かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

生活保護における自由と制限

生活保護という制度は、ある一定の条件を満たせば、行政から家賃や生活費が貰える制度である。このような制度は、社会にとって重要な制度であると思う。もしかしたら、私も将来もらう立場になるかもしれない。

しかし現場で働いている職員としては、疑問を持つことも多い。

生活保護を受けている人の中には、何も努力をしない人、お金をもらって当たり前と考えている人が、かなり多くいる。例えば、自分が何かをしたいときに、それを手助けするお金(一時扶助)をもらえて当たり前。面倒くさい手続きは、ケースワーカーがやってくれて当たり前。

その当たり前が通用しないと分かると、「なぜお金をくれないのか」「なぜ手続きをしてくれないのか」「死ねということか!」と怒る。こういう人は、いわゆる「処遇困難ケース」の中では「あるある」の部類と言えるだろう。

このようなクレームに接したとき、「税金でようやく暮らしていけるのに、なぜそんなにわがままを言えるのか」とか「嫌なら自分で稼いで、自分のやりたいように生活してくれ」といいたくなる。もちろん実際には言わないが、多くのケースワーカーが心のなかで思っていることだと思う。

生活保護を受けていない人は、自分のやりたいことがあったら、自分で金を稼いで、その金でやる。自分で時間を作って、その時間でやる。そういう一般的な価値観から照らし合わせると、こういった自由一辺倒の人(もちろん一部の人だが、しかし「あるある」であることも確かである)に対して、どう接するのがよいのだろう。

たしかに個人には自由がある。やりたいことをやる自由があるが、一方で制限もある。そもそも生活保護は「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するためのものであって、それ以上(”それ以上”とはなにかという問題はあるにせよ)を求めるのであれば、自分でやってくださいと言いたくなる。

あるリベラルな人たちは、「被保護者の自由を尊重しろ!」という。その気持ちは分かるし、こっちも精一杯やっているのだが、しかし自由だけを主張したところで、「現実的な落としどころ」での妥協が求められることがほとんどだろう。

もし本人の自由だけを認めてほしくて、関係者や支援者の都合や制度的限界はどうでもいいというのなら、生活保護を脱すればいいと思うのだが、それを言ってしまうと「行政は責任を放棄している!」という話になってしまう。

被保護者の自由は生活保護を受けることによって、よくも悪くも保たれている。だからその自由は、生活保護制度の範囲内での自由となる。しかし、いつの間にか「生活保護制度の範囲内での」という条件句が抜けてしまって、「人権」とか「自由」といった単純で抽象的な話に発展してしまう。ともすれば、本人の希望がまず第一にあって、それを肯定するためなら、あらゆる制度を否定することさえある。「制度のほうがおかしい!」というわけだ。

だが、そもそも人権とか自由というのは、生活保護うんぬん以前に、社会で生きる上で、もともと制限がつかざるを得ない。それを考慮せずに「この人の自由をまず考えろ」と主張されると「社会への堪え性がないな」と思う。つまり「自由」と「制限」ではなく、「制限の中の自由」を身につけなければならないのだが、それが出来ない。

そしてそんな「堪え性のなさ」も、「病気や障害や生育歴のせいであって、本人のせいではない」と免責されてしまうのが福祉の世界だったりして、嫌な気持ちになる。

福祉の世界には、正解がない。
それが面白い部分でもあるのだが、しかし、もうそろそろいいかなと思い始めている。