かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

「ググれば分かるから、覚えなくていい」のか?

インターネットが発達して、あらゆる情報がネット空間に保存されている今、「ググれば分かるから、覚えなくていい」と主張する人がいる。

実は私も、以前はそう思っていた。

別に覚えなくていい。「情報のインデックスを作って、それが存在する場所さえ分かっていればいい」と。
人間は、世の中すべての情報を覚えられるわけではないし、脳にUSBメモリを差して情報をインストールできるわけでもない。
実際のところ、そういった知識のインデックス環境を構築することは必要だとは思う。

しかし、だからといって「覚えなくていい」ということにはならない。
インデックス環境の構築は、あくまで2次的なものであり、出来る限り頭の中に入れておいた方がいい。その努力をした方がよいと思うようになってきた。

実は私は今、家にある本を電子書籍化するという試みをしている。

もちろん全部というわけではないが、出来る限り電子化し、抜き書きしたものをiPadで参照できるようにする仕組みを考えている。
抜き書きをiPadに入れれば、どこでも読み返すことが出来る。通勤中に読み返していくうちに、頭の中に入っていくだろうという算段である。

「あえて覚えない」とか「自然と覚えているものだけを覚える」というのは、記憶の受動的な面しか考慮していない。
こういった態度は、例えば、東日本大震災の風化に対して、意識的に抗う行為は無駄ということを意味している。
しかし、抗うことには意味がある。壊れた建物を遺構とし、記録を残すことに意味がある。

記憶の能動的な面。覚えようとすること。こういった営みによって、残ったものが確かにある。
逆に、そういった能動的な面が薄れてしまったせいで、残らなかったものもある。
同語反復的な言い方だが、残らなかったら、もうそれは存在しないのだ。 

だから「覚えない」とか「覚えているものだけを覚える」というのは、未知の知識や、無くなっていくものに対する敬意が欠けている。
「外部ストレージから、必要なときに必要な分だけ取り出す」とか「記憶の能動性を捨てることで、楽に覚えられる」という効率重視の価値観が、そこには透けている。

覚えるということは、ググることや外部ストレージに記録することでは代替できない。
覚えるとは、この自分の体に「体得する」ということだ。その体得によって自分が変化し得るものだ。

覚えることの能動性と受動性は、元から両立しているものだ。
それをあえて分解し、効率のために一方を捨てることは、覚えることの本質から遠ざかっている。

というか、もはやそれは覚えることではない。 

効率重視の考えからいかに遠ざかるか。
自分を拡張してくれる技術が数多開発されていく中で、本来的な身体性をいかに忘れずに維持していくか。 

現代においては困難なことかもしれないが、そういうことができないかを考えている。