かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

電子書籍の手触り

私は、家にある本をPDF化にして、PC上で読むようにしている。おかげで、本棚はスカスカになった。PDF化した理由はいくつかある。

1つ目は、ブログなどで引用しづらいこと。紙の本で読んでいると、ブログなどで本を引用しようとしても、コピペできない。いちいち手打ちしなければならないから、手間にもなるし、ミスにも繋がる。

2つ目は、検索できないこと。PDFだと「こういうこと言ってたよなぁ」と思って適当な単語で検索をかければ、基本的に引っかかってくれる。紙の本では、検索ができないから、ページをめくって該当部分を見つけなければならない。

3つ目は、引っ越しが楽なこと。本だけで何箱もダンボールを使うのは、場所を食うし、本は結構重くて大変である。地震を気にしなくて良いということもある。

以前、罪悪感のない積読は、積読ではない - かつげんの拠り所にも書いたように、「積読」を始めとする、紙の本に対するロマンは、そこに"存在すること"を重要視している。「積めること」「触れること」が大事なのだと主張する。そういう意味で、PDF化した書籍は積めないし、匂いもしないし、手触りもない。だから、彼らからみれば「ロマンがない」のかもしれない。

しかし、本当にPDFは"積めない"のだろうか。

電子書籍といっても容量は喰う。PDFにすればゼロになるというわけではない。HDDに保存し続ければ、いつかは満杯になる。だから、PDF化した書籍でも紙の本でも”場所を取る”ことには変わらない。なのに、紙の本の積読は許されるが、PDFの積読は許されないのだろうか。

考えてみれば、紙というのは1つのメディアでしかない。はるか昔は石版だったし(だから「タブレット」が回帰しているのは面白い)、木や動物の皮に書くこともあった。紙というメディアは、様々な選択肢の中で、便利だから流通しているのだ。こういった単なる合理性を、ロマンと履き違えているだけなのではないか。

積読”が、堆積すること全般を指すなら、なにも紙の書籍を積む必要はない。PDFだって、溜まっていくのだ。むしろ、堆積した後にどう整理し、どう活用していくかを考えると、PDFや電子書籍のほうが、分が良い。

結局のところ、慣れの問題が大きいのだと思う。これまでフセンを付けたり、書き込みをしながら紙の本を読んできた人にとっては、いきなり自分のやり方を変えるのは難しい。しかし、だからといって電子書籍を敵視することはないだろうと思う。

そういう意味で、まだ若いときに切り替えられた私は、運がよいのかもしれない。