かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

【伊藤亜紗】他者にふれる(NHK文化センター青山教室)に行ってきた

7月10日にNHK文化センター青山教室で行われた伊藤亜紗さんの講義「他者にふれる」に行ってきた。
そのときに書いていたメモを参照しつつ、講義の概要と感想を書いていきたいと思う。

なぜ美学を研究対象としたのか

元々、生物学を勉強しようと思っていた。なぜ生物学かといえば「私が人間じゃなかったら、世界はどう見えていたんだろうか?」という小さい頃の疑問から始まっている。
生物が違えば、当然その時間感覚や空間感覚も違う。

この「人間でなければ世界はどう見えていたんだろうか?」という疑問は、「他の生物でもあり得た自分」という偶然性の感覚にもつながっている。そして偶然であるがゆえに、まさにこの”自分”であることを引き受けるという感覚にもつながっている。

「人間でなければ世界はどう見えていたんだろうか?」という疑問から生物学を専攻した。しかし、当時の生物学はデータ偏重のように見えて、どんなにデータに分解したところで生物の真理にたどり着くのだろうか?という疑問が生じた。

そこで美学に文転した。美学には「人間の感覚は、言葉だけでは表現できないよね」という前提があり、それが気に入ったから美学を選んだ。

2つの接触

今回のコロナ禍は、あらゆる人間を”接触障害”にした。今回の講義では「さわる」と「ふれる」という”2つの接触”から話していきたい。

「さわる」と「ふれる」の違いは、「傷口に~」という接頭語をつければ分かりやすい。
「傷口にさわる」は、どこか一方的でモノとして扱い、痛そうで思わず身を引いてしまうような印象を受ける。反対に「傷口にふれる」は、私のことをちゃんと人間扱いしていて、傷を労ってくれるような印象を抱く。

この違いは、西洋医学東洋医学の違いとも言える。西洋医学は、人間の身体をモノとして捉える。例えば触診をするときは、臓器の反応が大事なのであって、患者の「くすぐったい」という反応は重要視されない。一方、東洋医学は臓器だけでなく、患者の反応も含めた私の総体を診察する。

信頼の奥行き

以前、視覚障害者の伴走を体験したことがある。輪っかの付いたヒモを走者と伴走者で持って、目隠しで走るというものだ。
つまり、視覚は使わずに、ヒモから伝わる触覚を頼りにして走らなければならない。

我々は、普段から視覚に頼った生活を行っている。人間関係で言えば、”視覚的人間関係”を結んでいると言ってよいだろう。しかし、我々の感覚は視覚だけではない。伴走体験によって考えたのは、視覚的人間関係だけではない、触覚的人間関係とも言うべき信頼の奥行きの可能性である。

コミュニケーションにおける2つのモード

「さわる」と「ふれる」 に対応するように、コミュニケーションにも2つのモードがある。一つは、一方的で「さわる」に対応する伝達モード。もう一つは、相互的で「ふれる」に対応する生成モードだ。

障害者とのコミュニケーションを例にだそう。障害者とのコミュニケーションは、本人の自立を阻害する形で行われることが多い。周囲の人間が、ハナから「この人は出来ないから、手伝ってあげよう」と、本人に代わってなんでもやってしまう。

このようなコミュニケーションは、相手の気持ちを考えずに、こちらが勝手に「助けが必要なはずだ」と決めつけて一方的に行っているわけで、伝達モードといえる。

生成モードは、やることが最初から決まっているのではなく、コミュニケーションの中で”生成”されていく。だから障害者とコミュニケーションを取って、自分でやりたいこと、やりたくないこと、出来ないことなどを聞きながら、やるべきことが決まっていく。

利他とうつわ

誰かのためにやってあげることを利他という。しかし、利他というのは一般的な道徳としてあるわけではなく、あくまでその場での個別的な倫理として発生する。それは、「~すべし」という命令ではなく、「この人は何を考えているのだろう」とか「どうしたら受け入れてくれるだろう」という悩みの中で生まれる。

結局のところ、利他的行為というのは、相手が受け入れなければ利他にはならない。こちらがいくら気を使っても、相手にとって必要がなければ、ただのお節介になってしまう。

そういう意味で利他は、時差のある生成モード的コミュニケーションといえる。

このような利他を行うには、計画倒れを喜ぶ”うつわ”が重要だろう。こちらが意図する方向(伝達モード)に行かなくても、相手に委ね(生成モード)ながら、コミュニケーションを進めていけるような余裕が必要になる。

現代は、利他が減っていきやすい社会である。例えば「好きだと言われて嬉しいか?」というアンケートでは、「嬉しくない」と答える人が結構多い。理由を見てみると、男性が「私に似つかわしくない」などの自己肯定感が問題になっている一方で、女性は「借りを感じてしまう」というような交換的関係を前提においている。

このように、人間関係を交換的に見てしまうことによって、利他的行為に必要な”うつわ”は減っていってしまうのではないか。

感想(伝達モードの事例)

私は福祉の仕事をしているから、伊藤さんの議論を、かなり具体的な経験に重ねて聞いていた。

例えば、お年寄りが自宅で暮らせなくなって、老人ホームに入りたいという相談がある。関係者で集まって話を聞いてみると、老人ホームに入れたいのは親族やケアマネなどの関係者だけで、当の本人は「まだ老人ホームなんて行く年じゃない!」と怒っていたりする。

つまり、老人ホームに入るのは本人なのに、本人の意見を尊重しない。
まさにこれは、伝達モードのコミュニケーションだと思う。

関係者としては「本人の気持ちを親身に聞いていたら、埒が明かない」という気持ちなのだろう。だけど、そういうことをすればするほど、信頼はなくなっていくのではないかと思う。

伊藤さんも似たような事例を挙げていたが、こういう場合は結局、本人の気持ちが変わるのを待つしかない。いくら周りが催促したところで、本人が気づかないと、逆に態度を頑なにしたりする。

気づくには2年も3年もかかるかもしれない。その間に倒れてしまうかもしれない。でも、周囲の人間がメリット・デメリットをちゃんと説明したのであれば、本人が例えその選択で損をしたとしても、結局それは本人が望んだことなんじゃないかと思ったりする。

感想(データと交換)

人間の交換的関係という話は、自分たちの生活環境が、数値によって変換され始めているということに起因する。これはまさに、伊藤さんが冒頭で話していた生物学から美学への転換の話にもつながってくる。

このように、我々の生活環境がデータ化され始めている状況において、私たちに何が出来るのか。それとも何も出来ずに従うしかないのか。データ化によって私たちの心理や文化がどのように変化するのかということは、やはり考えていかなければならないことなのだろう。

感想(環境や場に対する信頼)

伊藤さんの議論を聞いていて、ずっと疑問に思っていたことがある。それは、生成モードと簡単に言うけど、少なくとも初対面の人と、すぐに生成モードになるのは難しいのではないか?ということだ。

生成モードのコミュニケーションを作り上げるには、ある程度の時間が必要である。しかし、今この場所に信頼がないのであれば、時間を掛けてコミュニケーションをすることは出来ない。だから、生成モードのコミュニケーションを考える上で大事なのは、「私とあなた」という人間関係だけでなく、その2人がいる環境に対する信頼(「心理的安全性」は、まさにそういうことだろう)のことも考えていかなければならない。

結局「私とあなた」という人間関係だけで考えてしまうと、「利他のためには、余裕を持て!」という精神論に陥ってしまう。
それはそれで大事なことだが、もっと構造的に把握していく方向もあるのではないだろうか。

ただ、その環境に対する信頼がどうやって培われていくかといえば、やはりそれもコミュニケーションであって、時間が必要になる。だから結局は「私とあなた」と同じような袋小路に陥る。

このように考えていくと、コミュニケーションの起源には”暴力性”があるということを認めなければならない。
「さわる」はダメで「ふれる」は良い。だから「ふれる」を増やしていこう!というお人好しな議論だけではなく、「さわる」の有用性についても掘り下げていかなければならない気がした。