かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

現役地方公務員が”スーパー公務員”について思うこと

”スーパー公務員”という言葉には、前から違和感を抱いていた。
以前には、こんな記事も書いたことがある。

今でもこういう気持ちは変わっていないし、むしろ違和感は強くなっている。
そこで、現在私が”スーパー公務員”に対して、どう思っているのかを批判的に書いてみたい。

前提として、今回の文章は”スーパー公務員”と呼ばれている人に対する批判ではなく、”スーパー公務員”という概念に対する批判であることは言っておきたい。

”スーパー公務員”の定義は難しい

さて、”スーパー公務員”について話すには、「スーパー公務員とはなにか?」について、考えていかなければいけない。
しかし、改めて考えてみると「スーパー公務員とは何か?」という問いに答えるのはなかなか難しい。

ウィキペディアには、ご丁寧に”スーパー公務員”という項がある。

これを見ると「21世紀型の理想的な公務員像とされる存在の通称」とされ、具体的には「20世紀型の公務員は予算配分と行政指導を行ってきたが、『自ら考え、リスクも取りながら政策を立案する。調整型から立案型への転換が21世紀に求められる公務員像ではないか』」という文言がある。

「自ら考え、リスクも取りながら政策を立案する」という文言からも分かるように、いわゆる「お役所仕事」と言われるような受動的な態度ではなく、積極的な態度が求められていることが分かる。

しかし、抽象的には理解できるとしても、具体的にはどういうことなのか?という疑問が残る。そして、ウィキペディアから引用した文言と、現在言われているような”スーパー公務員”という言葉の意味は、感覚的にかなりズレているように思う。

現在”スーパー公務員”という言葉から喚起される印象は、以下のようなものだろう。

・分かりやすい成果を出している
・「地方公務員が本当にすごい!と思う地方公務員アワード」に選ばれている
・業務外での活動が評価されていることが多い
・地域振興に関連する人が多い

率直に言って、”スーパー公務員”という言葉を厳密に定義しなくても、これから私が話したいことは伝わると思うので、このようなイメージが共有できていればよいと思う。

”スーパー公務員”という評価はどのような評価か。

まずここで考えたいのは「”スーパー公務員”という評価は、どういう評価なのか?」ということだ。例えば、私が行っていた法制執務の業務で"スーパー公務員”になることはできるのだろうか?おそらく難しいだろう。

法規担当という仕事の本質は、いわばゴールキーパーのように「失点を防ぐこと」にある。つまり、マイナスにならないようにするのが仕事であって、プラスの作用を生み出すことは、あまりない。

分かりやすい例は、防災関係の部署だろう。防災関係の業務の成果は、災害が起こったときに初めて分かる。そしてその評価は、「+3」とか「+10」といった目に見える評価ではなく、「-10が-5になった」というような、マイナス世界の中での評価となってしまう場合も多く存在する。

例えば「-10が-5に減った」のが事実だとしても、当事者から見れば「-5」であることには変わりない。災害で家が半壊した人に対して「我々の仕事がなかったら、半壊ではなく全壊でしたよ」などと言えるはずがないのだ。

このように、仕事の成果が目に見えて分かるような業務は、公務員という仕事においては限られている。

公務員は基本的に、公共財を扱う仕事だ。公共財とは、それを放置すると生活水準が落ちるが、市場経済において評価を得るのが難しいものを言う。
つまりそもそも公務員は、 市場=目に見えた成果 が分かりづらい仕事を扱っている。

 ”元スーパー公務員”はなぜあり得るか?

話を進めて、仮に私が、成果が分かりやすい部署に配属されたとしよう。その部署で大活躍して、見事”スーパー公務員”と呼ばれるようになった。しかし、その2年後に介護保険関係の部署に異動したとする。
そのとき私は、”スーパー公務員”のままなのだろうか。それとも”元スーパー公務員”となってしまうのだろうか。

一般的には、異動先で新たな実績を作ったり、その積み重ねがない限り、”スーパー公務員”と呼ばれることはないだろう。なぜなら”スーパー公務員”という呼称は、卓越した業務実績から、そう呼ばれるからだ。
しかし実際には、”スーパー公務員”は異動したあとも、そう呼ばれたりする。試しに”元スーパー公務員”と検索をかけてみると、意外と多いことが分かる。

つまり”スーパー公務員”は、組織や実績に付随した言葉ではなく、属人的な言葉になっている。

なぜ”スーパー公務員”は生まれたのか?

なぜ”スーパー公務員”という属人的な考え方が生まれたのか。

いろいろな理由があるだろうが、インターネット、そしてSNSの隆盛はやはり大きいだろう。
現在の環境は、個人が組織を介することなく、世界へ発信し、つながることが出来る。これまで、ある公務員を評価する者は組織の上司だけだった。今では組織を飛び越え、外部からも評価されやすい環境となった。

そもそもこのような概念が出てきたのは、内部で適切な評価をなされていないことから来る。いくら頑張っても報われない。給料もそれほど上がらないし、管理職になれるわけでもない。だから外部にアピールして、外から評価してもらう。

”スーパー公務員”という属人的な概念は、いわば外部を利用して、自分の評価を高めていくことを希求している。
そして、外部に評価されるためには、公務員の中でしかわからないような成果ではなく、外部の人でも分かる実績が必要とされる。
そういう意味で、職場内部で「あいつはスーパー公務員だ」と言われるときは、あまりいい意味ではないだろう。

スーパー公務員のなにが問題か?

”スーパー公務員”という概念の問題は2つある。

1つは、すべての地方公務員が”スーパー公務員”になることは、仕事の構造的に難しいという点だ。これまで見てきたように、”スーパー公務員”という概念は属人的なのにも関わらず、”スーパー公務員”へのなりやすさは、実際には業務内容にひどく依存する。

だから能力がある人でも、地味な仕事に従事しているのであれば”スーパー公務員”にはなれない。派手な仕事で、かつ、それなりの業績を残して初めて”スーパー公務員”と呼ばれる。

果たして、そのような市場原理的な考え方で、評価が行われて良いのか?という点は指摘しなければならない。

2つ目は、”スーパー公務員”と”普通の公務員”を分断してしまったことだ。

いま述べたように、”スーパー公務員”へのなりやすさは、業務内容にひどく依存する。しかしその業務内容は「自分はどこに配属されるのか?」という偶然によって決まる。
それにも関わらず、「スーパー公務員は仕事が出来て、普通の公務員はお役所仕事に甘んじている」と区別してしまうのは、非常に残念だし、無用な対立関係が生まれてしまう。

一番の問題は、このような分断が一度行われてしまうと、評価されづらい仕事をしている者は「はいはい、私たちはどうせ”お役所仕事”ですよ」と、モチベーションが下がってしまうことだ。

 

我々がやらなければいけないのは、「スーパー公務員になりたい」という人を増やすことではなく、「お役所仕事はかっこいい」と思ってもらうことではないだろうか。”スーパー公務員”の特殊性を宣伝するより、”お役所仕事”の重要性や魅力を周知することではないだろうか。

世の中の公務員の99.9%が無名な中で、その”名無しの公務員”が社会の少なからぬ部分を担っているということは、もっと考えられても良いはずだ。