かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

「なぜ仕組みにこだわるのか?」という問いと、その答え

Twitterで「自分が居なくても仕事が回ることを目指す」ということを話したことがあって、それについて考えてみたい。私が言いたいのは、次のようなことだ。

1. 特定の人に依存した仕事を避けたい
2. 業務の方法や経過を形として残したい
3. 体系的に業務を構成することで、業務に対する理解を深めたい

特定の人に依存した仕事を避けたい

まず1について説明すると、例えば「介護保険のことだったら○○さんに聞け」という慣習があったとする。私はこの状況があまり好きではない。その人から介護保険制度のことをいろいろ聞いて、文書にして共有した方が絶対に良い。

なぜなら、第一に、知識や技能を特定の人が抱えることによって、その人がいなくなったとき(異動・休暇・病欠のとき)に誰も分からなくなる。第二に、体系化されていないがために、その知識や技能が適切かどうかの検証がしづらい。

第三に、業務の効率化という面も挙げることが出来る。特定の人が知識や技能を専有することで、その人は同僚から頼りにされ、部署内での政治的影響力を増すことが出来る。だから、知識や技能は専有されやすい。しかし基本的に、同じ仕事であれば一人でやるより、複数人で手分けしてやる方が効率的だ。例え一人でやる方が早いとしても、複数人で出来るという選択肢が存在していた方が良い。

だから、業務効率化のためには、知識や技能の専有状態を崩し、共有されていた方が良い。

業務の方法や経過を形として残したい

次に2について説明したい。業務においては、イレギュラーな問題に接することも多い。例えばいくつかの対応方法があって、どれが良いかで迷っているとする。このときに「私は、こっちの方が良いと思う!」という個人のセンスで決めてしまうのは無責任である。クリエイティブ職ならまだしも、公務員たるもの、まずは前例を参照しなければならない。

そのとき「そもそも前例が記録として残っているのか?」は重大な問題だ。残っていなければ、そもそも参照できないわけだから、根拠をゼロから調べていくしかない。

まさに公務員における文書主義の話だが、当時の経緯が記録が残らず、ある職員の“記憶”だけを根拠に対応することは、やはり望ましくない。そもそもせっかく当時調べたことが後世に受け継がれないのは、もったいないことだ。当時の記録が残っているかどうかはゼロかイチかであり、両者の差はたった1だが、かなり大きな差である。

だから、個人の経験や記憶だけにとどめておかず、それを共有できる状態にしておくことというのは、当たり前だが、重要なことである。

 

ちなみに、ここで言いたいのは「前例に従わなければならない」ということではない。当時と今では状況も違う。前例に従うだけでは、進歩はない。私が言いたいのは、過去に同じような問題が起こっていたときに「どのような状況で、どのような根拠で、どのような判断をしたのか」が分かれば、少なくともイレギュラーな問題を解くためのヒントにはなるということだ。

前例を参照したうえで「当時はこういう状況だったけど、今はこういう状況だから、こういう判断をしよう」という考え方をしなければならない。(おそらく我々より”前例”を重んじる皇族でも、同じような考えで動いているという話が侍従長の十年半 天皇家の執事 (文春文庫)に書いてあったような気がする。)

前例は根拠ではない。あくまで参照するものであって、ヒントにしかならない。

体系的に業務を構成することで、業務に対する理解を深めたい

次に3について説明したい。これまで、ある個人が専有していた技能や知識を共有するには、文書、図、写真、映像など、なんらかの形にする必要がある。これは、個人の経験や記憶を元に客観的な記載をすることが求められる。

このような作業を行った者は、体系的な業務の理解が進む。人に伝わる形に落とし込むことによって、感覚的に理解していたことを言語化する必要があり、自分の業務のMECEを意識することになる。また、そのような作業を通してできた文書等を共有することで、当然、同僚の理解も進むだろう。

もちろん、どのぐらいまで理解が進むかは、共有する形や内容による。例えば、「単に手順だけを追っていけば業務が出来るだけのマニュアル」を作ってしまえば、業務は出来るかもしれないが、理解は進まない。ある銀行員が前任者からマニュアルを引き継いで、その通りにやっていたら、実はそれが違法なやり方だったという話を聞いたことがある。

ここまで極端な話は、現実には少ないかもしれないが、マニュアルを作ることによって「今私はどういうことをしているのか?」という理解を阻害してしまう面はあるだろう。だから、マニュアルを作るのであれば、手順だけを書くのではなく、「なぜそれをやるのか?」「なぜその手順なのか?」といった理由や「その業務を行わなければならない背景」などは盛り込んでおくべきだろう。

仕組みに”こだわる”理由

ここまでは、どちらかといえば客観的な話で、カッチリした話だった。しかしここからは、もっと主観的な方向で、「なぜ私は仕組みにこだわるのか」を考えていきたい。

まず「なぜ私は仕組みにこだわるのか?」という問いについて。この問いに対する答えは「自分が異動しても、仕事が回るように」という利他的な動機ではない。そもそも、こういう利他的な動機を私はあまり信用しておらず、「結局は自分のためでしょう?」と思っているフシがある(それが悪いと言っているわけではない)。

もし「自分が異動しても…」に近い動機があるとすれば、それは「この仕組みを作った方が、絶対に効率が良い」という確信だ。逆に言えば「なんで、わざわざ効率の悪いやり方で仕事してるの?」と思っている部分について、仕組みに落とし込んで改善していきたいという気持ちを持っている。

簡単に言えば、“おせっかい”なのだ。

私の人間理解

そもそも私は、(私も含めた)人間に対する理解として「心ではやろう思っているけど、実際は面倒くさくてやらない生き物だ」と考えている。人間は、自分からは手を挙げないが、どこかできっかけを欲しているし、“段取りをつけてくれる人”を求めている。

「心ではやろう思っているけど、実際は面倒くさくてやらない生き物だ」という前提を逆に考えると、「きっかけを与えると、意外と変わることがある」し、「1度仕組みを作ると、なかなか変わらない」ものだと思っている。

こういう状態を私は「もったいない」と思ってしまう。みんなが改善したいと考えているのに、誰もそれを言い出さないということだけで、改善されない。「じゃあ面倒くさいことにあまり抵抗のない私が、キッカケを作ろう。」そういう感覚で、私は“おせっかい”をすることが多い。また、そうやって動き出さないまま我慢することに、消化不良感を覚えるということもあるだろう。

あれこれ改善に動くことには、当然弊害もあって、まず“出しゃばり”であることは確かだ。「俺がきっかけを作る」という考え方自体、極めて横柄だと思う。また「みんなが改善したいと考えている」と言うが、実際は違うかもしれないし、実際に動き出しても必ずいい結果をもたらすわけではない。

だが、後に話す私の気質などを考えたときに、私には、この“おせっかい”や“出しゃばり”が向いているのだと思うし、多少弊害があっても意味があると思っている。

また、私には地頭がないから、道具や仕組みをフル活用して、自分の能力以外で勝負していかないと仕事を進めることが出来ない。マルチタスクが出来ないので、シングルタスクに切り分けて、優先順位をつける。ケースと話すのが苦手で、聞こうとしたことを忘れたりする。だから自分専用の質問票を作って備える。これまでそういうことをやってきて、ようやく人並みに仕事が出来るようになってきた。

これまでつらつら書いていることは、個人でやってきたことを同僚や組織に延長させているだけである。

経験を増やそうと思ったキッカケ

そもそも私は、何か問題が起こったときに、それを分析して改善するという営み自体が、好きなのだと思う。トラブルや予想外が(嫌だけど)好きなのだ。

なぜなら「問題→対策を考える→改善」というサイクルをこなしていくことが、自分の知識や経験を増やすのに、一番手っ取り早いからである。というよりむしろ、このような方法(そもそもこれは「方法」と言えるのだろうか?)によってでしか、自分の経験は増えない。また「こういう経験を率先して増やしていかないと、さもしい人間になるのではないか?」という恐怖心も同時にある。

なぜそのような考えに行きついたのか。

きっかけは、一つには自分が病んでいたころに行った占い師に「結果が予想できたとしても、経験してみることが大事」と言われたこと。もう一つは約3年前に行ったチェルノブイリツアーに行ったことだと思う。

占いと俗世 - かつげんの拠り所

素人がチェルノブイリと福島に行ってきた(その1) - かつげんの拠り所

そもそも、チェルノブイリツアーに行ったこと自体、「経験してみることが大事」という占い師の言葉の影響があったと思う。

チェルノブイリツアーに参加して思ったのは、「世の中にはいろんな人がいる」ということ。チェルノブイリ云々ということも当然勉強になったが、それよりもチェルノブイリツアーに集まる多種多様な人々(こんなツアーに集まる人は、どう考えても「多種多様」だろう。)に、「自分が住んでいる世界はいかに狭いか」ということを思い知らされた。

それからは「自分の知らない人や空間が、私の外にはもっと広がっていて、それは積極的にチャレンジしていかないと経験できない」と考えるようになった。

 

客観的な理由を色々と建てることはできるけれど、最終的には「私の気質や好きなことの結果として、仕組みにこだわっているのだ」というところに帰結する。一言でいえば「趣味でやってる」ということだろう。それで良いと思うし、それが良いと思う。