かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

一貫性とは過去の概念である

私たちのTwitter上の発言ひとつひとつには、URLが付与されている。これは驚くべきことである。発言は、すべて独立して存在していて、いつでも参照可能なのだ。

何年も前の発言を取り上げられ、「前にはこんなことを言っていたじゃないか!」と批判されているのを見ると、私たちはこれまで以上に「一貫性」が求められているのだろう。

「お前は一貫性がない」と批判されるとき、それはもしかしたら、本当に一貫性がないことを批判しているのでなく、「一貫性がないこと=変節」に対する説明が足りないことを表しているのかもしれない。ただ、この説明はいくら行っても満足には至らないだろう。

よく考えてみれば、実際の私たちの発言や行動が、一貫しているかと言われれば、そうでもない。いくら「三つ子の魂百まで」と言われても、3歳のときからずっと同じですという人はいない。むしろ紆余曲折というべきだ。

つまり、人間は変わる生き物だし、変わらなければ生きていけない生き物なのだ。

だから、一貫性とは、それが過ぎ去り、振り返ったときに初めて生まれるものであって、現在進行系で保持していくことは難しい。

それでは、いつなら振り返ることが出来るのか?

難しい質問だが、少なくとも現代は、過剰に振り返り過ぎているように見える。

 

音声入力による“第2次言文一致運動”の可能性

このブログはタイピングすることによって書かれているが、例えば、勝間和代は音声入力でブログを書いているようだ。

確かに、認識さえちゃんとしてくれれば、音声入力の方が楽なのだと思う。

しかし、ハンズフリーで電話している人ですら「ひとりごとを話している変な人」と解釈されてしまう世の中で、「ひとりごとを話してブログを書いている人」が受け入れられるかというと、現時点ではなかなか難しいだろう。ただ、なにかのきっかけで音声入力が主流になっていくだろう。
音声入力やフリック入力が発明され、タイピングが“特殊技能“となりつつある今、「そもそもキーボード入力自体が非効率だよね」という声が多くなるのは必然だ。

そもそも、このように書いている文章と、我々が話している言葉は言うまでもなく異なっている。私が、今書いている言葉のように普段も話していたら、かなりおかしいだろう。これが話し言葉ならば「かしこまった独り言」になってしまう。

つまり、書き言葉と話し言葉は、区別されている。

仮に音声入力が主流になると考えてみよう。今までの入力方式は、基本的には「手」による入力だ。しかし音声入力は「口」である。この変化は、かなり重要な変化だ。

というのも、音声入力で使う「口」と普段の会話で使う「口」が共通するために、「口」を通して、音声入力的な発音と普段の会話的な発音が混ざるのではないかと考えているからだ。

例えば、普通の人は9月1日を「クガツ ツイタチ」と読むが、役所では「クガツ イッピ」と読んだりする。「施行」も本来は「シコウ」だが、役所では「セコウ」と読む。こういった役所独自の言い方に慣れてくると、普段の生活でもお役所言葉で読むのが普通になる。

お役所言葉と同じように、音声入力が普及していくと、音声入力独自の言葉や読み方が、出現してくるだろう。
そのとき、人間は書き言葉・話し言葉・音声入力の3つの場面を、明確に使い分けることが出来るのだろうか。むしろ“第2次言文一致運動”的な流れが興ってくるのではないか。

そんな気がしている。

スキャットマンに憧れて、吃音になりかけた話

ニュースを見て、高校生の時に吃音になりかけたことを思い出した。
それは、動画サイトでスキャットマン・ジョンの存在を知ったのがキッカケだった。

「吃音を活かすなんてすごい!」と、吃音のこともロクに知らずに、彼に憧れていた。
元々好きだったQueenの”The Invisible Man”をカバーしていたことも、親近感を抱いた一つの理由だろう。

さて、”憧れ”というのは、「抱けばそれで良い」というものでもないようで、当時のかつげん少年は、スキャットマンになりたい一心で「どもりたい!」と思うようになってしまった。そして、例えば「どどどどどどうすれば」などと、最初の発音をわざと連続させるような「どもりの練習」をしていた。

練習の甲斐あってか、1ヶ月も経てば、どもりが”上手く”なってきた。そのうちクセになってきて、意思がなくても、どもりが出てくるようになった。
しかしどれほど、どもりが”上手く”なったところで、スキャットマンのように歌えるわけではない。あのスキャットは、私にとっては”どもり”というより”早口言葉”だった。そして、そもそも私は英語が喋れない。そんな現実に直面して、スキャットマンへの憧れは自然と消えていった。

憧れが消えるのは自由だが、どもりは残った。

おそらく、1年ぐらいは癖が抜けていなかったと思う。とにかく、普通の喋り方に戻すのが大変だった。今でも、驚いたときなどに出てしまうくらい。

 

さて、今回のニュースについては、

少女は初日に頭部のけいれんを感じながら目覚め、翌日になると汚い言葉を叫び散らすようになったという。

という記述もあるから、実際、なにかしらの疾患なのかもしれない。医者ではないから、「マネしていたのが、クセになったのだ」と言い切る自信はない。

ただ、ニュースを読む限り、自分と同じような経緯のような気がしたので、書いてみた。

インターネット利用料は必要最低限として認められるか

「なるほど、こういうサービスがあるのね」と感心した。確かに、今やインターネットは、社会的なインフラといっても過言ではない状態になっていて、それがないと生活できないという面はある。

さて、3年ぐらい前だったと思うが、熱中症対策として、家具什器費の中でエアコンの購入が認められるという通知が出た。それまでエアコンを購入するには、自分の生活扶助(つまり生活費)の中から拠出するしかなかったが、ある一定の条件下では、別枠で購入することが出来るようになった。

個人的には「ようやくか...」という感じだったが、このように「必要最低限」の基準は、時代によって変化しうるものだ。

現在、水道光熱費は生活扶助から拠出することになっている。インターネット等の通信費も同様だ。ただ、このようなインフラ化が進んだときに、何かしらの対策(例えば安価なWi-Fi貸し出しサービスなど)がないと、被保護者はますます時代に取り残されてししまう。それとも「生活保護受給者がネットを見るなんて、贅沢だ!」という意見が多いのだろうか。

やはり生活保護に対するイメージの悪さが根本問題として横たわっているような気がしてならない。

総理大臣に「お疲れ様でした」という気持ち

菅総理が、次期総裁選に出馬しないというニュースから、報道は政局で持ち切りである。引用したブログほど嫌悪感を抱いているわけではないのだが、SNSを見て気になるのが、こういった「総理退陣」のニュースを引用RTして「お疲れ様でした」とコメントしたり、総理のTwitterアカウントに「お疲れ様でした」とリプライを送っている人である。

そもそも、一般市民が政治家に対して「お疲れ様でした」ということは、10年前にはなかったように思う。このような風潮が出てきた(又は目立ってきた)のは、SNSという一人ひとりが意見を発信することが出来るインフラが整ったことが発端だろう。

さて、私は政治家に対して「お疲れ様でした」と言っている人を見ると、少し違和感を覚える。彼らはどういう気持ちで、「お疲れ様でした」と言っているのだろうか。

一般的に、他人に「お疲れ様でした」というときは、まず相手の「お疲れ度合い」を把握することが必要になる。その把握のためには、お互いがある程度既知の関係にいる必要があるだろう。

私が抱いている違和感は、

①   知らない人から「お疲れ様でした」と言われる違和感
②   「お疲れ度合い」を把握しないまま「お疲れ様でした」と言う違和感

の2つである。

おそらくこれは、「お疲れ様でした」と言っている一般市民のことを、政治家側は知らないということから起因する。

つまり、政治家に対して「お疲れ様でした」と発言したところで、政治家は「で、誰?」という話になってしまう(返信がある可能性もあるが)。
だから「お疲れ様でした」と発言した人にとっては、政治家本人に対してコミュニケーションが成立してしまっては逆に困る。少なくとも、返信が来たら驚くだろう。

こう考えていくと、政治家に対して「お疲れ様でした」と言うことは、その政治家に対して向けられた言葉ではなく、その発言を見ている周りの人に向けた言葉だということが分かる。

おそらく、彼ら/彼女らが「お疲れ様でした」という理由は、単に労をねぎらっているのではなく、「私はあなたの“お疲れ度合い“を把握してますよ」とか「(政治に無関心な人たちとは違って)私はちゃんと理解していますよ」という周りへのアピールや差異化なのだと思う。

別に批判をしたいというわけではないのだが、「なぜ違和感を覚えてしまうのか」と気になったのでメモしてみた。