かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

総理大臣に「お疲れ様でした」という気持ち

菅総理が、次期総裁選に出馬しないというニュースから、報道は政局で持ち切りである。引用したブログほど嫌悪感を抱いているわけではないのだが、SNSを見て気になるのが、こういった「総理退陣」のニュースを引用RTして「お疲れ様でした」とコメントしたり、総理のTwitterアカウントに「お疲れ様でした」とリプライを送っている人である。

そもそも、一般市民が政治家に対して「お疲れ様でした」ということは、10年前にはなかったように思う。このような風潮が出てきた(又は目立ってきた)のは、SNSという一人ひとりが意見を発信することが出来るインフラが整ったことが発端だろう。

さて、私は政治家に対して「お疲れ様でした」と言っている人を見ると、少し違和感を覚える。彼らはどういう気持ちで、「お疲れ様でした」と言っているのだろうか。

一般的に、他人に「お疲れ様でした」というときは、まず相手の「お疲れ度合い」を把握することが必要になる。その把握のためには、お互いがある程度既知の関係にいる必要があるだろう。

私が抱いている違和感は、

①   知らない人から「お疲れ様でした」と言われる違和感
②   「お疲れ度合い」を把握しないまま「お疲れ様でした」と言う違和感

の2つである。

おそらくこれは、「お疲れ様でした」と言っている一般市民のことを、政治家側は知らないということから起因する。

つまり、政治家に対して「お疲れ様でした」と発言したところで、政治家は「で、誰?」という話になってしまう(返信がある可能性もあるが)。
だから「お疲れ様でした」と発言した人にとっては、政治家本人に対してコミュニケーションが成立してしまっては逆に困る。少なくとも、返信が来たら驚くだろう。

こう考えていくと、政治家に対して「お疲れ様でした」と言うことは、その政治家に対して向けられた言葉ではなく、その発言を見ている周りの人に向けた言葉だということが分かる。

おそらく、彼ら/彼女らが「お疲れ様でした」という理由は、単に労をねぎらっているのではなく、「私はあなたの“お疲れ度合い“を把握してますよ」とか「(政治に無関心な人たちとは違って)私はちゃんと理解していますよ」という周りへのアピールや差異化なのだと思う。

別に批判をしたいというわけではないのだが、「なぜ違和感を覚えてしまうのか」と気になったのでメモしてみた。