かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

地方公務員は「招集バッグ」を用意したほうがいい

さいきん地震も多いので、防災グッズや備蓄を買おうかと考えている。しかし「そもそも地方公務員は、家においてある防災グッズを使うんだろうか?」と思うようになってきた。

地方公務員の場合、大きな災害が起きると、職場への招集がかかる。そうすると、自宅にある防災グッズは、一人暮らしの場合、ほとんど役に立たない。水や食糧を3日分備蓄していたとしても、職場にすべて持っていけるわけではないから、災害時には適当な量をバッグに詰めて、招集場所へ向かうことになるだろう。

防災グッズを用意するな、と言いたいわけではない。しかし、地方公務員においては、被災者である前に自分の仕事をしなければならないのだから、一般的な備蓄や防災バッグよりも、職場から招集されたときの「招集バッグ」を自宅に用意したほうがいいのではないかと思う。

電子書籍の手触り

私は、家にある本をPDF化にして、PC上で読むようにしている。おかげで、本棚はスカスカになった。PDF化した理由はいくつかある。

1つ目は、ブログなどで引用しづらいこと。紙の本で読んでいると、ブログなどで本を引用しようとしても、コピペできない。いちいち手打ちしなければならないから、手間にもなるし、ミスにも繋がる。

2つ目は、検索できないこと。PDFだと「こういうこと言ってたよなぁ」と思って適当な単語で検索をかければ、基本的に引っかかってくれる。紙の本では、検索ができないから、ページをめくって該当部分を見つけなければならない。

3つ目は、引っ越しが楽なこと。本だけで何箱もダンボールを使うのは、場所を食うし、本は結構重くて大変である。地震を気にしなくて良いということもある。

以前、罪悪感のない積読は、積読ではない - かつげんの拠り所にも書いたように、「積読」を始めとする、紙の本に対するロマンは、そこに"存在すること"を重要視している。「積めること」「触れること」が大事なのだと主張する。そういう意味で、PDF化した書籍は積めないし、匂いもしないし、手触りもない。だから、彼らからみれば「ロマンがない」のかもしれない。

しかし、本当にPDFは"積めない"のだろうか。

電子書籍といっても容量は喰う。PDFにすればゼロになるというわけではない。HDDに保存し続ければ、いつかは満杯になる。だから、PDF化した書籍でも紙の本でも”場所を取る”ことには変わらない。なのに、紙の本の積読は許されるが、PDFの積読は許されないのだろうか。

考えてみれば、紙というのは1つのメディアでしかない。はるか昔は石版だったし(だから「タブレット」が回帰しているのは面白い)、木や動物の皮に書くこともあった。紙というメディアは、様々な選択肢の中で、便利だから流通しているのだ。こういった単なる合理性を、ロマンと履き違えているだけなのではないか。

積読”が、堆積すること全般を指すなら、なにも紙の書籍を積む必要はない。PDFだって、溜まっていくのだ。むしろ、堆積した後にどう整理し、どう活用していくかを考えると、PDFや電子書籍のほうが、分が良い。

結局のところ、慣れの問題が大きいのだと思う。これまでフセンを付けたり、書き込みをしながら紙の本を読んできた人にとっては、いきなり自分のやり方を変えるのは難しい。しかし、だからといって電子書籍を敵視することはないだろうと思う。

そういう意味で、まだ若いときに切り替えられた私は、運がよいのかもしれない。

人に対する評価は、グラデーションではない。

人に対する評価は、結局は「敵」と「味方」ぐらいに区別することでしか評価できないのではないかと思う。人事評価が数値化されていったことにより、人間に対する評価は1点刻みで出来るように思われている。しかし、それはあくまで「科学的」な評価であって、一般的な感覚とはズレている。

普段の人間関係において「こいつは72点だな…」とは思わない。「科学的」で「見える化」された客観的な評価を、我々は生活の中で行わない。おそらくほとんどの人は「こいつは仕事できるな」とか「こいつはダメだな」ぐらいの評価しかしない。つまり、人間に対して2値的に評価しているはずだ。「こいつはダメだな」と思われると、そこから這い上がるのが難しいのは、このためである。

だから、評価を落としたときに、1点ずつコツコツと評価を上げることはできない。頑張れば頑張るほど、比例的に評価が上がるということはない。ある時突然、これまでの仕事ぶりが評価されて、「ダメなやつ」から「出来るやつ」に切り替わるものである。

見える化」は、こういう生活感覚を見えなくしている。図解したり数値化することが総じてダメとは言わないが、使いどころを間違えてはいけない。

 

逃げてもいいけど、その後どうする?

夏休み明け間近になると「逃げてもいいんだよ」という言葉をよく聞くようになる。
仕事の話もそうだ。理不尽なことや嫌なことがあったら、下手に立ち向かわずに「逃げてもいいんだよ」と言ったりする。

それで自死してしまったら元も子もないから、ひとまず辛い状況から逃げるというのは、選択肢としてあり得ることだと思う。今まで立ち向かってばかりで、消耗している人にしてみれば、そのような言葉が、天啓のように響いたりすることもある。

ただ、私は「逃げてもいいよ」ということは、あまり言いたくない。逃げてもいいけど、立ち向かうことも大事だ。立ち向かうことで得られる経験もある。強者の理論なのかもしれないが、事実としてそういう面はある。

また「逃げた後どうするか?」を考えないまま、とりあえず逃げてしまうのは得策ではないだろう。それは転職先の目当てもつけずに、とりあえず退職するようなもので、リスクが高すぎる。学生にしても、学校に行くことが当然で、それ以外の選択肢がほとんどない中で、逃げたあとに自分がどうするかは考えなければならない。もちろん「それ以外の選択肢がほとんどない」という状況自体がおかしい、という批判もあるだろう。

「逃げてもいいよ」という話を聞くたびに、私は「結局は自分の人生じゃないの?」と思う。自分の選択が、いい方向に転ぶのかは誰にも分からない。「あのとき立ち向かったおかげで今の自分がある」と思う人もいれば、「あのとき逃げたおかげで今の自分がある」と思う人もいる。単に逃げればいいというもんじゃないし、立ち向かえばいいというものでもない。大事なのは、どちらに転んだとしても、自分の人生であることを覚悟して、判断することなのだと思う。

「逃げるか、立ち向かうか」というのは、判断の具体的な内容でしかない。むしろ大事なのは、判断の主体性とか責任感なのではないか。

夏休み明けにこういう話を見かける度に考えてしまう。

 

プログラミングの考え方を法令に適用すること

この疑問は、私も以前から考えていたことだ。

プログラミングは、コンピュータに対して「こう動いてくれ」という命令と言ってよいだろう。しかし、その命令を受けるコンピュータ側もプログラミングで出来ている。つまり、命令自体もその命令の受け手も、共通のプログラミングで出来ている。そうであれば、その共通のプログラミングはどのようにして出来ているのだろうか。

調べてみると、プログラムも結局は2進数によって出来ていることが分かる。0と1で出来る文字列の塊をグループ分けして、そのグループに我々が言葉を割り振ることによって、高度なプログラミング言語ができる。結局はモールス信号と同じだ。しかし、そうだとしてもコンピュータは2進数をどのように受け取り、どのように処理するのだろうか。

ところで、人間に対する命令と言っても良いであろう法令は、プログラミングと同じく「コード」と呼ばれる。しかし人間のそれは、コンピュータにおけるプログラミングとは状況が異なっている。というのも、人間社会における法令は、命令自体は、プログラミングと同様の「言語」であるが、その出し手や受け手は人間である。出し手や受け手が人間だと、解釈に幅が生じるし、歴史や慣習もある。そもそも法令自体が、歴史や慣習を明文化したというものも多い。つまり、言語は後から出現したのであって、最初は明文化されていない慣習法があったはずである。

しかし、コンピュータの場合、解釈はないし、歴史も慣習もない。ただ言語があるだけだ。このような場合、言葉の意味を受け取ることはできるのだろうか。解釈なしに意味など分かるだろうか。

ここまで考えてきたように、ブログラミングも法令も同じく「コード」と呼ぶものの、内実はかなり違うような気がする。そもそも「プログラミング『言語』」とは言うが、プログラミングの原型が2進数であることを考えるなら、コンピュータのやっていることは言語の表出ではなくて、計算結果の表出なのではないかと思う。それを同じく「言語」と言ってしまうからややこしいのだ。

そうすると、法令をプログラミング的に考えて改良する試みについて、有益なこともあるだろうが、法令がプログラミングに取って代わられることはないのだろう。