かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

セラピーとしての整体

先日マッサージに行った。

前の部署のときは、頻繁に行っていたのだが、異動してからは久しく行ってなかった。前部署はストレス過多だったのだろう。
実は、整体動画もよく見ていて、特にカイロプラクティック的な、骨をボキボキ鳴らす系の動画が好きである。

こういった整体動画でよく言及されるのは、「歪み」である。

「ここが歪んでますね」とか「左右のバランスが悪いですね」などと言われる。そして、それを「矯正する」などといって、整体が始まる。
実際カイロを受けたことがあるが、「ここが歪んでますね」と言いながら触られる場所は確かに痛いし、施術された後は、痛みがなくなる。
本当にそれで「歪み」がなくなっているのかはよく分からないが、とにかくすっきりするのは確かだ。

しかし、そもそも「歪み」というのは何だろうか。

最初は、左右のバランスのことだと考えていた。
「身体は左右対称となっているべきだ」という価値観があって、それを満たしていないことを「歪み」と呼んでいるものだと思っていた。

例えば整体動画の中でも、右足と左足の長さを比べて、著しく差があると、「歪み」と判断される。
しかし、臓器の例を考えれば分かるように、人間の身体は左右対称ではない。
そうすると整体で矯正している「歪み」も、体の左右のバランスから生じるものではない。

それでは、もっと抽象度を高めて、歪みとは「適切な位置にないこと」という定義になるかもしれない。

しかし、それでもやはり「身体にとって『適切な位置』とは何か?」という問題が残る。
人それぞれ、骨格も筋肉も臓器も異なるのに「身体にとって適切な位置」などあり得るのだろうか。
例えば、五体満足ではない人や臓器を摘出した人にとって、「適切な位置」とは何なのだろうか。 

こう考えていくと、そもそも「適切な位置」という考え方自体に「人間が目指すべき姿」という人為的な価値観が紛れているように思う。

「人間には身体的に目指すべき『適切な位置』があって、それは整体によって達成される」というのが整体の考え方だ。そして、整体によって導かれた「適切な位置」は、不摂生な生活を過ごしていると、すぐに「歪み」が出てしまう。

どこか宗教的な修行と似ている。

つまり整体やマッサージは、曖昧な「身体の適切な位置」を目指して、医学的な身体状況の改善を標榜しつつも、実際に施術したあとに「適切な位置」になっているかどうかは分からない。
むしろ、それは終わりなき追求であり、どこかブラセボ的に「治った“感じ”」を得るための施術である。

その意味で「整体セラピー」と言ってもよい。

だから「波動整体」とか「触れただけで治る神業」といった、精神世界的な考え方と繋がる整体が出てくるし、カイロプラクティック的な「ボキッ」という施術も、マジックで指を鳴らすのと同じで「キッカケ」のために必要なのだ。

しかし「人間に『歪み』があって何が悪いのか」と思う。

ちょっとの歪みぐらい許容する整体のほうが、実はいいのではないか。
「まぁ歪んでるけど、大したことないですよ」と、客を追い返す整体。

「そんな整体、あり得るのか?」と言われれば難しいかもしれないが、そういう店の方が信頼できる気がするのは私だけだろうか。