かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

QueenとJourneyにおける原理主義への処理の比較

Queenにおける原理主義

 私は、Queenが好きだ。


 少し前に「プライド」というキムタク主演のドラマがあり、その主題歌としてQueenが流れていたことがきっかけだった。

 Queenには、フレディ・マーキュリーという絶対的なボーカリストがいた。映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、Queenのストーリーというよりもフレディのストーリーだった。それだけ彼は唯一無二の、絶対的なボーカリストだった。
 しかし、彼は1991年に亡くなる。フレディが亡くなった後のQueenは、ソロの活動はあったものの、バンドとしては活動休止をしてしまった。
 その後のQueenは、2004年にポール・ロジャースを迎えて再始動。これを2009年に解散した後、2012年からアダム・ランバートを加えて、現在活動している。

 これらのコラボは、あくまで”Queen+Paul Rodgers”や”QueenAdam Lambert”として行われており、純粋なQueen名義ではない。

 このような経緯から、Queenには「原理主義のファン」がいる。つまり「フレディのいないQueenは、Queenではない!」ということだ。上述した「コラボ」すらも、「Queenの名を儲けに使っている!」という意見が一部にある。

Journeyにおける原理主義

 さて、このような事態は、他のバンドにも見られる。

 Journeyというアメリカのバンドである。最近では、WBCで使われたこともあって"Separate Ways"の方が有名かもしれない。

 Journeyというバンドにも、絶対的なボーカリストがいた。それは、前述した動画にも出ているSteve Perryである。
 ペリーの圧倒的な歌唱力は、ヒットの要因であり、Journeyにとって必須であった。
 しかし、その後体調を理由に、ペリーは脱退。Journeyはその後も活動していたが、これといったヒットもなく、「過去のバンド」として取り扱われていた。

Queenという両輪

 さて、このQueen。実は「公認コピーバンド」がある。
 Queen Extravaganzaというバンドで、Queenのドラムであるロジャー・テイラーが企画したようだ。
「コピー」と言っても、パロディではない本格的なバンドであり、特にボーカルのMarc Martelは、映画「ボヘミアンラプソディー」でフレディ歌唱シーンの声を担当するほど、そっくりである。

 もちろん、完成度の高いコピーバンドが出てきたからといって、在りし日のQueenに代わるはずがない。そもそも「フレディの代わり」など誰にも出来やしないのだから。
 しかし、このQueen Extravaganzaは、在りし日のQueenに出来るだけ近付こうとしているバンドと言える。そして、同じく在りし日のQueenを求めるファン=原理主義的なファンへのガス抜きを狙っているとも思える。

 つまりQueenは、"Queen+○○"という現在進行系で変わりゆく面と、"Queen Extravaganza"という在りし日のQueenを再現しようとする面が両輪となって駆動しているプロジェクトといえる。

Journeyというプロジェクト

 一方Journeyは、これとは異なる方法を原理主義に対して取っている。

 Journeyは、ペリーの脱退後も活動していたものの、ペリーの時代と比べれば人気は衰えていた。そこでJourneyは、Arnel Pinedaというボーカリストをバンドへ向かい入れる。

 きっかけはこのYoutube。ギターのニールがこの動画を偶然見て、「あまりにペリーに似ている」ということで連絡をとったと言われている。
 そして連絡の結果、アーネルはJourneyに加入。つまり、Queenとは異なり、自分のバンド内で「在りし日のJourney」を取り込んでいく方向へ進んだ。

まとめ

 特に何が言いたいというわけではないが、往年の姿を外に作ろうとしたQueenと、内に取り込んだJourneyは良い比較の対象となると思う。
 この流れで言えば、XJAPANは、ホログラムによってHIDEを「蘇らせようとした」と言えるかもしれない。

 どのバンドにしろ、「昔はよかった、今は、、、」という原理主義は存在する。
 特に、単にバンド自体に問題があって、揃って解散するのではなく、バンドを代表するような存在が欠けて、やむを得ず休止等をした場合は、その対処が難しい。

 今後類型化出来たら面白いなと思っている。

 

新人を話題の中心にする

 職場に新人が配属された。

 どうやら仕事について悩んでいるようだったので、サイゼリヤに連れていって、相談を受けた。

 相談の内容はさておき、私はその話し方が気になった。
 歓送迎会などの飲み会のときとは、まるで話し方が違う。かなり饒舌なのだ。

 聞くと、大人数の飲み会は苦手らしい。
 周りがすべて「先輩」であるわけだから、飲み会の場で新人が堂々と自分の話をするということは、確かに難しい。
 実際その後に、他の若手職員も合流して、「サイゼリヤ会」は合計4人になったのだが、その新人は全く喋らずに、相づちを打つだけになってしまった。

 このような状態では、新人の話を聞くことなど、とても出来ない。

 家族の呼び名について、面白い話を読んだことがある。
 家族に子供が生まれると、その子供を中心にして、家族の関係性が変わるという話だ。

 夫婦に子供が生まれると、「夫」は「父」となり、「妻」は「母」となる。
 2人目が生まれると、「息子・娘」は「長男・長女」になる。

 つまり、家族の役割は、直近に生まれた子供=「新人」を中心にして作り変えられる。それは、単に呼び名が変わるだけではない。その関係性や役割も変わっていくのだ。

 翻って職場の状況を考えたとき、果たしてその環境は、新人を中心にして作り変えられているだろうか。
 教育係だけでなく、係員全員が新人に目を配り、話を振り、仕事をしやすい環境にしているだろうか。

 新人に、その能力を存分に発揮してもらうためにも、私たちは最大限の努力をする必要がある。

「この係の仕事で大切なことってなんですか?」と後輩から聞かれた話

 先日、前の職場の歓送迎会に参加した。

 無難に挨拶をして、これまでお世話になった方へのお酌もして、楽しく飲むことができた。
 と思ったのもつかの間、今年入庁したばかりの後輩からこんな質問が飛び出た。

 「この係の仕事で大切なことってなんですか?」

 この質問が飛んだとき、「おー、先輩になるってこういうことなのか。。。」とたじろぐとともに、議会における質問の事前通告制度の意味がよくわかった。
 こんな質問に対して、とっさに良い回答など出てくるはずがない。

 本当は、「こんな記事があるよ」なんて言って、以下の記事を勧めたかったが、それをすることもできず。

 そして、とっさに次のような話をした。

技術と思想

 まず「この係の仕事で大切なことってなんですか?」という質問が、この係のみを限定して質問しているのであれば、それを口頭で伝えることは難しい。
 というのも、この係においてまず大事なのは、具体的にどういう風に仕事をしていけばよいのかという技術論であって、それはOJT等によって学ぶべきものだからだ。

 この場(飲み会)ではこの係に限定されない、仕事として大事な考え方であれば話せるし、おそらくあなた(後輩)が必要としているのは、そういった類のものではないか。

理由を知ること

 私たちの仕事には、理由がある。
 これには、法規などの明文化されたものもあれば、慣習的で目に見えないものもある。

 つまり、一つ一つの仕事には「なぜその仕事をしなければならないのか」という理由付けがされている。
 その理由を把握しようとすることが、まず大事だ。

 確かに、マニュアルだけで仕事をすることは出来る。しかし、マニュアルだけで仕事をしていては、いつまで経っても「その場しのぎ」であって、応用が効かない。

 理由を把握できれば、他の場面でも応用が効く。
 それはつまり、発展性があるということであって、仕事を早く覚えるためには、これが必須である。

権限の範囲を知ること

 そして、その仕事の理由を知ることは、すなわち権限の範囲を知ることにつながる。

 自分に与えられた仕事の権限はどこまでなのか。係で行える権限はどこまでなのか。

 権限の範囲を把握していないと、本来的には相手の部署でやるべき仕事を「こちらでやりますよ」と答えてしまったり、逆にこちらの部署でやるべき仕事を「あなたの仕事でしょ」と答えてしまったりする。
 例えば、間違った権限において仕事が完遂されてしまった場合で、来年にも同じ事業がある場合、「去年もそのように扱ったから」などと言われて、間違った権限における仕事が再生産されてしまうこともある。

 「縄張り争い」とまではいかないが、役所は、権限の範囲に対して敏感である。

 トラブルを起こして、下手に自分の仕事を増やさないように、心がける必要がある。

担当者としての責任を持つこと

 最後に、理由を知り、権限の範囲を知るということは、責任を持って仕事をすることに繋がる。

 課や係において、担当の割り振りは必ず行われるだろう。
 「担当者である」ということは、その仕事の範囲においては、自分に権限が与えられているということであって、自分の裁量によって、主体的に仕事をしてよいということである。

 それだけに、何かトラブルがあったときは、まっさきに動かなければいけないし、誰よりもその担当業務に詳しくならなければならないし、説明を請われたときは答えなければならない。

 仕事内容によっては、担当が作った成果物を、事前にチェックする者が割り振られている場合もある。
 しかし、それに甘んじないこと。例え、チェックしてもらったとしても、ミスが判明したときには当然、担当者の責任になることを自覚すべきである。

終わりに

 ひととおり話したことを書き出してみた。

 振り返ってみれば、「あれも言えば良かった。これも言ってないな。」と思うこともあるのだが、ひとまず一定の回答は出来たのではないかと思う。

 ともあれ、後輩からこのような質問が出てくること自体、大変嬉しいことである。
 もう異動してしまった係ではあるが、安心して後輩に仕事を任せられる気がした。

 

ネット社会における椅子取りゲーム化

何かとポジションを取りたがる人

 何か事件があったときに、すぐに意見表明をし、その事件に対するポジションを取りたがる人が多い気がしている。まるで椅子取りゲームをやっているような、そんな様相である。

 たいていの場合、まっとうな極論のあとに逆張りが発生して、特に総括もなく次の話題に移る。
 もちろん、途中で新たな事実が判明したりすると、また椅子取りゲームが加速していく。

 しかし、こういった椅子取りゲームを傍から見ている者としては、かなりの違和感を覚える。

ゼロからの距離

 例えば、リベラル的極論を+10、保守的な極論を-10としたときに、ネット上で発表される意見は、どこに位置するのかと考えることがある。

 最近の議論を見ていて思うのは、それぞれの意見において「数直線において0の発言をしないこと=責任のある発言」と捉えられているのではないかということだ。

 つまり、

 ポジションを取る=責任のある発言=数直線における0以外の発言

 という等式があるのではないだろうか。

ゲームに参加しているのは誰か?

 私が何かニュースに対して意見を言うときは、すぐに噛み付くのではなく、情報が出揃うのを待つ。
 第1報は間違っていたり、誤解させようとする文脈になっていることがあり、それが後から判明することも多い。

 椅子取りゲームの世界では、「いち早く意見を表明する」ということが重要視されている。けれども、そもそもこのゲームに参加する意味ってあるのだろうか?
 少なくとも私は、ゲームに参加する意味がないので、「いち早く意見を表明する」ということを守らなくても良い。だから私は「待つ」ということができる。

 逆に言えば、参加する意味のある人たちとは、どういう人たちなのだろうか?

 そう考えていくと、ゲームに参加する意味のある人たちとは、「すぐに、0以外の意見を表明しなければならない人たち」ということになる。
 しかし、こういう人たちは果たして「普通」なのだろうか。具体的に言ってしまえば、ただのPV稼ぎなのではないだろうか。 

毒にも薬にもならない意見

 私たちは、このゲームに参加する必要がない。
 逆に、極論が飛び交うようなゲームに対して、抗わなければならないとすら思う。
 そしてこれに抗うためには、数直線上における0の意見、つまり「毒にも薬にもならない意見」を表明する必要があるのではないか。

 この「毒にも薬にもならない意見」は、単に「何も表明しない」だったり、「中身がない」ということを意味しない。

 「毒にも薬にもならない意見」には、振れ幅が必要である。
 つまり、「単に0」なのではなく「+3と-3を足して0」という数直線上の振れ幅である。

 「毒にも薬にもならない意見」は、派手ではないから目立たない。PVも取れないだろう。
 しかしそもそも「派手」とは、普通とは異なるから「派手」なのではないか。

 私たちは、派手ではない、日常感覚に寄り添った意見を、もう一度取り戻すべきなのではないだろうか。
 そして、そのためには「毒にも薬にもならない意見」が必要なのではないだろうか。

 なんとなく、そんなことを考えている。

 

 

「ゲーテル、エッシャー、バッハ」は訳分からないですよねという話

感想

 この前ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版を図書館から借りてきて読んだ。
 理由としては、先日投稿した土曜会での発表の準備のために読んだ。

 この本の書評などを見ると、結構評価が割れている。

 例えばスゴ本さんでは、以下のような感じで絶賛している。

  一方で、「わけが分からない」という書評も見受けられる。
 で、私の感想も後者の方。

 この本はソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙に似ている気がする。
 何か著者の結論があるわけではなく、知の世界を冒険するような、そんな本である。

 そういったある種の「知的アドベンチャーもの」として読めば、確かに面白いのかもしれない。
 ただ、当時の私には、「結局この本は、何がいいたいの?」という感想に至ってしまった。

GEBの構造

 なぜ「何がいいたいのかよく分からない」という感想に陥ってしまうのか。
 それは、一言で言えば「末広がりな本」だからではないか。

 私がこの本に期待していたのは、ゲーテル・エッシャー・バッハという全く違う分野の人物を横断的に読み解き、「自己言及」と呼ばれるものの類型が示されていることだった。
 つまり、大風呂敷を広げて、伏線を回収してまとめることを期待していた。

 しかし、この本は、ゲーテル→エッシャー→バッハ→オートポイエーシス→生命の謎・・・

 といった形で「自己言及」を一つのキーワードにして、どんどん大風呂敷を広げていく。
 そして広げるだけ広げて、まとめない。

 その期待とのズレに、私は戸惑ったのだと思う。

GEBのやりたいこと

 GEBが何をやりたいのかといえば、それは「自己言及」という言葉をテーマにして、知的リンクを辿っていくことなのだと思う。
 どちらかといえば、百学連環的な百科事典としての意味合いが強いと思った。

 そして、あとで知ったのだが、GEBは子供向けらしい。
 そこから考えても、結論を求める本というよりも、「知的探求は楽しいんだよ」と示す本なのだろう。

 それならそうと、最初から言ってくれればいいのに。