”沼”という言い方が最近流行している。
好きなものに"ハマる"という形容が、そうさせているのだろう。カイジの"沼"の影響もあるかもしれない。
いずれにしろ、好きなものにハマることを"沼"と形容するのは、今や一般的と言える。
しかしこの”沼”という形容に、最近、違和感をおぼえるようになった。
”沼”という形容は、「抜け出したくても抜け出せない」という語感がある。しかし、その対象は自分の好きなものである。自分が好きでハマっているのにもかかわらず、あたかも誰かに強いられて、しょうがなくハマっているような言い方である。
私の違和感はここにある。
つまり、沼という形容は、自分の好きなものですら、それに振り回され、抜け出したくても抜け出せない被害者として、自分を捉えていることを意味している。
加害者になる勇気でも書いたように、自分が被害者の側に回るようにしがちな昨今、自分の好きなものですら被害者にしてしまうなら、その人生の主体性は、いったいどこにあるのだろう。
追記:2023年01月26日
推し、燃ゆを読んだ。
「沼」という形容は、「好き」という言葉ではなく「依存」という言葉で説明したほうがスッキリするのではないか。依存だからこそ、その人のためにいくらでもお金を使うのだ。
逆に言えば「沼」という形容は、その依存性を軽視しているし、むしろ自嘲的に扱っている。学校内の暴力を「いじめ」と形容するのと同じ構造のように思う。最近、ホストの依存性が取り沙汰され始めたが、それも同じ構造なのだろう。
依存は、もはや薬物やアルコールだけでなく、ゲーム、買い物、アイドル、ホストなど、あらゆるところで今後問題になってくるのかもしれない。