かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

小林秀雄は少し苦手だった

最近、小林秀雄の本を何冊か読んだ。

なぜ小林秀雄なのか?と問われると、答えるのが難しい。ただ、何かに付けて名前は知っていたし「学生との対話」はなぜか読んでいたので、集中的に読んでみようと思った。

結論からいうと、小林秀雄は、私にとっては少し苦手な部類の著述家だったようだ。

彼は、個別的な経験とか日常的な知性を重視する。反対に、抽象的な概念や科学的知性を嫌う。その態度は、文章にも現れていて、「俺はこう感じた」という印象論で文章が続いていく。抽象度を高めて、読者を説得しようという感じがない。

だから、ある一文に対して共感することはあれど、文章全体としては、「それってあなたの感想ですよね?」と、なってしまう。批判しようとしても、分析的に書かれているわけではないから、「いや俺はこう思ったんだよ」と言われて議論が終わってしまうと思う。

 

小林秀雄の場合、日常的な知性と科学的知性の境目は、「言葉」にあるのだろう。

自然は文を求めはしない。言って文あるのが、思うところを、ととのえるのが歌だ。思うところをそのまま言うのは、歌ではない、ただの言葉だ。(考えるヒント 90)

例えば、こういうフレーズを見たときに、なぜ”文学的な自然”を歌にするのは良いのに、科学的自然を概念を使って整理することについて、彼は嫌悪感を覚えるのか。単に「学問嫌い」とか「理系嫌い」というだけではないか、という気もする。

「学生との対話」では、

だから、科学というものは個性をどうすることもできない。しかし、僕らの本当の経験というものは、常に個性に密着しているではないか。個性に密着しても、僕は生物たる事を止めやしない。だから、科学よりも歴史の方がもとです。(学生との対話 28)

などと、トーンダウンしていて、これならまだ理解できる。

 

君達のイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さればならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。(「考えるヒント」28)

このようなことは、柄谷行人も言っていたような気がする。
影響を受けたのか、たまたま同じことを言っているのか分からないが、そんなものなのかもしれない。10年ほど前に「ワンイシュー」などと言って盛り上がっていたことを思い出した。

改訂版 小林秀雄の哲学 (朝日新書)にも書いてあるが、小林秀雄の著作は、結局のところ「彼の世界に入り込めるか、入り込めないか」に依るのだろう。