かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

美学をもつ

仕事をしていると、Aを選ぶにしても決め手に欠け、Bを選ぶにしても決め手に欠けるということがある。または、AでもBでも理由が立つから、選べないということもある。

Aしか理由が立たないのであれば、自動でAに決まるわけだが、「AでもBでもどっちでもいい」という状態が一番困ってしまう。

こういうときに「美学」が必要になる。

「価値観」とか「こだわり」と言い換えてもよいだろう。「どっちでもいい」という状態でどちらかに決めるには、より詳細な理由立てが必要であり、その詳細に立ち入るには美学が必要だ。

美学やこだわりは、頭の硬さ・融通の効かなさの象徴のように考えていた。だから、これまでは出来るだけ持たないでおこうと思っていた。

しかし、より深く考えるために美学は必要だし、仮に融通の効かなさという弱点を獲得してしまっても、それを上回る利点があるのではないか、と考えるようになってきた。

僕は、こういう文はいいと思う、こういう文はよくないと思う。そういうことがなければ、少なくとも批評は存在できない。いや、ほんと言うと批評だけじゃなくて、文章を書くことに熱意を注ぐ、ということが存在できなくなってしまう。その熱意が、大きく言って美というものを成り立たせているからです。いいですか。いろいろあるよ、と言っていたら、美も存在できなくなるんです。(15)

頭の柔らかさや柔軟性が不要だと言いたいわけではない。しかし、順番としてはまず美学が先にある。その頭の硬さをほぐすようにして、柔軟性は獲得されるのだろう。

Queen第二世代からみたQueen + Adam Lambertの東京ドーム公演

私が生まれたとき、彼はすでに亡くなっていた。

小6でファンになったときは、再結成などもってのほかだった。Queenのファンは、過去の曲やライブ映像を見るしかないと思っていたし、実際、「フレディのいないQueenなんて考えられない」というファンも多かった。

そこから20年。
Queenは再結成を2回行った。アルバムも出し、映画になり、来日ツアーを敢行するまでになった。

ありえないと思っていたことが、現実となっていたのである。

確かに形は違う。1回目はポール・ロジャースと、2回目である現在はアダム・ランバートと組んでいる。だから厳密に言えば"Queen”ではない。しかし、私のようにリアルタイムでQueenを見れなかった人間にとって、そのような厳密さは小さな問題にすぎない。

ここで触れなければならないと思うのは、ポール・ロジャースについてである。忘れ去られているのではないかというぐらい、ファンの間では話題に上がらないが、今のQALがあるのは、以前のQPRが存在したからだと思う。

QPRの再結成が実現し、ツアーを行い、アルバムを出せたからこそ、次の再結成の流れができた。あそこで再結成できなかったら、おそらくブライアンもロジャーも、ソロ活動へと進んでいたのではないかと思う。

たしかに「QPRはQueenなのか?」と聞かれると、難しい問題である。ポール・ロジャースは男臭いイメージだから、Queenのイメージとは違う。今のQAL体制に比べれば、なおさらそんな気がする。

しかし、そういった経験があったからこそ、QALが生まれたし、今の人気がある。もう少しQPRについて評価してもよいと思う。

 

QALになってからは、『ボヘミアン・ラプソディ』効果もあって、若いファン層が増えた。アダム・ランバートのファンも比較的若めだろうから、それもあいまっているのだろう。

実感として、2016年の日本武道館公演の時は、若いファンそれほどいなかったが、映画後のライブである2020年のさいたまスーパーアリーナからは、ファン層がガラッと変わった。

率直に言えば、この新しいファン層に対しては、かなり静かな印象を持っているし、スマホをずっと構えていて、いいイメージがあまりない。しかしそういうライトファンがいるからこそ今回の来日ツアーが実現したのである。

そう考えると、こういったライトファン層と上手くつきあっていかなきゃいけないし、「Queenのライブはこうすべき」という固定概念も、もう少し緩くしなければならないと思う。

 

次はいつ来日するのか。それとももう来れないのか。そういうことが話題になる。

しかし私にとっては、とにかくこの20年、ずっとQueenを追いかけることができた。
フレディが亡くなってからファンになった私にとって、それは奇跡だと思う。

そんな20年の奇跡を噛み締めた2日間だった。

 

「推し」とか「表情管理」とか

「推し」という言葉が気になって、考えている。

「推し」は、他人を介在させた「好き」だ。いかに自分の生活が推しに染まっているかで、好きの度合いを競っている。

どうやって自分の生活を推しに染めるのか。それは、SNSで関連アカをフォローして、写真とかアクスタなどのグッズを購入して染めていくのである。そしてそれには終わりがない。

そして、時にはアイドルや運営側の目線に立ち、アイドルや運営の努力や都合を想像する。

例えば「表情管理」という言葉は、それを悟られないようにするところまでが「表情管理」のはずである。しかしファンは「表情管理をしていてすごい」という評価を行う。

アイドルの裏側まで想像し、それを含めて応援することが「推し」の条件になっている。

「推し」は、アイドルと一体化する方向を目指している。自分の生活をグッズで染め上げた上で、アイドルの裏側まで考え、評価・行動する。

しかし、本当にそれは「好き」なのだろうか。なにか違うものに「巻き込まれている」のではないか。

そんな風に思う。

 

K-POPの客の盛り上がりが分からない。

今年の紅白は、ジャニーズの代わりなのか、K-POPアイドルが多数出演していた。

で、PRODUCE101を見ていても思ったことなのだが、彼ら/彼女らがパフォーマンスをしているときに、不可解なタイミングでお客さんが「キャー!」と盛り上がる。

例えば、

【NewJeans】紅白SP「OMG」「ETA」「Ditto」世界を席巻したK-POPガールグループ|NHK - YouTube

これの 0:53~0:54とか1:01~1:02 

なんで盛り上がっているのかよくわからない。「別に”キメ”のとこじゃないでしょ...?」と思うのだが、なぜか盛り上がる。ファンの間で「お決まり」があるのなら分かるが、そういうわけでもなさそう。

何となく思うのは、ファンが単純なファンではないというか。例えば「表情管理」という言葉が示すように、パフォーマンスとして出てくる表層的な部分ではなく、ファンがアイドルの立場を想像し、その表層に出すまでの努力自体を好きになっているように見える。そしてそういう一周回った「好き」を「推し」というのだろう。

パフォーマンスの中で、その努力が見られる部分に対して歓声を上げているのかな、と邪推するのだが、どうなんだろう。

 

2023年、今年の3冊

2023年に読んだ本は、今日時点で105冊。私の傍には「成瀬は天下を取りに行く」があるが、もはや今年は読めないので諦める。

以前と比べてブログの更新頻度が激落ちしたが、書きたいときに書くと決めているので、来年もマイペースにやっていきたい。

というわけで、今年の3冊

堅い書名だけど、大学の講義を元にしていて、中身はかなり砕けている。いわゆる「文章読本」なわけだが、その技法的な部分というよりは、文章を書くことへの心構えを説いている本

僕は、こういう文はいいと思う、こういう文はよくないと思う。そういうことがなければ、少なくとも批評は存在できない。いや、ほんと言うと批評だけじゃなくて、文章を書くことに熱意を注ぐ、ということが存在できなくなってしまう。その熱意が、大きく言って美というものを成り立たせているからです。いいですか。いろいろあるよ、と言っていたら、美も存在できなくなるんです。(15)

例えばこんな文には”熱さ”を感じるし、それは文章を書くことだけでなく、人生そのものに対する態度を表しているようにも思う。定期的に読み直したい本。

 

今年読んだ本を見直したときに、「あ、これ今年なんだ」と思った。

読書メーターには、いいと思った部分の引用を普段は載せているのだが、この本に対しては、

「主人公はまだ許せるのに、白羽が許せなさそうなのはなぜか?」と考えてしまった。白羽によって就活させられるときも、社会的には”正しい”はずなのに「そっちはお前の道じゃないぞ!」と思ってしまっていて、コンビニ人間であることを主人公に望んでいるという、なかなか不思議な気持ちになった。

と感想を載せていた。

まだ異動前の部署で、精神障害発達障害について考えていたときだったから、余計刺さったのだと思う。ただし、主人公がそういう障害を持っていたかどうかは分からないし、仮に持っていたからといってなに?という話なのだが。

 

すべてが分かった訳ではないけど、マルチタイムスケールの話がとてもよかった。別の本で、平井さんは

クオリアとか、みんなタダできると思っちゃってるんですよ。脳から湧いて出るみたいな。イメージだって脳から生じますといってわかった気になっちゃうけど、素材ないじゃないですか。無から作っているって神ですか、みたいな。(『ベルクソン思想の現在』P117)

と語っていて、その考えが発揮された理論だと思う。

哲学の営みは、思弁的になりやすくて、頭の中の概念操作で、ふわっとそれっぽくやることが多い。分析哲学はそれの批判として、論理的に厳密にやろうとしているわけだけど、旧来の哲学でもなく、また分析哲学でもないような、素材感のある哲学でとてもよかった。

 

今年は深い読書ができなかった。その原因は本のせいというより、読書に対する私の態度のせいだ。

次から次へと本を読み、記録する。

それが悪いわけではないけど、右から左へすり抜けているような感覚で、もうちょっと味わって、内容を頭に入れていかなければならないと思った。

先日の記事でも載せたように、来年は、

「忘れる・思い出す・覚える」 

ということを読書の面でもやっていきたい。