かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

”沼”という形容と被害者意識

”沼”という言い方が最近流行している。

好きなものに"ハマる"という形容が、そうさせているのだろう。カイジの"沼"の影響もあるかもしれない。
いずれにしろ、好きなものにハマることを"沼"と形容するのは、今や一般的と言える。

しかしこの”沼”という形容に、最近、違和感をおぼえるようになった。

”沼”という形容は、「抜け出したくても抜け出せない」という語感がある。しかし、その対象は自分の好きなものである。自分が好きでハマっているのにもかかわらず、あたかも誰かに強いられて、しょうがなくハマっているような言い方である。

私の違和感はここにある。

つまり、沼という形容は、自分の好きなものですら、それに振り回され、抜け出したくても抜け出せない被害者として、自分を捉えていることを意味している。

加害者になる勇気でも書いたように、自分が被害者の側に回るようにしがちな昨今、自分の好きなものですら被害者にしてしまうなら、その人生の主体性は、いったいどこにあるのだろう。

追記:2023年01月26日

推し、燃ゆを読んだ。

「沼」という形容は、「好き」という言葉ではなく「依存」という言葉で説明したほうがスッキリするのではないか。依存だからこそ、その人のためにいくらでもお金を使うのだ。

逆に言えば「沼」という形容は、その依存性を軽視しているし、むしろ自嘲的に扱っている。学校内の暴力を「いじめ」と形容するのと同じ構造のように思う。最近、ホストの依存性が取り沙汰され始めたが、それも同じ構造なのだろう。

依存は、もはや薬物やアルコールだけでなく、ゲーム、買い物、アイドル、ホストなど、あらゆるところで今後問題になってくるのかもしれない。

 

話がこじれる原因は、持っている情報の差である

生活保護の仕事をやっていると、親族やケアマネージャー、病院の相談員、近所の友人など、いろんな関係者と出くわす。

こういったいろんな関係者がいると、話がこじれることがある。その中には、キャラの濃い人によって”こじらされる”こともあるのだが、だいたいの原因は「関係者は生活保護制度をよく知らない」ということに帰結する。

例えば、病院の相談員から「なんでケースワーカーが署名してくれないんですか!」と電話がかかってくる。我々としては「何を言っているのか?」と思うぐらい、当然署名なんてできない。

しかし、相談員はそんなことは知らない。病院の相談員は医療のことには詳しいが、生活保護制度は知らないことが多い。

だから、そういうトンチンカンな要望があっても、それを態度に出さずに、分かりやすく説明する必要がある。

逆にケースワーカーは、生活保護制度には詳しいが、医療制度には詳しくない。結局、お互い様なのである。そこを「そんなことも知らないのか」という態度でいると、余計に話がこじれる。

だから悪態をつくのを我慢して、というか「制度を知らないからそう言ってしまうんだな」と捉えて、情報を与えていくしかないし、相手の立場を理解していくしかない。

つまり、問題解決には、お互いが持っている情報の差を埋めることが必要であり、それがないと解決策も提示できない。

それを「あいつは馬鹿だから」と個人のせいにしていると、いつまでたっても問題は解決しないし、同じような問題がまた起こるだろう。

所有することが趣味になる

クラウドサービスやサブスクが隆盛している今、なにかを所有するということが改めて問われている。

つまり「所有」と「利用」を分離し、「わざわざ所有することなく利用権だけを持っていればよいではないか?」という考えが、世の中に浸透し始めている。

「利用のための所有」と「所有のための所有」が分けられた今、我々はなんのために所有するのだろう。

元々所有という概念は、労働と結びついていた。自分が労働をして獲得したものを、自分が所有する。そしてそれを利用する権利がある、と。

しかし今や、所有は何にも結びついていない。

そうすると、「コレクター」のように、所有するということ自体が目的となり、所有することが珍しいものになる。

しかし、利用権だけを持つことは、その物を誰かと共有することであり、その誰かと繋がり続けることを意味する。それはまさに「サブスクリプション」という契約形態に現われている。

そうなると所有することの意味は、その繋がりの拒否にあるのかもしれない。なにかを購入することで、何をどれぐらい繋がるかを自分の思うままにコントロールできる。まさに「買い”切る”」という言葉は、その関係を指しているように思う。

いずれにしろ、所有と利用の分離は、今後問題になってくる。その問題は、利用することではなく、所有することの価値や意味を問うものになるだろう。

そのとき所有の擁護がなされるのか。はたまた利用に押されて、所有の無価値が強調されてしまうのか。

そう考えているうちに、新たなサービスが出てくるような気もするが、それまでは考えていたい。

神様になりたかった話

「人を動かす」を読んだ。

自己啓発の古典であり、読み継がれていくものだろう。たしかに言っていること自体、間違いではないし、人を動かすためには必要なことである。

ただ「ここで言っていることを続けられるだろうか」という気持ちになった。

この本は、結局のところ「他人にギブをしていけば、人から好かれますよ」ということを言っているように読める。しかし、ギブを続ければ、いずれ自分のエネルギーは枯渇する。

 

わたしは昔、「神様になりたい」と思ったことがある。

神様は全知全能である。ギブし続けてもエネルギーが枯渇することはない。与え続けることができる。だから神様になりたいと思った。

しかし、あるとき気づいた。私は神様になれない。

なぜなら、私は人間だからだ。人間にできないことができてしまうからこそ「神様」なのである。私に「永遠にギブし続ける」ということは出来ない。

ギブを続ければ、いずれ自分のエネルギーが枯渇するときが来る。自分の許容範囲を超えたために、そもそもギブしたくない人だって存在する。

そういうときにどうすべきか。「人を動かす」はそれを教えてくれない。

2022年、今年の3冊

2022年に読んだ本は、12/30時点で69冊。

今年は昇任試験もあり、なかなか本を読む時間が捻出できなかった。読んだ本自体も、軽めの本ばかりだったように思う。

相変わらず、ほとんどの本を図書館から借りて読んでいる。返却期限があるから、適度な緊張感があるし、なによりタダである。本当にお世話になっていて、図書館様々と言っていいぐらいだ。

そんなわけで、2022年、今年の3冊。

時間をかけて読むような哲学書が読めなくなったこともあり、久々に小説を読んだ。この本は最近文庫化されて、私も各所で宣伝を見かけていた。

そんな中、なにかのきっかけで、この小説のテーマが「婚活」であることを知った。私自身、彼女がいなくなって「これから婚活しなきゃなー」と考えていたこともあり、気になって読んでみた。

あれだけ趣味や仕事に費やす時間を尊く思えていたはずだったのに、この先いつまでこの調子で生きて行くのかと思うと、一人きりで過ごす残りの人生がひどく長いものに思えた。その年月を、このまま耐えられると思えなかった。無理矢理にでもいいから、誰かに束縛や制約をされたい。そういう煩わしかったはずのものが、無性に懐かしく、欲しくなっていた。(55)

など、刺さる文や言葉が多く、面白かった。

ストーリー的には、最後の展開に納得したようなしてないような。ちょっと釈然としない感じもあったが、小説だし、完璧を求めるのも違うなと思っている。

まだ昇任試験の勉強をしていなかった1月~2月は、デリダの入門本を読んでいた。この本は特に面白かったと思うのだが、さすがに時間が空いていて、どう面白かったのか説明がし辛い。

もう一回読もうかと思っている。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。(27)

今年一番よかった本。この文にすべてが詰まっているような気がする。

 

今年は、読書よりも自分の生活で精一杯だった。ある占いの本では、「今年は飛躍の年」のようなことが書いてあったが、とてもそうとは思えない。

読書が後回しになるのは、メンタル的にもあまり良くない兆候で、今年はそれがずっと続いていたように思う。

そのため、それぞれの本の感想も、熱量を持って書けずに、こんな感じになってしまった。

来年はどんな生活をし、どんな本を読むのだろうか。