かつげんの拠り所

1992年生のしがない福祉系地方公務員のブログ

もう一度人生を歩めるとして、この人生を選ぶか

 なんとなく人生論的なものを書きたくなったので書いてみる。
 タイトルで、言いたいことはすべて言えている気がするが、以下、要点と補足

要点

・人生は選択の積み重ね。
・したくない選択や「『選ばなかった』という選択」をすることもある。
・自発的でない選択でも、他者からは「あなたの人生」に見える。

主体的選択に期待しない

 私は「人生は選択の積み重ね」だと思っている。

 日々私たちは選ぶことをしている。食べ物もTV番組も仕事も、重要なものから雑多なものまで、全てにおいて選んでいる。「機会損失」という言葉は、選んでいないということすらも、選択の射程に入れていることを示している。

 そうはいっても、すべての選択について、私たちは主体的に選んでいるわけではない。「『選ばなかった』という選択」もあれば、「選びたくないものを選ばされる」こともある。
 主体的に選べることの方が、この人生においては少ないのかもしれない。

 こういった人生における主体性のなさの問題に対しては、次のような解決策を提示されることが多い。

 「自発的な選択を増やそう!」
 「もし不本意な選択であっても、その意味を前向きに考えて受け入れよう!」

 しかし、これはあまりにもミクロな視点なのではないかと思う。

 簡単に前向きに考えられたら、楽なことはない。
 第一、嫌なものは嫌である。

人生の責任を引き受けること

 では、どう考えているか。

 私はこの問題に対して、「未来から考えること」が重要だと思っている。

 私は、他でもない私の人生を生きている。
 その人生を構築している選択が、主体的であろうとなかろうと、自分の人生であることには変わりない。
 死ぬ直前に「この人生は、私の人生ではないのだ!」と叫んだどころで、今までの選択を取り消すことはできない。死んだ瞬間に、意識は消え、私の人生は終わる。

 やがて来たる死から顧みたとき、果たして、目の前にある選択は、将来の自分も納得できる選択なのか。

 これは決して、主体的な選択を推奨しているわけではない。
 主体的であろうとなかろうと、将来の自分が納得するかどうかが重要なのだ。「人生の責任を引き受ける」と言い換えても良い。

 ニーチェには「永劫回帰」という思想がある。簡単に言えば「人生はループする」というもので、ニーチェ本人があまり語っていないために、具体的な思想の内容は判明しない。

 しかし、私なりに「永劫回帰」を言い換えるなら、次のようになる。

 「もう一度人生を歩めるとして、この人生を選ぶか」

 主体的であろうとなかろうと、自分の人生には変わりない。
 自分の人生に納得し、その責任を引き受け、もう一度「この私の人生」を歩む覚悟はあるか。

 それがニーチェの言いたかったことではないだろうか。