かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

「私」と「あなた」で考えることの限界

「自由という牢獄」について

 少し前にこの本を読んだ。

自由という牢獄――責任・公共性・資本主義 (岩波現代文庫)

自由という牢獄――責任・公共性・資本主義 (岩波現代文庫)

 

 著者は「今の社会は、選択肢が多すぎて何をしたら良いのか分からない。そう考えると、私たちが思っている自由は、実は不自由なのである」という問題を提起して、話を進めていく。

 この問題自体、確かに現状の社会を表しているものだと思うのだが、その問題解決に用いる手段として、著者は「他者論」を用いる。
 他者論というのは、私以外のものを「他者」として、その他者(必ずしもそれが人間とは限らない)が得体のしれないものだという前提から、コミュニケーションや社会などを考えていく論じ方だ。

 私も、哲学や思想が好きだが、そういったことを考え始めたきっかけは、他者論だったように思う。

二項対立の限界

 しかし最近、他者論で考えることの限界を感じる。その限界が、この本では如実に出ているような気がした。
 この本の中では「第三者の審級」や「未来の他者」という、「私」と「他者」以外の、まさに「第三者」が登場する。そして、その登場によって、先述した問題を解決に導こうとしている。

 そこで私は、読書メーターの感想でこんなことを書いた。

 「そのような二項対立的な考え方で良いのか。このような解決方法は、循環しないか。」

 二項対立的な考え方は、弁証法的に第三者を作るか、または循環させるかして、結局その「あいだ」を取り持つしかない。
 人間には、二項対立的な考え方の源泉である「分からないものを、区別して考えたい」という欲求がある反面、「区別されたものを一緒にしたい」という欲求があるからである。

 

 さて、しかし二項対立とは違う考え方は、人間にとって不可能なのだろうか。
 例え、そのものをありのままに見るということが不可能であったとしても、それを分けたりくっつけることでしか、人間は認識できないのだろうか。

 高校生の時から、私の考え方の主軸となっていた他者論について、そろそろ省みる必要がある気がしている。

 

ブログを始めて1年経ったことと、ブログを始めた理由

 ブログを始めて、1年が経ったらしい。

 「最初にしては、飛ばした文章を書くなぁ。。。」と振り返って思う。

 そういえば、なぜこのブログを始めたのかを説明していないような気がしたので、これを機に書いてみたいと思う。

リセット癖

 私は元々、文章を書くのが好きだった。だから、今までも様々なブログで文章を書いてきた。
 アメブロから始まり、FC2、ライブドアJugemはてなダイアリー、noteなどなど。

 この遍歴からも分かるように、私は「ブログを書くのが面倒くさい」と思うと、そのまま放置すれば良いものを、その都度リセットしていた。

続けることと、残すこと

 「リセット癖は、悪癖だ。」

 そう思うようになったのは、最近だった。
 というのも、過去のブログで自分が書いた文章の概要を、思い出したくても思い出せないということが頻発したのだ。
 自分の血肉になっているはずだったが、思い出せず、嫌な気持ちになった。
 初めて「消さなきゃよかった!」と後悔した。

 そのときから、自分の考えを一つのブログで、継続的に残していくことを考えるようになった。

 例えそのブログが、最新の記事から1年経ったとしても、続けることに意味がある。
 書ける場所があることに意味がある。そう考えている。

気合を入れないで書く

 といいつつも、このブログも最初の方はかなり気合を入れていた。

 「かつげん」なんて名前を作るし、毎日ニュースの更新もしていた。寄付するよ!なんて言っていた。
 今となっては、何もやっていない。私にとっては、やはり大変だったらしい。

 思えば、こういう試行錯誤は、やはりPV(承認欲求)のためにやっていたように思う。自分のためじゃないから、それは続かない。

 昔だったら、ここでリセットしていたのかもしれない。
 しかし、その試行錯誤やカッコ悪さも、まとめて残しておくことが重要なのだと思う。

 今は、副収入を得ようとか、PVを稼いで承認欲求を得ようという気持ちも(それほど)ない。
 書くテーマも、書き方も統一されていない。ブログデザインのこだわりもない。

 とりあえず、続けることや残すことを第一に考えて、細く長くやっていこうと思う。

 

「選挙」というシステムは、時代遅れなのではないか。

 最近「選挙」というシステムについて、懐疑的な見方をしている。

 発端としては、選挙近くになると、「若者よ、投票へ行こう」というキャンペーンが繰り広げられ、あの手この手で、選挙の重要性を説くものが多く見られるようになったことだ。

 普段は、政治と大衆が分かれていて、さも遠くの出来事のような報道をするのに、こういうときだけ選挙に行こうというのは、どこか「葬式仏教」の構造と似ている気がして、個人的に納得できない部分がある。
 そもそも選挙とは、現時点では、行きたい人が行くものであって、行きたくない人は行かなくていいはずである。

 どこか「選挙に行かない人は、非国民」というようなイメージが醸成されているように感じる。

マニフェスト選挙とその弊害

 昨今の選挙は、政策選挙である。各党でマニフェストを掲げ、それをテーマに選挙を行っていく。しかし、このマニフェストをやり遂げた政党が、果たしてどれだけいるのだろう。

 有名なのは2016年の東京都知事選挙。現知事である小池さんは、7つのマニフェストを掲げたが、それはまだ達成されていない。

 都知事選の例は、極端な例である。しかし、マニフェストというものが、選挙のときにはかなり全面に打ち出されるものの、選挙が終われば無用とされてしまう感覚は、市民全体が共有しているものだと思う。

 また、その時の政治状況・経済状況によって、マニフェストは変更され得る。そしてその変更は、ときに「適切な」変更であったりする。
 つまり政策は、水モノなのである。

 そのような水モノを根拠にして、政党や選挙人を選ぶということは、そもそも不適切なのではないかとすら思う。

 一票の意味は、誰が決めるか。

 選挙では、様々な論点が設定される。
 その様々な論点に応じて、選挙人は一票を投じる。だから「Aという政策に賛成だからA党に投票しよう」という単純な話ではなく、「Aには賛成だが、Bには反対で... A党は、AにもBにも賛成しているけど、私はどこに投票しようか」ということが往々にしてあり得る。

 つまり、投票人が投じる一票には、複雑な意味が与えられていることが多い。

 しかし、投票人があれこれ考えて、いくら複雑な意味が与えられたとしても、一票は一票。「清き一票」も「汚き一票」も、同じ一票である。
 つまり、選挙による得票数は、一票の意味を無化する。

 そして、選挙結果が発表されると、その票の意味は、それぞれの政党によって解釈される。
 しかし、この政党によって解釈された意味は、必ずしも投票人が付与した意味とは限らない。というより、異なっていることがほとんどであろう。
 というのは、ある政党が信任されれば、その政党が掲げる全ての政策について信任されたのだと解釈する方が、都合がいいからである。

 逆に言えば、政党は、票を獲得しさえすれば良い。力さえ獲得すれば、あとは解釈できるのである。

何をやるかではなく、誰が信頼できるか。

 このように考えていくと、マニフェスト選挙は、実はあまり意味がないように思える。
 マニフェストは、政党の思想を具現化しているだけであって、その政策を実行するとは限らないからだ。

 そうすると、選挙とは、結局のところ、政策の中身やその実行のためのものではなく、前時代的な「一体誰が信頼できるか」という思想や人格によるものになってくる。実際、最近の選挙では、マニフェスト選挙からの反動なのか、そのようなものが多いと思われる。

 しかし、例え信頼によって選挙が行われたとしても、この信頼は「次の選挙まで、すべてのことを任せます」という全幅の信頼ではない。あくまで保留のある、何かあったときには止められる信頼である。
 ただ、現状として、このような「止められる仕組み」があるのだろうか。

選挙よりも大事と思われるもの

 思うに、政治家は、選挙の結果よりも世論調査を気にしているように思う。

 世論調査は、選挙よりも具体的であって、個々の政策についての賛否をも明らかにする。頻度も月に1回と、頻繁に行われている。
 そう考えると、政策への世論の反映という意味では、選挙よりも世論調査のほうが、影響が大きいように思う。

  しかし当然ながら、世論調査は選挙ではないから、なにかしらの決定を行えるわけではない。

選挙をアップデートすべき?

 やはり、人や政党を決定するだけの選挙は、信頼に基づいた選挙となってしまい、あまり実のないものになってしまう。
 以前から議論されていることではあると思うが、このような信頼選挙とは別に、政策選挙の制度を導入したほうが良いのではないかと個人的には思う。

 それはまさに、NHK世論調査のように、各政策を取り上げて、それに対する賛否も選挙するというものである。

 この制度の導入に伴う最大の争点は、「取り上げる政策の中身」であろう。議題設定それ自体が、一つの権力の現われだからである。

 しかし、個々の政策において、正式に国民の意思が示されるというのは、大きなことである。
 ぜひ、実現してほしい。

 

ひとが自由を感じるとき ー坂本真綾についてー

 先日、このイベントに行った。 

 10thアルバム「今日だけの音楽」全曲先行試聴会

 オープニングトーク→試聴→クロージングトーク

 という流れだったのだが、話を聞いている中で、坂本真綾について書きたいことが出てきたので、書いてみたいと思う。

坂本真綾と振れ幅

 坂本真綾には、振れ幅がある。

 坂本真綾の曲の歌詞は、まず物事をマイナスで捉えて、その後、そのマイナスを受け止めて、プラスに捉えていく。
 数直線で言えば、最初から「+2」を提示するのではなく、「-2から+2」に移行していくような形を取る。

 だから、最終的に行き着く場所は同じだが、坂本真綾の場合には、その場所に行くまでの振れ幅がある。

 私にとっての坂本真綾の理解は、このようなものだった。
 これを岩里祐穂「否定からの肯定で坂本真綾の世界はけっこう作られているな」と述べている。

坂本真綾と自由に対する不安

 坂本真綾は、自由に対して不安に思っている。
 例えば「自由って切なくないですか?」とか「憧れていた自由。誰にも咎められないことの悲しさを思い知る」などと歌っている。
 普通は、自由を手に入れたら、喜ぶものである。しかし、坂本真綾の提示する自由は、自由を手にしたい思っていたのにも関わらず、その願いが叶うと戸惑ってしまう自由なのである。

坂本真綾と制限

 今回のアルバムは「大喜利」だと、坂本真綾は言っていた。「今日だけの音楽」というテーマやショートストーリーを与えて、それぞれの人に自由に作ってもらっているということだった。

 これは演劇にも似たようなところがあるという。つまり、一つの場面やセリフを与えられて、その中で表現する。
 思えば、自分はそういう制限の中で、如何に表現していくかということを軸に考えてきたのだと、本人は言う。
 つまり坂本真綾は、何らかの制限に対して、それなりに肯定的なのだ。

 いやむしろ、坂本真綾にとっての自由とは、制限があってこそ生まれるものと言っていい。

 そういう意味で、先述したような歌詞に出てくる自由とは、なんら制限なく、自分のしたいようにできる自由なのであって、そのような自由すぎる自由に戸惑いを覚えるのも当然である。

今日だけの音楽

 しかし、このような自由観は、乗り越えられようとしている気がする。それは、アルバム「シンガーソングライター」から始まっている。

 表題曲であるシンガーソングライターという曲は、良く言えば「人生讃歌」であり、悪く言ってしまえば「人生なんでもあり」という歌詞である。

 つまり、制限を前提とした自由の獲得ではなく、もっと大きな目標として、人生そのものの充実にシフトしていっている。

 今回のアルバムは、「今日だけの音楽」まさにその方向性が明確に打ち出されたアルバムなのだろうと思う。

けれども、受け入れること

 人は、生い立ちや環境などで制限を受ける。「金持ちの家に生まれていれば…」とか「もっとこうしておけば…」と思うことも多々ある。

 そうした制限の中で、自由になるには、色々な選択肢がある。
 それは、そもそも制限を撤廃する方向なのかもしれないし、制限の中で自由であろうとすることなのかもしれない。
 しかしいずれにしろ、その制限を認識しないことには始まらない。

 制限はある。けれども受け入れること。
 全てはそこから始まること。

 私が坂本真綾に惹かれるのは、そういうところなのだと思う。 

 

 www.youtube.com

根拠的理由と説明的理由

 私は今、来年の研修に向けて、資料を作っている。
 出来るだけ分かりやすく書こうと試みているわけだが、これがなかなか難しい。

 作成の仕方としては、前担当の資料を改定する形で作成している。この前担当の資料が、極めて分かりづらい。
 言ってることは分かるが、腑に落ちない。納得しづらいと思う文が多いのだ。

2種類の理由

 「なぜ分かりづらいのだろう」と考えると、どうやら理由の示し方に問題があるようだった。

 前担当の資料が、業務を行う理由として挙げているのは、「第○条に規定されているから」とか「○○という通知に示されているから」というような「根拠的な理由」なのだ。
 確かに、私たちの業務は数々の根拠に基づいて行われている。だから、それを示すことは何も悪いことではない。相手に説明するときも、「○○で決まってるから、私たちではどうしようもないのです」と根拠を示せば、折れてくれる人もいる。

 でも、もし「じゃあ、なんでそういう規定があるの?」と質問されたら、どのように答えればいいのだろう。

 根拠を示すことは、確かに一面では正しい。しかし、それだけでは不十分である。
 むしろ「○○で決まってるから」という理由の示し方は、どこか他人事で、無責任なようにも思える。

 つまり、私たちが掲げるべき理由は、上述したような根拠的理由では足りず、この「なんで?」に答えるべく、説明的理由が求められている。

根拠的理由の錯覚

 根拠的理由は、「○○で決まっているから」と言われてしまえば、良くも悪くも、そこで終わってしまう。
 「決まっているからどうしようもない」と言えるのは、その根拠の提示によって、追求することが出来ないと分かっているからである。

 しかし、そのように決まっているのは、そのような根拠を決めた理由があるからであって、物理学的な諸原理のように、初めから決まっていたわけではない。

 つまり、根拠的理由の特徴は、本当はその根拠を変更・修正することも出来るのに、根拠を所与のものとし、変更できないものとして錯覚させてしまうことにある。

説明的理由の奥深さ

  一方、説明的理由は、根拠的理由の錯覚を解除することができる。つまり「なぜ?」と問うことにより、その根拠の理由をさらに問うことが出来る。

 しかし、この「なぜ?」への答えは、簡単ではない。

 説明的理由とは、いわば「解釈」である。誰でもその理由を付与することが出来るし、時代によっても変わる。だから、完全な正解がない。おそらく説明的理由における正解は、各々の納得感によるところが大きいのではないだろうか。

 そういう意味で、説明的理由に必要な態度とは、「本当に説明を果たしているのだろうか?」という「不断の問い直し」だろう。

 今の私は、研修資料の作成が「年に1回やると決まっているから」ではなくて、「異動してきた職員が、業務内容を分かるようになるため」だと知っている。
 研修の準備は面倒だが、それが分かっただけでも、少し前向きに取り組めそうだ。

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)