かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

思考様式としての「ハコモノ行政」

バブル期からその崩壊期にかけて「ハコモノ行政」という言葉が批判的に使われるようになった。美術館や道路、空港などの建築物を、税金を用いて作るものの、その後の利用や運用を考慮しないまま、結局ムダになってしまう有り様のことを、このようにいう。

ハコモノ行政」という言葉が広まってからは、こういった無駄遣いが可視化され、批判されることも多くなった。市民の目も厳しくなったせいか、いわゆる「ハコモノ行政」は減りつつあるように思う。

しかし、これは建築物を建てるようなハード面における「ハコモノ行政」が減っているだけで、「新たなハコモノ行政」が生まれつつあるのではないかとも思う。

私のいう「ハコモノ行政」とは、とりあえず外見だけを見繕い、その先の運用は考えないという「思考様式そのもの」を指す。

これまでのハコモノ行政は、建築物が建てられ、そこにお客さんが集まり、人間が働いているということが、実際に建築物として建てられているが故に可視化されやすい面があった。だからこそ「建ててみたはいいが、人が来ないじゃないか!」と批判もしやすい。

しかし、現在行われているハコモノ行政は、ハードからソフトに移行しつつある。

例えば、自治体で作る新たな会議や組織、役職。理念条例や協定なども、ソフト的な「ハコモノ」と言えるだろう。まずはそういった「ハコモノ」を作ることで、「意欲」をアピールする。実際に「作って」いるから、実績にもなる。

しかし、それがどのような結果を生むのか。そもそも、その結果をどのように測定するのか。こういった、ハコモノを作ったあとの視点は、欠如している。

最近は、こういったアピールのための政策が多い。。世間が「DX」といえば、組織の名前を「DX課」に変えたり、「DX推進会議」を開く。世間が「SDGs」といえば、「SDGs課」を作ったり、「SDGs推進宣言」を作ったりする。

ニュースになって市民の関心が湧き、「なんだか新しいことをやってくれそう」という"気分"にはなる。しかしそれは気分なだけで、実際によくなるかは分からない。

市民の気を引くような政策、アピールできる政策が優先される。そしてアピールのために、手軽にハコモノを作る。

マーケティングと政策が結託しつつあるのが、現在の自治体政策なのかもしれない。

生活保護における自由と制限

生活保護という制度は、ある一定の条件を満たせば、行政から家賃や生活費が貰える制度である。このような制度は、社会にとって重要な制度であると思う。もしかしたら、私も将来もらう立場になるかもしれない。

しかし現場で働いている職員としては、疑問を持つことも多い。

生活保護を受けている人の中には、何も努力をしない人、お金をもらって当たり前と考えている人が、かなり多くいる。例えば、自分が何かをしたいときに、それを手助けするお金(一時扶助)をもらえて当たり前。面倒くさい手続きは、ケースワーカーがやってくれて当たり前。

その当たり前が通用しないと分かると、「なぜお金をくれないのか」「なぜ手続きをしてくれないのか」「死ねということか!」と怒る。こういう人は、いわゆる「処遇困難ケース」の中では「あるある」の部類と言えるだろう。

このようなクレームに接したとき、「税金でようやく暮らしていけるのに、なぜそんなにわがままを言えるのか」とか「嫌なら自分で稼いで、自分のやりたいように生活してくれ」といいたくなる。もちろん実際には言わないが、多くのケースワーカーが心のなかで思っていることだと思う。

生活保護を受けていない人は、自分のやりたいことがあったら、自分で金を稼いで、その金でやる。自分で時間を作って、その時間でやる。そういう一般的な価値観から照らし合わせると、こういった自由一辺倒の人(もちろん一部の人だが、しかし「あるある」であることも確かである)に対して、どう接するのがよいのだろう。

たしかに個人には自由がある。やりたいことをやる自由があるが、一方で制限もある。そもそも生活保護は「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するためのものであって、それ以上(”それ以上”とはなにかという問題はあるにせよ)を求めるのであれば、自分でやってくださいと言いたくなる。

あるリベラルな人たちは、「被保護者の自由を尊重しろ!」という。その気持ちは分かるし、こっちも精一杯やっているのだが、しかし自由だけを主張したところで、「現実的な落としどころ」での妥協が求められることがほとんどだろう。

もし本人の自由だけを認めてほしくて、関係者や支援者の都合や制度的限界はどうでもいいというのなら、生活保護を脱すればいいと思うのだが、それを言ってしまうと「行政は責任を放棄している!」という話になってしまう。

被保護者の自由は生活保護を受けることによって、よくも悪くも保たれている。だからその自由は、生活保護制度の範囲内での自由となる。しかし、いつの間にか「生活保護制度の範囲内での」という条件句が抜けてしまって、「人権」とか「自由」といった単純で抽象的な話に発展してしまう。ともすれば、本人の希望がまず第一にあって、それを肯定するためなら、あらゆる制度を否定することさえある。「制度のほうがおかしい!」というわけだ。

だが、そもそも人権とか自由というのは、生活保護うんぬん以前に、社会で生きる上で、もともと制限がつかざるを得ない。それを考慮せずに「この人の自由をまず考えろ」と主張されると「社会への堪え性がないな」と思う。つまり「自由」と「制限」ではなく、「制限の中の自由」を身につけなければならないのだが、それが出来ない。

そしてそんな「堪え性のなさ」も、「病気や障害や生育歴のせいであって、本人のせいではない」と免責されてしまうのが福祉の世界だったりして、嫌な気持ちになる。

福祉の世界には、正解がない。
それが面白い部分でもあるのだが、しかし、もうそろそろいいかなと思い始めている。

 

非効率な仕事には何か理由がある(かもしれない)

現状の業務に非効率な部分があっても、その非効率さには理由があるかもしれない。だから、その非効率さを敵視して、あたかも「これぞお役所仕事」みたいなレッテルをすぐに貼ってはいけない。

現状の非効率さには理由があって、それを自分が知らないだけかもしれない。例えば「昔、都道府県から通知が来て、そういう仕組みになっていた」なんていうことはよくある話である。

自分より頭のいい人なんて大勢いる。だから非効率な部分をそのままにしておくはずがない。そこにはなにか理由があるはずだと考え、調べなければならない。

うちの係のある担当が、生活保護の書類をメールで送れないか?という"改善案"をぶち上げた。印刷して郵送するのが非効率だから、メールで送りたいということらしい。たしかにそうなったら嬉しいが、私は「さすがにそれは出来ないんじゃないか?」と思った。

私は文書管理をしていたから、その担当が私に「公文書をメールで送ることは可能か?」と質問してきた。そこで私は規程を調べて「公文書は”ある要件を満たせば”メールで送れますよ」と答えた。実際そのように決められている。

そうすると、その担当はすぐさま上司の元に行き、「生活保護の書類を来年からメールで送れるようにしたい」と正式に提案し始めた。

さすがに私も驚いて、その後提案を受けていた上司へ「私は、ある要件を満たせば公文書はメールで送れるといったけど、その書類が送れるとは言ってないですよ」と釈明した。

実際調べてみると、その書類はやはり公印が必要で、現在の制度の中では、紙で送らなければならない書類であることがわかった。

つまりその担当者は、業務改善を思いついたものの、「実際に可能なのか」とか「どのようにやるのか」「誰に話を通すのか」ということについて、特に調べてもないし、考えてもない。

具体的な話をこれ以上続けると愚痴になるからこれで終わりにしよう。

ともかく「非効率だから俺が変えてやる」という気持ちだけでは、業務改善はできない。むしろ、これまでの経緯や非効率さに対する、ある種の”敬意”を持たないと、逆効果になることすらある。

「これ非効率じゃね?」とか「おかしいな…」と思ったら、そうなっている理由を調べてみる。調べて出てこなければ、他の職員に聞いてみる。そうやって調べて理由が判明したとき、その理由が妥当だと思うなら、引継ぎとして文書に残しておけば良い。

いろいろ調べ尽くしても妥当な理由が分からないときに、初めて業務改善は検討されるべきであろう。そういった下調べもなく、「業務改善すること」それ自体が目的化してしまったら、元も子もない。

徒歩はできるが、散歩ができない

私は散歩ができない。徒歩ならできる。

つまり「歩く」ということを交通手段として捉えていて、歩くことそれ自体を目的と考えられない。

どうやら私は極度の目的思考で、"暇な時間"が許せない。何か役に立つこと ―それは「自分にとって」でも「誰かにとって」でもよいのだが― をしないと、時間がもったいないと思ってしまう。

なぜこのような考えになったのかはよく分からない。ただ、最近このような目的思考が必ずしも自分にとってよい影響を及ぼしているわけではない、という気がしてきた。

常になにかに急かされ、「自分は無駄なことをしているのではないか?」と思ってしまうのである。無駄なことをやったっていいじゃないか!と開き直ることができない。

無駄なことをしたい。誤配のように、「無駄になるかもしれないけど」という”跳躍”ではなくて、本当に無駄なことをしたい。利益や目的のない行為が出来るようになりたいと思う。

AIは、自動であるが中立ではない

最近では、自治体向けの雑誌でも、DXやAIという言葉が飛び交っている。

ただその様相は、流行的な側面が強く、「とりあえずAIって言っておけばいいだろう」という投げやりさすら感じるときもある。AI関係の議論は、私には以下の動画のような光景に見えてしまう。

さて、「AIってそんなにいいのか?」というのは、私が前から考えていることだ。例えば以前はこんなことを書いている

AIは人工知能である。だから、あらかじめ組まれたプログラム(計算)によって、自動的に答えが導かれる。しかし、このことはAIが中立であるとか、公平であるということを意味しない。

たしかにプログラムという概念それ自体は、中立的なものである。しかし、そのプログラムは人間によって作られる。つまり、何らかの”価値づけ"がなされる。それは教師なし学習であっても同じであろう。

だが私たちは、「自動であること」を「中立であること」と勘違いしている。自動的に答えを導いてくれるからと言って、その答えが「客観的な正解」とは限らない。そして仮に「客観的な正解」が導き出されたとしても、それを解釈するのは人間であることには変わりない。

つまり、AIが導入されたところで、導き出された答えは、中立にはなり得ない。よく先進事例として取り上げられるような「AIによる保育所⼊所選考マッチング」も、その選考結果が”中立”とは限らない。

自動と中立の混同は、AIの神格化を招く。シンギュラリティの議論は、まさにその一端といえるし、その議論にうさんくささを感じるのも、自動と中立の混同が原因だろう。