かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

「自分がコントロールできることに集中しよう」という考えの弊害

「自分がコントロールできることに集中して、コントロールできないことは悩まないようにしよう」という内容は、自己啓発系でよく言われることだ。
確か、あるスポーツ選手が言い始めて、一気に広がっていった言葉だったと思う。

こういうマインドは確かに必要だ。悩んだところでどうしようもないことを延々と悩み続けることは、何の意味もないし、本人の精神的な負担にもなる。
だから、「コントロール出来ること」と「コントロール出来ないこと」を分けて、出来ることだけに集中しようという考え方は理解できるし、私自身そう考えているときもある。 

しかし一方で、この考え方には弊害もある。

 

1つ目は「コントロール出来ないこと」への関心が薄らいでいくということだ。
当然だが、コントロール出来ることに専心することの裏返しとして、コントロール出来ないことへの無関心が生じるということが言えるだろう。

しかし、コントロール出来ないことへの無関心には、いろんな弊害があると思われる。

例えば、仕事について考えてみよう。そもそも仕事というのは自分一人で出来るものではない。仕事は必ず社会的な関係が伴う。そうでなければただの趣味である。

そうすると自分の仕事は、他者との関係で位置づけられるはずだが、この他者はコントロール出来ない。

では、「コントロール出来ることに集中しよう」というアドバイスを素直に聞いたとしよう。自分の仕事だけに集中して、仕事相手や取引先のことを考えないとか、自分の上司からどう思われるかを考えないという行動に出てしまえば、おそらくその仕事はうまく行かないだろう。

 

2つ目は、「コントロール出来ないこと」を恣意的に変更できるということだ。

そもそも「コントロール出来ない」というのは、どういう状態のことを言うのだろう。形式的に決定権者ではないという意味なのか、実質的に統括できる立場にないという意味なのか、働きかけすら出来ないという意味なのか。また仕事の状況によっては、今までコントロール出来なかったことが出来るようになったり、またその逆も当然考えられるだろう。

このように「コントロール出来ないこと」の基準は、極めて主観的で恣意的にならざるを得ない。

この考えをもっと進めていくと、面倒くさい部分を「コントロール出来ない」と恣意的に決めつけることで、本来関心を持つべき場面で持たなくなったり、無関心な領域が無秩序に拡大していくことになる。

例えば、ずっと課題となっている政治的無関心は、まさに「コントロール出来ないこと」への無関心である。

政治的無関心は、素直に「政治は、自分の生活に関係ない」と思っているのではない。本当は1票でも、投票することに意味があるのに、「自分が投票したところで、意味がない」という無能感から来る無関心である。

 

3つ目は、自分に出来ることの範囲が広がっていかないということだ。

1つ目の話にも繋がってくるが、「出来ないことが出来るようになる」という成長の過程の発端には、当然「出来ないこと」への接触がある。

「自分のコントロール出来ることだけに集中しよう」という考えでは、「出来ないこと」への接触はほとんどなく、ただ「出来ること」の中で閉じこもることになる。

ましてや成長の過程は「自分はコントロール出来ない」ということを、絶えず体感する過程でもある。

そういう意味で「自分のコントロール出来ることだけに集中する」という考え方は、箱庭化を加速させる考えのように思う。

 

「自分のコントロール出来ることに集中しよう」という考え方を、全面的に否定するつもりはない。
社会は複雑になりすぎていて、変数が非常に多い連立方程式のようになっている。これを解くのは至難の業だから、関心範囲を縮減しようという気持ちも分かる。

しかし、そのような考えが広まった結果、他者への無関心が広まり、やらない言い訳にもなる。

そもそも現実問題として、人間は絶えずコントロール出来ないこととの関わりがある。こういった接触を無視することはできない。

「自分がコントロールできることに集中しよう」という考えは、ある部分においては有用かもしれないが、人生全体に拡大させてしまえば、それは弊害が大きいように思う。