かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

「この地域に貢献したい」というが「地域」とは一体どこにあるのか

地方公務員のよくある志望動機として、「この地域に貢献したい」というものがある。
この核となる動機に、ボランティアとか高校時代の体験など、志望者の独自性を足していくことで、動機の独自性を形作っていく。
私も、そのように書いた記憶がある。

しかし「あなたは、自分のやっている仕事が地域に貢献していると実感していますか?」と聞かれると、なかなか難しい。

私たちは「全体の奉仕者」として「公共の利益」のために働いている。ただそれは、「そういう形式」を取っているだけで、実際のモノや形として「公共の利益」があるかというと、それはない。
「全体の奉仕者」とか「公共の利益」という単語は、あくまで訓示的なもの、目標として機能している言葉だ。

「この地域に貢献したい」と志望動機に書くのが、おかしいと言いたいわけではない。

しかし、実際に仕事をしていて「俺はいま、地域に貢献した!」という実感が湧くことは、あまりないということだ。

じゃあ何があるかと言えば「議案を作って議会に提出したときの達成感」とか「生活保護を受けている人の就労先が決まってうれしい」とか「準備したイベントが無事終わって良かった」とか、そういう実感だ。

私にとっては、こういう感覚こそ、仕事のやりがいである。

そもそも「この地域に貢献したい」とか「市民のために働きたい」というとき、その「地域」とか「市民」は、いったいどこにあって、誰なのだろうか。
「市民」という言葉でいうと、私たちが仕事で対峙するのは「窓口に来た田中さん」とか「町内会長の鈴木さん」であって、抽象的な市民と対峙しているわけではない。

「地域」という言葉は、もっと難しい。

というのも「窓口に来た田中さん」は、抽象度を高めれば「市民の一人」という属性の中に存在するが、「地域」という属性の中にはない。
「地域」という言葉は、関係を抽象化した概念である。つまり、市民一人だけでは成立しないし、そもそも人だけではなく、土地や歴史との関係も「地域」に含まれるだろう。

こうなってくると、「この地域に貢献したい」という言葉が、具体的に何を指すのかが分からなくなる。

仕事のやりがいを抽象概念に頼らない

先述したように、私にとっての仕事のやりがいは、仕事が終わったときの達成感とか、自分が支援したことによって、誰かが助かった瞬間にある。
私がやっている仕事は、確かに「市民」や「地域」への貢献なのかもしれない。しかし、私はそういう言葉を使いたくない。

「市民」とか「地域」という言葉は、便利な言葉だ。

しかしその便利さは、これらの言葉の中身が、空虚だからだ。何か言っているようで、実質的には何も言っていないからである。
そして空虚であるということは、「私が思う市民」とか「俺が思う地域」を、簡単に代入することが出来るということでもある。

こういう言葉に頼ってはいけない。

こういう言葉に頼る人は、やがて暴走する。
「私が思う市民」を勝手に代入して、そぐわない人間を「お前は市民じゃない」と切り捨てる。Twitterやヤフコメを見れば、そういう人が多くいることが分かる。

「地域のため」「市民のため」という抽象的なやりがいは、ある種の「革命思想」である。
階段を何段も飛ばして、いきなりヘリコプターで高みに着いてしまうようなことは、ほとんど出来ない。
現実は、往々にして、牛のようにゆっくり進むのだ。

目の前の仕事、目の前の人をやりがいにして仕事をする。
もしかしたら、その積み重ねが、市民や地域のためになっているのかもしれない。

私たちはそれを「やりがい」ではなく、「願い」として捉えなければいけない。