かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

【現役地方公務員おすすめ!】新人地方公務員(行政職)にオススメの本4選!をアップしました。

動画をアップしました!
今回は、新しく地方公務員になる方に向けて、オススメの本を4冊紹介しています。

動画編集も、なかなかこだわりが出てきて、勉強し始めています。
今後とも、よろしくおねがいします。

Youtuberの再生回数に意味をもたせてはいけない。

去年から動画投稿をはじめて、Youtubeはいかに恐ろしいところかと感じた。
Youtubeに動画を投稿した人ならわかると思うが、勝手に再生数や時間が分析されて、「ここで視聴者が離脱してますよ!」と丁寧に教えてくる。
まるで、再生数が落ちたことが悪いことかのように、データを元に詰めてくる。まさにありがた迷惑である。

もちろん、再生数が増えることは私にとっても嬉しいことで、承認欲求が満たされる。
Youtubeで利益を上げている人にとっては、再生数=収入であり「増えたら嬉しい」どころか、自分の生活がかかっている。
だから、必死になるのも分かる。

ところで私は、Youtubeで収入を得ようと思っていない。
だから、再生数が増えたところで何なの?と思ってしまう。

私にとって、動画を投稿するモチベーションは、記録を公開して残しておくということであって、再生数を増やすことではない。
少しずつ動画制作になれ始めて、分かりやすい動画を制作したいという気持ちも出てきた。
でも、それは「分かりやすく伝わってほしい」とか「(自分の動画に対して)なんだよこのクソ動画」と思う気持ちが芽生えてきたからであって、再生数を増やすためではない。

綺麗事のようだけれど、何かを作るということは、やっぱりこういうところに落ち着いてくる気がする。

数は増えても増えても終わりがない。質を量に転換しても意味がない。
そこに執着しても、あまり良い結果を生み出さない気がするのは、私だけだろうか。

 

AIとその理解

私は囲碁をやっているのだが、囲碁の世界ではときたま「一貫性」が求められる。
攻めるなら攻める、守るなら守る、ということだ。

しかしこの一貫性は、AIの登場によって崩壊してきている。

AIには流れがない。
その場面での最適解を選ぶのみである。
AIは流れの中で選択するのではなく、数値化された過剰な大局観の中で、つまみ食いのように選択を行う。

だから、AIが対局をしていた途中から、替わって人間が打とうとしても、打ちづらい。流れが分からない。

このように考えていくと、AIの分野では、いわゆる「シンギュラリティ」の問題よりも、そもそもAIと人間で、問題に対する捉え方が異なるということの問題が重大である。

AIが人間の能力を超えなくても、そもそも人間にはAIの問題認識の仕方が理解できない。

ただ、理解できないからといって人間とAIの共生が出来ないわけでもない。
パソコンに詳しい人が作ったエクセルのマクロを、よく分からないまま、引き継いで使い続けている現状を考えれば、「人間が理解しないままの共生」の方が今後の可能性としては高いだろう。

しかし、本当にそれでいいのだろうか。

シンギュラリティという言葉に踊らされずに、「AIを人間的に理解するとはどういうことか」をまずは考えるべきではないだろうか。

【条例の作り方講座】第4回 ~新旧対照表と改め文~ をアップしました!

条例の作り方講座第4回 「新旧対照表と改め文」をYoutubeにアップしました!

今回から、字幕にもチャレンジしています。
できるだけ分かりやすい動画づくりをしていきたいと思っていますので、今後ともよろしくおねがいします。

蔓延するフリーランス的価値観

私は1992年生まれで、いわゆる「ゆとり世代」の真ん中ごろの世代だ。

私の世代は、個性や「自分らしさ」などが注目されていた。SMAP世界に一つだけの花もヒットしたし、大学でもキャリアデザイン学の授業があった。当時の感覚として、「自分らしい人生を自分の手で作り上げていくこと」に価値を置いていた社会だったように思う。

このような感覚の社会の中で育った私たちの世代は、やがて社会人になって、力を持つようになる。その結果、少なくとも今のインターネットの中では、フリーランス的価値観が蔓延している。

例えば、Work as Lifeといった言葉は、まさに仕事とプライベートの境目をなくした、フリーランス的価値観を基礎としている。また、「個人のスキルアップが重要」という価値観も、手に職をつけるという意味では、フリーランス的価値観と言えるだろう。鶏と卵ではあるが、自己啓発本の隆盛も関係しているはずだ。

加えて、こういった言説を強調するあまり、「会社を頼ってはいけない」ということも主張される。例えば「大企業は、これから衰退していく」とか「むしろ今のベンチャーこそ、将来の大企業なのだ」とか「副業を検討しよう」とかである。(元)公務員Youtuberの中には「公務員は安定していない」と主張する人すらいる。

確かに、技術を自分に内製することは、低成長でリスクの高い社会を生き残るための一つの手段と言える。こういったフリーランス的価値観は、私たちが受けてきた教育や社会状況の結果なのかもしれない。

確かにフリーランスは、自分で仕事を選べるし、会社に所属していないから会社から搾取されない。そういう意味で、Work as Lifeは達成できるし、自由度は高いであろう。

しかし、私としては、強い違和感を覚える。

自由度が高いということは、労務も税務も契約も、すべて自分で管理し、仕事相手からの搾取も自分で守らなければいけない。逆に言えば、会社ではこれらの「雑務」を行う部署があって、代わりにやってくれているということでもある。 フリーランス的価値観を主張する人は、どうもこういう部分が抜けているように見える。

「自分らしい人生を自分の手で作り上げていくこと」は、自分のコントロール下で、思い通りに人生を作り上げていくことではない。というか、そんなことは不可能だ。

フリーランスでも、会社でも、公務員でも、自分らしい人生を歩むことはできる。私たちの世代がこれから社会を担っていくにあたって、もう一度冷静に「自分らしさ」を見つめ直すべきではないか。

そんなことを考えている。