかく時間を与える。

これは、エヴァQにおいて、シンジになんの説明もせずに、結果だけ押し付けるような時間の使い方とは真逆である。
というか、エヴァQにおいて本当は必要だった時間を、今作で取り戻したということなのだろう。

しかし、このシーンを見ると、うつ病患者に対する支援と同じものを感じる。
実際、庵野監督は、そういう時期もあったようだから、それと重ね合わせているのだろう。

その時の周囲の支援というのは、ただひたすらに回復を待つしかない。「何もしない待つ」ということは、かなり辛いことで、それを(恐らく私と同い年ぐらいで)実行していたトウジやケンケンは、本当に素晴らしい。

だから、あの部分がアニメ的に冗長だという意見は理解できるが、必要な時間だったと思う。

鈴原サクラについて

 鈴原サクラというキャラクターは、結構好きで、今回の映画で2度泣かされた。

1つはシンジから写真を受け取ったシーン。
トウジもサクラも頑張っているわけだが、妹であるサクラは、文字通り命をかけて、兄にも会わずに仕事をしている。第3村に下船したときに、もしかしたら会えたかもしれないが、そういうことはしていなかった。

代わりにあの写真を受け取る。おそらくトウジと委員長の間に子供が出来たことも、その写真で知ったのだろう。

年齢設定はよく分からないが、トウジの妹ということは、25歳とか26歳ぐらい。下手したら22歳ぐらいかもしれない。そういう子にしてはよく出来た子すぎるというか、あまりにも背負っているものが大きすぎる。

その背負っているものが、あの写真を見てブワっと出てくる。
鈴原サクラの背負っているものを考えて、私ももらい泣きしてしまった。

もう一つは、後半で、ゲンドウとヴィレ一同が対峙するシーン

そのとき、サクラは、

そうや ! 碇さんは私らを救ってくれた恩人や!
けど、うちらのお父ちゃんもニアサーで消えてもうたんやぞ!?
碇さんは恩人で! 仇なんや!

という言葉を吐いて、銃を下げる。
今、こうやって引用してても辛い。泣きそうになる。

自分の兄の親友が、自分を助け、しかし父を殺した。

結局サクラは、シンジを撃つのを止める
なんというか酷だ。背負っているものが大きすぎる。

追記:↑「シンジを撃つのを止める」と書いたが、バリバリに撃っていた。ミドリと勘違いしていた。
2回目を見て思ったが、サクラは庇護欲のある激情型かもしれない。将来ミサトっぽくなりそう。

いずれにしろ、やっぱり2回目もこのシーンは感動した。

お互いに好き「だった」人

シンジとアスカのことだが、この「だった」が良い。
寂しく思いつつも、しかし恋が終わったものとして、ちゃんと見つめているのが良い。

なんというか、こしょばゆい。

しかし、だからといってケンケンとくっつくのか?という疑問が湧かないでもない。

シンジとマリがくっつくのは理解できる。ゲンドウが初恋の人にこだわって、失敗している。それを乗り越えるのが彼の仕事であって、わざわざ二の舞になることはない。「どうやって恋仲になったのか?」という話はさておき、まぁ理解できる。

しかしアスカについては、ケンケンよりは加持リョウジ(息子)の方が、まだなんか良い気がした。
ケンケンは、ちょっと接触なさすぎて意外だった。

宇多田ヒカルはすごい

www.youtube.com

どう考えても、この曲は完璧にゲンドウの曲だった。
Beautiful WorldとBeautiful Boyがそういう意味だったとは。

宇多田ヒカルはすごい。本当に。

「終わらせたこと」に意味はない。「作ってきたこと」に意味がある。

いろんなブログを見ていると、「あーエヴァが終わってしまった」とか「丸く収めたのはすごい」みたいな感想がある。
そういう感想を否定するわけではないし、どんどん書いていいと思うのだが、私としては、今回の映画を「終わったこと」とか「収めたこと」それ自体で評価すべきではない。というか、そういう感想は素直じゃない。

私としては、この映画は、素晴らしい映画であって感動した映画だった。

それは、ずっと長い間掛けて作ってきた作品が、その「長い間掛けて作ってきたこと」に意味をもたせているからだ。
決して「終わったこと」とか「収めたこと」に意味があるのではない。「作ってきたこと」に意味がある。

だって、TVシリーズから見れば約25年だ。
それだけ長い間、心血注いでアニメを作ってきた。それが、技術的な面だけでなく、思想面においても今回の作品に結実していると思う。

今回の映画は、とても勇気づけられる映画だった。なんというか「明日からまた頑張ろう」と思わせてくれる映画だった。

他にも感動したシーンはたくさんあったので、2回目を見たら追記形式で、書いていくことにする。

追記:責任者としてのミサト

ミサトが特攻するときに、髪を解くのいいよね。

特攻するシーンは、あらゆる責任(母、ヴィレの責任者、シンジの保護者)を背負う感じで良かった。
その前にシンジが「リョウジくんに会った。いいヤツだったよ」と、ミサトに伝えるのも良い。
シンジはそういう会話ができるようになったんだなと思ったし、この先のミサトの運命が分かっていたのだろう。

そういえば、リツコがミサトに対して「あなたの感情に何回振り回されたことか...」みたいなセリフがあった。つまり「あんたも大概だよ」というツッコミなわけだが、ゲンドウは冬月からそういうツッコミを受けない。

冬月はあくまで「お前は、こういう考えなんだな?」という感じで、言語化したり、フォローするだけだ。反対せずに従うだけ。
そういう態度が、ゲンドウをあのようにさせてしまった一因なのではないか、とも思う。
というか、冬月は「先生」なのに、ゲンドウを教育しない。あれが一番怖い。

ちなみに「ミサトが死んだ」という直接的な描写はなかったが、今後エヴァが作られることはない気がするし、加持と一緒にあの世で暮らしていると考えれば、死んだと解釈したほうがいいんだろうと思う。
逆に、今後スピンオフなどが制作されて、「実は生きてました!」みたいな後出しは止めてほしい。萎える。

追記:なぜマリとくっついたか

最終的に、シンジがマリとくっついたことについて、いろいろ意見が分かれているようだ。

確かに「ぽっと出」のキャラだし、自分の名前を名乗ったのも、終盤入りかけぐらいで、ストーリー上の納得感は薄い。
しかし、恋愛に対して必然性とか正統性を求めるのは、ちょっと違うのではないかと思う。

「思いもよらぬ出会い」とか「一目惚れ」とか、人間の関係性は必然性だけで出来ていない。
むしろ、偶然に満ち溢れている。

ましてや、シンジが大人になり、父を超え、人類を救ったときに(文字通り)手を差し伸べて、過去の思い出を清算しながら、共闘したのはマリだった。
それだけのことをマリと一緒にやったのだから、くっついてもおかしくはない。

髪の長い綾波に会う直前、マリは「ワンコくん」じゃなくて「シンジ(くん)」と初めて呼んだ。
あだ名ではなく名前を呼んだのは、「シンジを大人として認めた」ということなのだろう。

「マリEND」は、第一印象では「えっ」という感じだが、よくよく考えてみると必然なのではないかという気がする。

 というわけで、2回目を見た後の追記は終わり。
3回目は行くかどうか迷っています。