かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

コロナ禍で面会できないことの弊害

例えば、脳梗塞で緊急搬送された人がいるとする。最初は急性期といって、集中的に治療する病院に運ばれる。

その後、容態が良くなればリハビリ病院に転院をして、リハビリを行うことになる。しかし、倒れたまま意識がなかったり、寝たきりになってしまうことも当然ある。

そういう場合は、医療療養病床というところに運ばれる。医療療養病床は、急性期のような集中的な治療はしないが、引き続き医師の管理が必要で、寝たきりの人がよく入院している。

医療療養病床に転院するときは、身近な親族がいる場合、医師などから事前に説明を受けることになっている。
その説明はざっくり言うと「リハビリをできるような状態ではない」とか「回復する見込みがない」という説明になる。つまり「そのまま亡くなる可能性が高いです」という説明なのだが、こういう説明を受け、親族が納得すると、医療療養病床に転院することになる。

仕事をしていて最近感じるのは、この説明に納得できない親族の人が増えているということだ。

確かに心情的には理解できる。急に倒れて「もう回復する見込みがない」と説明されたとき、すぐに納得できるかというと、それは難しいだろう。これまでそういった事例もいくつかあった。
しかし、それにしても最近になって増えている。 

なぜだろうと考えたときに、コロナ禍の影響が大きい気がした。現状では、本人と面会することが出来ないからである。

本人と会うことが出来れば、体中管に繋がれて、息絶え絶えとしている姿を見るだろう。その姿を見た後に、「リハビリさせてほしい」と言えるだろうか。むしろ「もう積極的な治療はせずに、休ませてあげたい」と言うことの方が多いのではないか。

しかし現状は、本人と会うことが出来ない。特に重症の患者と会わせてしまうと、感染症等でさらに悪化してしまう危険性もある。

もちろん医師の説明を受けて、親族がどういう判断をするかは、その親族が決めることである。
しかし、コロナ禍で本人の顔を見ることが出来ない中で、病院側が言葉だけで本人の病状を説明するのは難しい。

そしてこの説明に失敗したとき、その患者は病床を長く専有することになる。本当は2~3週間で転院するところを、2か月...3か月...と入院し続ける。

急性期の病床は、その名の通り、緊急性の高い患者が入院する病床だ。つまり、このような事態は「親族が納得しない」ということだけで、他の患者が必要な治療を受けられないことを意味する。

コロナ禍で「病床が足りない」とか「医療崩壊」という話はよく聞くが、こういう地味なところにも影響があるような気がしたので書いてみた。

病名で人を見ること

生活保護を受けている人の中には、様々な病気や障害を抱えている人がいる。
昨今話題の統合失調症の人も、これまで何人も会ってきた。 

一番強烈に覚えているのは、精神病院である患者さんと話をしているときだった。

その面談室は、簡易的な個室になっていて、中で何が行われているかが分かるように、アクリルで囲われていた。患者さんと話している途中で「バンッ!バンバンッ!」と音がした。振り返ると、私たちを部屋の外から見ていた他の患者が、中を覗き込むように、顔をアクリルの壁に目いっぱい押し付けながら、アクリルを叩いていた。

当時は、精神病院なんて行ったこともなかったから「これはとんでもない所に来てしまったな…」と恐怖でいっぱいだった。

今では、あの行動が部屋の中で行われていることへの興味を示していたのだろうと理解できる。部屋の外から見ていた患者から見れば、私は“部外者”であって「知らないやつが突然来て、なんかやってる」と思うのはふつうのコトだ。ただそう思ったあとに取る行動が、我々とちょっと違うだけで。

これまで会った統合失調症の方の中には、暴れてしまう人もいれば、ひたすら念仏を唱えるような人もいる。例えば「この人は統合失調症なんです」と言われても分からないぐらい、普通に生活している人もいる。

また同じ人であっても、時期によって波があったり、服薬を忘れると変な行動をとってしまう人などもいる。
だから「統合失調症だ」と言っても、本当に人それぞれである。

 

「人それぞれ」という考え方を、これまた最近話題になりやすい、大人の発達障害を例にして考えてみたい。

社会とうまく関われないことに悩み、医者に診てもらった結果「あなたは発達障害です」と診断されたとしよう。もちろん服薬などで改善する場合は大いにあるが、しかし一番の問題は「発達障害かどうか」ではなく「自分が社会の中でどう生きていくのか」ということに他ならない。発達障害が社会で生き抜いていくための本が、近頃よく出版されるのは、このような考えが広く及んでいることの象徴だろう。

 

では「人それぞれだから、オーダーメイドな福祉を!」と言えばいいかというと、話はそう単純ではない。

「人それぞれだ」という考え方は「この人は疾患や障害を抱えている」という部分を切り落として、ただ表面に出てくる行動だけを考えてしまうことに繋がりかねない。
「障害を持っていようと、あいつはちゃんとやってるじゃないか。お前もちゃんとやれ」ということになってしまう。しかしこれでは、疾患や障害の意味がない。

 

医師の診断があるということは、どういうことか。それは、診断によってその人を理解するツールや使える制度が増えるということだと思う。

しかし、統合失調症という診断だけでは、当然その人自体を理解することにはならない。「この人は統合失調症だから、こうに違いない」という発想はおかしい。ケースワーカーでよくあるのは「統合失調症だから、この人は就労能力がない」という思い込みだ。こういう思い込みによって、その人の可能性が閉ざされてしまうことも多くあるだろう。

医師の診断した疾病や障害から分かるのは、あくまで「統合失調症の人はこうなりやすい」という平均値を取っているに過ぎない。だから、その平均値を参考にしながら、その人自体がどういう人なのかを理解しようとしなければならない。

 

統合失調症の悪質なステレオタイプを取り除かなければならないことについては、私もそう思う。しかし「偏見を取り除いた先に“本当の統合失調症”があるのか?」と言われると、それもまた違う気がする。

細かく見れば一人ひとりの症状は異なっているのに、ある特定の疾患として診断される。またその診断の基準自体も、更新されていく。そういう意味で、疾患や障害を診断するということ自体が、ある種のフィクションを含んでいる。

つまり私たちは、フィクションを出来るだけ排除して「人それぞれだよね」と個別的に理解しなければいけない一方で、このような大ざっぱなフィクションを通さないと、その人を理解することが出来ない。このバランスを崩してしまうと、その人を何も理解できないか、逆に、そのフィクションがその人の全てを覆ってしまうことになる。

 

要は、個別化と抽象化の出し入れ、理論と実践のバランスということなのだが、しかし「要は」と言えるほど簡単なものでもない。
その往復を絶えずやっていくことでしか、その人自体の理解に近づくことは出来ない。逆に、途中で「こいつはこういうやつだ」と決めつけてしまえば、それでお終いなのだと思う。

実際決めつけて、それでお終いにしてしまう人も、周りには結構いる。でも、この往復の中で面白いことに気づくときもある。経験値というのは、単に経験することではなく、こういう往復を経ないと経験値にはならない。

 最近の統合失調症の話題を見て、私の周りにもそういうステレオタイプな人が多いなと思ったので書いた。ステレオタイプを持っている人こそ、何も知らないし、知ろうとしない。

 

何がやりたいのかよく分からない開会式だった

東京オリンピックの開会式を見た。

東京でやる意味はなにか?

いろんな人が言っていることだが、何が言いたいのかよく分からない開会式だった。
はっきり言って失敗だったと思うのだが、全体の構成として、多様性を意識しすぎていたのではないかと思う。

確かに昨今のSNSの状況を見ると、ジェンダーやLGBTQ、黒人差別の問題など、配慮すべきことはたくさんあって、その中でどうバランスを取るかというのは難しいことだ。

しかし、多様性や差別問題の解消をテーマとして掲げたいのであれば、それはどこの都市だってできるし、オリンピックじゃなくても出来る。

そういった要素を取り入れることは大事なことだけれども、そこを意識するあまり全体としてのメッセージがぼやけてしまっていたように感じた。

私が一番思ったのは「コロナ禍の東京で、オリンピックをやる意味は何なのか?」ということだ。そういうものを打ち出せれば、例え祝祭感はなくとも、納得する式になっていたと思う。

コロナ禍でやる意味も、日本/東京でやる意味も、私には感じられなかった。
リオの引き継ぎ式がよかっただけに、非常に残念な気持ちになった。

個別の話

・「え、聖火台って常設じゃないの?」とびっくりした。そもそも、聖火台の存在を考えずに、国立競技場が設計されているというのは、どういうことなのか。聖火台は、人間では届かないはるか上にあって、それをみんなで見上げているから良い。聖火台の造形は良いとして、あれがハリボテの上に設置されているのは、聖火の荘厳さを捨ててしまっているような気がする。

・全体的にビデオが多かった。わざわざ会場で集まってやる意味は何なのだろうか?24時間テレビみたいだった。

森山未來の追悼はよかった。痛そうだったけど。

・「木製の輪が出てきました!」って、いや絶対、変形して五輪になるでしょう。そういう意外性のふりをした演出で冷めてしまった。

真矢みきはよかった。元宝塚男役で、女が棟梁をやるというまぜこぜ感がいい。

・火消しはよく分からない。というか、これから聖火を灯すのに、火消しはまずいのではないか。

ストーリーテラー的にいたTVクルーだが、全く意味が分からない。なぜTVクルーなのか。なぜ「え?おれ?」みたいな芝居を毎回入れるのか。

・ドローン良かった。開会式で「すげー」と思ったのはあれぐらいかもしれない。

・入場行進の際のBGMは、オタクに媚びている感じがして、個人的にはあんまり好きじゃなかった。任天堂のBGMもないし、後の演出でも登場していなかったから、なにかあったのだろう。

ピクトグラムは、個人的には面白かったけど、画面を通しているから面白かったのだと思う。会場の規模で考えると、こじんまりとしすぎていた。国立競技場の真ん中で、アレをぽつんとやるのは寂しい。

聖火リレーの最終走者が大坂なおみだったことについては、国際的には正解かもしれないけど、SNSは荒れる。「大坂なおみが国民の納得する最終走者か」と聞かれると、ちょっとそれは違うだろうなと思った。
池江璃花子か吉田×野村と順番を入れ替えるべきだったと個人的には思う。

 

ゴタゴタがあったので期待値は低かったが、その低い期待値どおりの開会式だった

SNSを見ると擁護する声もある。
擁護したくなる気持ちは分かるのだが、冷静に見た時に「いい開会式だった」と思えるものだっただろうか。むしろ、エンブレムの撤回、ザハ案の撤回、会長の辞任など、トラブル続きだった大会運営が、如実に表現されてしまった開会式だったように思う。

 

現役地方公務員が”スーパー公務員”について思うこと

”スーパー公務員”という言葉には、前から違和感を抱いていた。
以前には、こんな記事も書いたことがある。

今でもこういう気持ちは変わっていないし、むしろ違和感は強くなっている。
そこで、現在私が”スーパー公務員”に対して、どう思っているのかを批判的に書いてみたい。

前提として、今回の文章は”スーパー公務員”と呼ばれている人に対する批判ではなく、”スーパー公務員”という概念に対する批判であることは言っておきたい。

”スーパー公務員”の定義は難しい

さて、”スーパー公務員”について話すには、「スーパー公務員とはなにか?」について、考えていかなければいけない。
しかし、改めて考えてみると「スーパー公務員とは何か?」という問いに答えるのはなかなか難しい。

ウィキペディアには、ご丁寧に”スーパー公務員”という項がある。

これを見ると「21世紀型の理想的な公務員像とされる存在の通称」とされ、具体的には「20世紀型の公務員は予算配分と行政指導を行ってきたが、『自ら考え、リスクも取りながら政策を立案する。調整型から立案型への転換が21世紀に求められる公務員像ではないか』」という文言がある。

「自ら考え、リスクも取りながら政策を立案する」という文言からも分かるように、いわゆる「お役所仕事」と言われるような受動的な態度ではなく、積極的な態度が求められていることが分かる。

しかし、抽象的には理解できるとしても、具体的にはどういうことなのか?という疑問が残る。そして、ウィキペディアから引用した文言と、現在言われているような”スーパー公務員”という言葉の意味は、感覚的にかなりズレているように思う。

現在”スーパー公務員”という言葉から喚起される印象は、以下のようなものだろう。

・分かりやすい成果を出している
・「地方公務員が本当にすごい!と思う地方公務員アワード」に選ばれている
・業務外での活動が評価されていることが多い
・地域振興に関連する人が多い

率直に言って、”スーパー公務員”という言葉を厳密に定義しなくても、これから私が話したいことは伝わると思うので、このようなイメージが共有できていればよいと思う。

”スーパー公務員”という評価はどのような評価か。

まずここで考えたいのは「”スーパー公務員”という評価は、どういう評価なのか?」ということだ。例えば、私が行っていた法制執務の業務で"スーパー公務員”になることはできるのだろうか?おそらく難しいだろう。

法規担当という仕事の本質は、いわばゴールキーパーのように「失点を防ぐこと」にある。つまり、マイナスにならないようにするのが仕事であって、プラスの作用を生み出すことは、あまりない。

分かりやすい例は、防災関係の部署だろう。防災関係の業務の成果は、災害が起こったときに初めて分かる。そしてその評価は、「+3」とか「+10」といった目に見える評価ではなく、「-10が-5になった」というような、マイナス世界の中での評価となってしまう場合も多く存在する。

例えば「-10が-5に減った」のが事実だとしても、当事者から見れば「-5」であることには変わりない。災害で家が半壊した人に対して「我々の仕事がなかったら、半壊ではなく全壊でしたよ」などと言えるはずがないのだ。

このように、仕事の成果が目に見えて分かるような業務は、公務員という仕事においては限られている。

公務員は基本的に、公共財を扱う仕事だ。公共財とは、それを放置すると生活水準が落ちるが、市場経済において評価を得るのが難しいものを言う。
つまりそもそも公務員は、 市場=目に見えた成果 が分かりづらい仕事を扱っている。

 ”元スーパー公務員”はなぜあり得るか?

話を進めて、仮に私が、成果が分かりやすい部署に配属されたとしよう。その部署で大活躍して、見事”スーパー公務員”と呼ばれるようになった。しかし、その2年後に介護保険関係の部署に異動したとする。
そのとき私は、”スーパー公務員”のままなのだろうか。それとも”元スーパー公務員”となってしまうのだろうか。

一般的には、異動先で新たな実績を作ったり、その積み重ねがない限り、”スーパー公務員”と呼ばれることはないだろう。なぜなら”スーパー公務員”という呼称は、卓越した業務実績から、そう呼ばれるからだ。
しかし実際には、”スーパー公務員”は異動したあとも、そう呼ばれたりする。試しに”元スーパー公務員”と検索をかけてみると、意外と多いことが分かる。

つまり”スーパー公務員”は、組織や実績に付随した言葉ではなく、属人的な言葉になっている。

なぜ”スーパー公務員”は生まれたのか?

なぜ”スーパー公務員”という属人的な考え方が生まれたのか。

いろいろな理由があるだろうが、インターネット、そしてSNSの隆盛はやはり大きいだろう。
現在の環境は、個人が組織を介することなく、世界へ発信し、つながることが出来る。これまで、ある公務員を評価する者は組織の上司だけだった。今では組織を飛び越え、外部からも評価されやすい環境となった。

そもそもこのような概念が出てきたのは、内部で適切な評価をなされていないことから来る。いくら頑張っても報われない。給料もそれほど上がらないし、管理職になれるわけでもない。だから外部にアピールして、外から評価してもらう。

”スーパー公務員”という属人的な概念は、いわば外部を利用して、自分の評価を高めていくことを希求している。
そして、外部に評価されるためには、公務員の中でしかわからないような成果ではなく、外部の人でも分かる実績が必要とされる。
そういう意味で、職場内部で「あいつはスーパー公務員だ」と言われるときは、あまりいい意味ではないだろう。

スーパー公務員のなにが問題か?

”スーパー公務員”という概念の問題は2つある。

1つは、すべての地方公務員が”スーパー公務員”になることは、仕事の構造的に難しいという点だ。これまで見てきたように、”スーパー公務員”という概念は属人的なのにも関わらず、”スーパー公務員”へのなりやすさは、実際には業務内容にひどく依存する。

だから能力がある人でも、地味な仕事に従事しているのであれば”スーパー公務員”にはなれない。派手な仕事で、かつ、それなりの業績を残して初めて”スーパー公務員”と呼ばれる。

果たして、そのような市場原理的な考え方で、評価が行われて良いのか?という点は指摘しなければならない。

2つ目は、”スーパー公務員”と”普通の公務員”を分断してしまったことだ。

いま述べたように、”スーパー公務員”へのなりやすさは、業務内容にひどく依存する。しかしその業務内容は「自分はどこに配属されるのか?」という偶然によって決まる。
それにも関わらず、「スーパー公務員は仕事が出来て、普通の公務員はお役所仕事に甘んじている」と区別してしまうのは、非常に残念だし、無用な対立関係が生まれてしまう。

一番の問題は、このような分断が一度行われてしまうと、評価されづらい仕事をしている者は「はいはい、私たちはどうせ”お役所仕事”ですよ」と、モチベーションが下がってしまうことだ。

 

我々がやらなければいけないのは、「スーパー公務員になりたい」という人を増やすことではなく、「お役所仕事はかっこいい」と思ってもらうことではないだろうか。”スーパー公務員”の特殊性を宣伝するより、”お役所仕事”の重要性や魅力を周知することではないだろうか。

世の中の公務員の99.9%が無名な中で、その”名無しの公務員”が社会の少なからぬ部分を担っているということは、もっと考えられても良いはずだ。

【伊藤亜紗】他者にふれる(NHK文化センター青山教室)に行ってきた

7月10日にNHK文化センター青山教室で行われた伊藤亜紗さんの講義「他者にふれる」に行ってきた。
そのときに書いていたメモを参照しつつ、講義の概要と感想を書いていきたいと思う。

なぜ美学を研究対象としたのか

元々、生物学を勉強しようと思っていた。なぜ生物学かといえば「私が人間じゃなかったら、世界はどう見えていたんだろうか?」という小さい頃の疑問から始まっている。
生物が違えば、当然その時間感覚や空間感覚も違う。

この「人間でなければ世界はどう見えていたんだろうか?」という疑問は、「他の生物でもあり得た自分」という偶然性の感覚にもつながっている。そして偶然であるがゆえに、まさにこの”自分”であることを引き受けるという感覚にもつながっている。

「人間でなければ世界はどう見えていたんだろうか?」という疑問から生物学を専攻した。しかし、当時の生物学はデータ偏重のように見えて、どんなにデータに分解したところで生物の真理にたどり着くのだろうか?という疑問が生じた。

そこで美学に文転した。美学には「人間の感覚は、言葉だけでは表現できないよね」という前提があり、それが気に入ったから美学を選んだ。

2つの接触

今回のコロナ禍は、あらゆる人間を”接触障害”にした。今回の講義では「さわる」と「ふれる」という”2つの接触”から話していきたい。

「さわる」と「ふれる」の違いは、「傷口に~」という接頭語をつければ分かりやすい。
「傷口にさわる」は、どこか一方的でモノとして扱い、痛そうで思わず身を引いてしまうような印象を受ける。反対に「傷口にふれる」は、私のことをちゃんと人間扱いしていて、傷を労ってくれるような印象を抱く。

この違いは、西洋医学東洋医学の違いとも言える。西洋医学は、人間の身体をモノとして捉える。例えば触診をするときは、臓器の反応が大事なのであって、患者の「くすぐったい」という反応は重要視されない。一方、東洋医学は臓器だけでなく、患者の反応も含めた私の総体を診察する。

信頼の奥行き

以前、視覚障害者の伴走を体験したことがある。輪っかの付いたヒモを走者と伴走者で持って、目隠しで走るというものだ。
つまり、視覚は使わずに、ヒモから伝わる触覚を頼りにして走らなければならない。

我々は、普段から視覚に頼った生活を行っている。人間関係で言えば、”視覚的人間関係”を結んでいると言ってよいだろう。しかし、我々の感覚は視覚だけではない。伴走体験によって考えたのは、視覚的人間関係だけではない、触覚的人間関係とも言うべき信頼の奥行きの可能性である。

コミュニケーションにおける2つのモード

「さわる」と「ふれる」 に対応するように、コミュニケーションにも2つのモードがある。一つは、一方的で「さわる」に対応する伝達モード。もう一つは、相互的で「ふれる」に対応する生成モードだ。

障害者とのコミュニケーションを例にだそう。障害者とのコミュニケーションは、本人の自立を阻害する形で行われることが多い。周囲の人間が、ハナから「この人は出来ないから、手伝ってあげよう」と、本人に代わってなんでもやってしまう。

このようなコミュニケーションは、相手の気持ちを考えずに、こちらが勝手に「助けが必要なはずだ」と決めつけて一方的に行っているわけで、伝達モードといえる。

生成モードは、やることが最初から決まっているのではなく、コミュニケーションの中で”生成”されていく。だから障害者とコミュニケーションを取って、自分でやりたいこと、やりたくないこと、出来ないことなどを聞きながら、やるべきことが決まっていく。

利他とうつわ

誰かのためにやってあげることを利他という。しかし、利他というのは一般的な道徳としてあるわけではなく、あくまでその場での個別的な倫理として発生する。それは、「~すべし」という命令ではなく、「この人は何を考えているのだろう」とか「どうしたら受け入れてくれるだろう」という悩みの中で生まれる。

結局のところ、利他的行為というのは、相手が受け入れなければ利他にはならない。こちらがいくら気を使っても、相手にとって必要がなければ、ただのお節介になってしまう。

そういう意味で利他は、時差のある生成モード的コミュニケーションといえる。

このような利他を行うには、計画倒れを喜ぶ”うつわ”が重要だろう。こちらが意図する方向(伝達モード)に行かなくても、相手に委ね(生成モード)ながら、コミュニケーションを進めていけるような余裕が必要になる。

現代は、利他が減っていきやすい社会である。例えば「好きだと言われて嬉しいか?」というアンケートでは、「嬉しくない」と答える人が結構多い。理由を見てみると、男性が「私に似つかわしくない」などの自己肯定感が問題になっている一方で、女性は「借りを感じてしまう」というような交換的関係を前提においている。

このように、人間関係を交換的に見てしまうことによって、利他的行為に必要な”うつわ”は減っていってしまうのではないか。

感想(伝達モードの事例)

私は福祉の仕事をしているから、伊藤さんの議論を、かなり具体的な経験に重ねて聞いていた。

例えば、お年寄りが自宅で暮らせなくなって、老人ホームに入りたいという相談がある。関係者で集まって話を聞いてみると、老人ホームに入れたいのは親族やケアマネなどの関係者だけで、当の本人は「まだ老人ホームなんて行く年じゃない!」と怒っていたりする。

つまり、老人ホームに入るのは本人なのに、本人の意見を尊重しない。
まさにこれは、伝達モードのコミュニケーションだと思う。

関係者としては「本人の気持ちを親身に聞いていたら、埒が明かない」という気持ちなのだろう。だけど、そういうことをすればするほど、信頼はなくなっていくのではないかと思う。

伊藤さんも似たような事例を挙げていたが、こういう場合は結局、本人の気持ちが変わるのを待つしかない。いくら周りが催促したところで、本人が気づかないと、逆に態度を頑なにしたりする。

気づくには2年も3年もかかるかもしれない。その間に倒れてしまうかもしれない。でも、周囲の人間がメリット・デメリットをちゃんと説明したのであれば、本人が例えその選択で損をしたとしても、結局それは本人が望んだことなんじゃないかと思ったりする。

感想(データと交換)

人間の交換的関係という話は、自分たちの生活環境が、数値によって変換され始めているということに起因する。これはまさに、伊藤さんが冒頭で話していた生物学から美学への転換の話にもつながってくる。

このように、我々の生活環境がデータ化され始めている状況において、私たちに何が出来るのか。それとも何も出来ずに従うしかないのか。データ化によって私たちの心理や文化がどのように変化するのかということは、やはり考えていかなければならないことなのだろう。

感想(環境や場に対する信頼)

伊藤さんの議論を聞いていて、ずっと疑問に思っていたことがある。それは、生成モードと簡単に言うけど、少なくとも初対面の人と、すぐに生成モードになるのは難しいのではないか?ということだ。

生成モードのコミュニケーションを作り上げるには、ある程度の時間が必要である。しかし、今この場所に信頼がないのであれば、時間を掛けてコミュニケーションをすることは出来ない。だから、生成モードのコミュニケーションを考える上で大事なのは、「私とあなた」という人間関係だけでなく、その2人がいる環境に対する信頼(「心理的安全性」は、まさにそういうことだろう)のことも考えていかなければならない。

結局「私とあなた」という人間関係だけで考えてしまうと、「利他のためには、余裕を持て!」という精神論に陥ってしまう。
それはそれで大事なことだが、もっと構造的に把握していく方向もあるのではないだろうか。

ただ、その環境に対する信頼がどうやって培われていくかといえば、やはりそれもコミュニケーションであって、時間が必要になる。だから結局は「私とあなた」と同じような袋小路に陥る。

このように考えていくと、コミュニケーションの起源には”暴力性”があるということを認めなければならない。
「さわる」はダメで「ふれる」は良い。だから「ふれる」を増やしていこう!というお人好しな議論だけではなく、「さわる」の有用性についても掘り下げていかなければならない気がした。