かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

固執していくアイデンティティ

「私はこういう人間だ」という自己認識をアイデンティティと呼ぶとすれば、アイデンティティは認識のために必要ではあるものの、過度に意識しすぎると上手くいかない。

アイデンティティは、客観的事実ではない。言ってみれば思いこみである。だからアイデンティティは間違っているかもしれない。

仮に間違っていたとしても、単に自分がそう思っているだけなら良い。しかし、さらなる問題は、そのアイデンティティに基づいて環境を変えたり、自分に合う(と思いこんでいる)環境へ飛び込んだりする。

そして、その新たな環境によって、アイデンティティはさらに強化され、固執していく。

つまりアイデンティティという思い込みは、いわば自動的に固執していきやすい。

「いい・悪い」という価値判断の話をしたいわけではなく、アイデンティティというものは多分そういうものなのだと思う。

昇任試験が終わった

昇任試験がやっと終わった。4月から半年間勉強してきて、ようやく終わった。
自己採点の結果では、たぶん合格しそう。発表されるまで分からないけど。

受かっても受からなくても、再度筆記試験を受けてまで挑戦しようとは思っていないので、これでかなり気が楽になった。

これまでブログどころか、読書も出来なかったので、ようやく自分のやりたいことができる。電子ピアノも4月に買ったのに、そのままにしてしまっていた。

ましてや彼女と別れることになったのだから、なおさら一人の時間ができる。

 

この9月は本当に激動だった。
体調的にもメンタル的にも、とにかくしんどかったけど、仕事に穴は開けなかったし、昇任試験も乗り越えることができた。

我ながらよく乗り越えたと思う。

この経験が今後なにかに活かされればいいな。
いや、活かすも殺すも自分次第なのだが。

 

別れ話

あまりプライベートな話をするのは嫌なのだが、あまりに辛いので書き出す。

9月末に昇任試験を控えているというのに、彼女と別れることとなった。

原因は価値観の違い、といえば聞こえはいいが、彼女の酒のトラブルがひどかったことだ。

具体的に言えば、朝帰りを繰り返したり、携帯を壊したり、そういう(私にとっては)許容できないことが連続して起こった。そのたびに注意をして、ルールを作り、そのとき彼女はそれに従う素振りを見せるが、結局何日か後にトラブルが起こる。

彼女は「それが普通」だし、「それが私」らしい。

思えば、同棲し始めたころに、ちょうどコロナ禍になり、これまで頻繁に飲み会はなかったから、彼女としては「隠していた」というより「隠れてしまっていた」ということなんだろう。

ただ、すでに両親にも挨拶に行き、もうすぐ結婚だというカップルの片方が、酒のトラブルを繰り返していては、順調に進むはずがない。「酒癖を直す気はないのか?」と聞いても、その気はないと言われてしまった。曰く「結婚して我慢しなきゃいけないのは嫌だ」とのこと。そもそも結婚に対するスタンスが違うようだ。

その瞬間、私のこの数年間はなんだったんだろうと思った。

そして「挙式を上げて、家を建てて、、、」なんて、将来のことをあれこれ考えていた私が馬鹿らしくなってしまった。

コロナ禍だから同棲できたということなんだろうか。コロナ禍じゃなければ、もっと早く気づいていたんだろうか。私がこれまで頑張ってきたのは、無駄だったということなんだろうか。

「終電までにはちゃんと家に帰ってくる」なんて、私にとっては当たり前の価値観なのだが、まさかそれが共有できないとは思いもしなかった。寝耳に水としか言いようがない。抜け穴がそんなところにあるなんて、誰が考えるだろうか。

そんなわけで最近は「メンタルダウンの中で」、「試験勉強をしながら」、「引っ越しの準備をする」という、えげつないストレスを抱えながら生きています。勉強してても、SUUMOを開いても、吐き気がする。

でも、試験も引っ越しもやるしかない。私は前に進むしかないし、「結婚する前に分かってよかった」と思うしかない。

ただ「そう思うしかない」のは頭では分かっているけど、実際にそう思えるようになるためには、まだ時間がかかりそうだ。

でも、それっていつまでかかるんだろう。とにかくしんどい。

 

 

かつげんの躁鬱

昇任試験の勉強真っ只中なので、理路整然と書くつもりはないのだが、備忘録的に書き留めておきたい。

最近、メンタル的に調子が悪い。躁鬱っぽい。診断されたわけではないし、病気にしたいわけでもない。というか大きな症状があるわけでもない。ただ、底しれぬ義務感、「何か役に立つことをしなければいけない!」という気持ちに駆り立てられていて、なかなかに辛い。

実は4月末にも、こんなことをつぶやいていた。

で、また今、同じような感じになっている。

ツイートでも書いたが、私の場合「何か役に立つことをしなければならない」という義務感は、裏を返せば「何も出来ない自分が辛い」ということになる。だから、誰かにとって意味のある大きなことをやらなければならないというような気持ちになる。

だから、私の躁状態は、いまのところ、喪失感や不能感の裏返しなのだろう。

ただそうだとして、なぜ喪失感や不能感を抱くのか。いろんな理由があるだろうが、原因として一つ思うのは、暇である。

時間があるから、人生のことなんかをなんとなく考え始めてしまって、「どうせ死ぬのに何を頑張るのか」という気分になってしまう。それでだんだんネガティブになって、喪失感や不能感に陥る。

時間をかけて考えればもっと違う理由が見つかるかもしれないが、今のところ思いつくのはこれだ。解決策は、暇にならないこと。連休に何か楽しみな予定を入れておくことだろうか。

元々なんとなく思っていたことだが、将来のこととかを考えないほうが、私はうまくいくのかもしれない。目の前のことに集中して、コツコツやっていく仕組みを作らないと、やれ結婚だ、異動だ、親の介護だ、人生がどうだとか、余計なことを考えてしまう性分なのだろう。

「夢のENDはいつも目覚まし」という曲があるが、その歌詞をなんとなく思い出した。

距離を置いてみると それなりに
楽しい奴 なんですが
こうも近くにいると そのワガママさ
ずうずうしさに ウンザリです
あれれ それって もしかして…
そう 私 めなんです
だからこそ よけいに
腹が立つったら ありゃしない

面倒くさい性格になってしまったなぁ。

思考様式としての「ハコモノ行政」

バブル期からその崩壊期にかけて「ハコモノ行政」という言葉が批判的に使われるようになった。美術館や道路、空港などの建築物を、税金を用いて作るものの、その後の利用や運用を考慮しないまま、結局ムダになってしまう有り様のことを、このようにいう。

ハコモノ行政」という言葉が広まってからは、こういった無駄遣いが可視化され、批判されることも多くなった。市民の目も厳しくなったせいか、いわゆる「ハコモノ行政」は減りつつあるように思う。

しかし、これは建築物を建てるようなハード面における「ハコモノ行政」が減っているだけで、「新たなハコモノ行政」が生まれつつあるのではないかとも思う。

私のいう「ハコモノ行政」とは、とりあえず外見だけを見繕い、その先の運用は考えないという「思考様式そのもの」を指す。

これまでのハコモノ行政は、建築物が建てられ、そこにお客さんが集まり、人間が働いているということが、実際に建築物として建てられているが故に可視化されやすい面があった。だからこそ「建ててみたはいいが、人が来ないじゃないか!」と批判もしやすい。

しかし、現在行われているハコモノ行政は、ハードからソフトに移行しつつある。

例えば、自治体で作る新たな会議や組織、役職。理念条例や協定なども、ソフト的な「ハコモノ」と言えるだろう。まずはそういった「ハコモノ」を作ることで、「意欲」をアピールする。実際に「作って」いるから、実績にもなる。

しかし、それがどのような結果を生むのか。そもそも、その結果をどのように測定するのか。こういった、ハコモノを作ったあとの視点は、欠如している。

最近は、こういったアピールのための政策が多い。。世間が「DX」といえば、組織の名前を「DX課」に変えたり、「DX推進会議」を開く。世間が「SDGs」といえば、「SDGs課」を作ったり、「SDGs推進宣言」を作ったりする。

ニュースになって市民の関心が湧き、「なんだか新しいことをやってくれそう」という"気分"にはなる。しかしそれは気分なだけで、実際によくなるかは分からない。

市民の気を引くような政策、アピールできる政策が優先される。そしてアピールのために、手軽にハコモノを作る。

マーケティングと政策が結託しつつあるのが、現在の自治体政策なのかもしれない。