かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

「この係の仕事で大切なことってなんですか?」と後輩から聞かれた話

 先日、前の職場の歓送迎会に参加した。

 無難に挨拶をして、これまでお世話になった方へのお酌もして、楽しく飲むことができた。
 と思ったのもつかの間、今年入庁したばかりの後輩からこんな質問が飛び出た。

 「この係の仕事で大切なことってなんですか?」

 この質問が飛んだとき、「おー、先輩になるってこういうことなのか。。。」とたじろぐとともに、議会における質問の事前通告制度の意味がよくわかった。
 こんな質問に対して、とっさに良い回答など出てくるはずがない。

 本当は、「こんな記事があるよ」なんて言って、以下の記事を勧めたかったが、それをすることもできず。

 そして、とっさに次のような話をした。

技術と思想

 まず「この係の仕事で大切なことってなんですか?」という質問が、この係のみを限定して質問しているのであれば、それを口頭で伝えることは難しい。
 というのも、この係においてまず大事なのは、具体的にどういう風に仕事をしていけばよいのかという技術論であって、それはOJT等によって学ぶべきものだからだ。

 この場(飲み会)ではこの係に限定されない、仕事として大事な考え方であれば話せるし、おそらくあなた(後輩)が必要としているのは、そういった類のものではないか。

理由を知ること

 私たちの仕事には、理由がある。
 これには、法規などの明文化されたものもあれば、慣習的で目に見えないものもある。

 つまり、一つ一つの仕事には「なぜその仕事をしなければならないのか」という理由付けがされている。
 その理由を把握しようとすることが、まず大事だ。

 確かに、マニュアルだけで仕事をすることは出来る。しかし、マニュアルだけで仕事をしていては、いつまで経っても「その場しのぎ」であって、応用が効かない。

 理由を把握できれば、他の場面でも応用が効く。
 それはつまり、発展性があるということであって、仕事を早く覚えるためには、これが必須である。

権限の範囲を知ること

 そして、その仕事の理由を知ることは、すなわち権限の範囲を知ることにつながる。

 自分に与えられた仕事の権限はどこまでなのか。係で行える権限はどこまでなのか。

 権限の範囲を把握していないと、本来的には相手の部署でやるべき仕事を「こちらでやりますよ」と答えてしまったり、逆にこちらの部署でやるべき仕事を「あなたの仕事でしょ」と答えてしまったりする。
 例えば、間違った権限において仕事が完遂されてしまった場合で、来年にも同じ事業がある場合、「去年もそのように扱ったから」などと言われて、間違った権限における仕事が再生産されてしまうこともある。

 「縄張り争い」とまではいかないが、役所は、権限の範囲に対して敏感である。

 トラブルを起こして、下手に自分の仕事を増やさないように、心がける必要がある。

担当者としての責任を持つこと

 最後に、理由を知り、権限の範囲を知るということは、責任を持って仕事をすることに繋がる。

 課や係において、担当の割り振りは必ず行われるだろう。
 「担当者である」ということは、その仕事の範囲においては、自分に権限が与えられているということであって、自分の裁量によって、主体的に仕事をしてよいということである。

 それだけに、何かトラブルがあったときは、まっさきに動かなければいけないし、誰よりもその担当業務に詳しくならなければならないし、説明を請われたときは答えなければならない。

 仕事内容によっては、担当が作った成果物を、事前にチェックする者が割り振られている場合もある。
 しかし、それに甘んじないこと。例え、チェックしてもらったとしても、ミスが判明したときには当然、担当者の責任になることを自覚すべきである。

終わりに

 ひととおり話したことを書き出してみた。

 振り返ってみれば、「あれも言えば良かった。これも言ってないな。」と思うこともあるのだが、ひとまず一定の回答は出来たのではないかと思う。

 ともあれ、後輩からこのような質問が出てくること自体、大変嬉しいことである。
 もう異動してしまった係ではあるが、安心して後輩に仕事を任せられる気がした。

 

ネット社会における椅子取りゲーム化

何かとポジションを取りたがる人

 何か事件があったときに、すぐに意見表明をし、その事件に対するポジションを取りたがる人が多い気がしている。まるで椅子取りゲームをやっているような、そんな様相である。

 たいていの場合、まっとうな極論のあとに逆張りが発生して、特に総括もなく次の話題に移る。
 もちろん、途中で新たな事実が判明したりすると、また椅子取りゲームが加速していく。

 しかし、こういった椅子取りゲームを傍から見ている者としては、かなりの違和感を覚える。

ゼロからの距離

 例えば、リベラル的極論を+10、保守的な極論を-10としたときに、ネット上で発表される意見は、どこに位置するのかと考えることがある。

 最近の議論を見ていて思うのは、それぞれの意見において「数直線において0の発言をしないこと=責任のある発言」と捉えられているのではないかということだ。

 つまり、

 ポジションを取る=責任のある発言=数直線における0以外の発言

 という等式があるのではないだろうか。

ゲームに参加しているのは誰か?

 私が何かニュースに対して意見を言うときは、すぐに噛み付くのではなく、情報が出揃うのを待つ。
 第1報は間違っていたり、誤解させようとする文脈になっていることがあり、それが後から判明することも多い。

 椅子取りゲームの世界では、「いち早く意見を表明する」ということが重要視されている。けれども、そもそもこのゲームに参加する意味ってあるのだろうか?
 少なくとも私は、ゲームに参加する意味がないので、「いち早く意見を表明する」ということを守らなくても良い。だから私は「待つ」ということができる。

 逆に言えば、参加する意味のある人たちとは、どういう人たちなのだろうか?

 そう考えていくと、ゲームに参加する意味のある人たちとは、「すぐに、0以外の意見を表明しなければならない人たち」ということになる。
 しかし、こういう人たちは果たして「普通」なのだろうか。具体的に言ってしまえば、ただのPV稼ぎなのではないだろうか。 

毒にも薬にもならない意見

 私たちは、このゲームに参加する必要がない。
 逆に、極論が飛び交うようなゲームに対して、抗わなければならないとすら思う。
 そしてこれに抗うためには、数直線上における0の意見、つまり「毒にも薬にもならない意見」を表明する必要があるのではないか。

 この「毒にも薬にもならない意見」は、単に「何も表明しない」だったり、「中身がない」ということを意味しない。

 「毒にも薬にもならない意見」には、振れ幅が必要である。
 つまり、「単に0」なのではなく「+3と-3を足して0」という数直線上の振れ幅である。

 「毒にも薬にもならない意見」は、派手ではないから目立たない。PVも取れないだろう。
 しかしそもそも「派手」とは、普通とは異なるから「派手」なのではないか。

 私たちは、派手ではない、日常感覚に寄り添った意見を、もう一度取り戻すべきなのではないだろうか。
 そして、そのためには「毒にも薬にもならない意見」が必要なのではないだろうか。

 なんとなく、そんなことを考えている。

 

 

「ゲーデル、エッシャー、バッハ」は訳分からないですよねという話

感想

 この前ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版を図書館から借りてきて読んだ。
 理由としては、先日投稿した土曜会での発表の準備のために読んだ。

 この本の書評などを見ると、結構評価が割れている。

 例えばスゴ本さんでは、以下のような感じで絶賛している。

  一方で、「わけが分からない」という書評も見受けられる。
 で、私の感想も後者の方。

 この本はソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙に似ている気がする。
 何か著者の結論があるわけではなく、知の世界を冒険するような、そんな本である。

 そういったある種の「知的アドベンチャーもの」として読めば、確かに面白いのかもしれない。
 ただ、当時の私には、「結局この本は、何がいいたいの?」という感想に至ってしまった。

GEBの構造

 なぜ「何がいいたいのかよく分からない」という感想に陥ってしまうのか。
 それは、一言で言えば「末広がりな本」だからではないか。

 私がこの本に期待していたのは、ゲーデルエッシャー・バッハという全く違う分野の人物を横断的に読み解き、「自己言及」と呼ばれるものの類型が示されていることだった。
 つまり、大風呂敷を広げて、伏線を回収してまとめることを期待していた。

 しかし、この本は、ゲーデルエッシャー→バッハ→オートポイエーシス→生命の謎・・・

 といった形で「自己言及」を一つのキーワードにして、どんどん大風呂敷を広げていく。
 そして広げるだけ広げて、まとめない。

 その期待とのズレに、私は戸惑ったのだと思う。

GEBのやりたいこと

 GEBが何をやりたいのかといえば、それは「自己言及」という言葉をテーマにして、知的リンクを辿っていくことなのだと思う。
 どちらかといえば、百学連環的な百科事典としての意味合いが強いと思った。

 そして、あとで知ったのだが、GEBは子供向けらしい。
 そこから考えても、結論を求める本というよりも、「知的探求は楽しいんだよ」と示す本なのだろう。

 それならそうと、最初から言ってくれればいいのに。

 

繰り返すことに対する試論 -解説-

はじめに

 ここでは、2019年04月06日の土曜会で発表した「繰り返すことに対する試論」について、スライドを交えながら解説していきます。
 スライド自体は、土曜会のHPでも後日公開されると思いますので、そちらも御覧ください。

 今回の発表は、1月の土曜会で発表されたじょいともさんのループ論を受けて、自分なりにループ論を考えたものです。

発表の中身

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 今回の目次です。
 まず、じょいともさんのループ論を検討したあと、私のループ論→その拡張→まとめといった流れになっています。

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 じょいともさんのループ論は、「ループ物語論が、ある特定の時期の作品しか論じられていないのではないか?」という疑問から生じている。
 そのため、最近のループ作品(=SF的ループ)だけではなく、それ以前の作品へ遡って、同じ「ループ論」の中に組み入れるというのが、発表の目的となっていた。

 しかし、これはすでに浅羽通明時間ループ物語論で、論じられていることである。
 ちなみに、浅羽通明は、浦島太郎まで遡って、時間ループを検討している。

 もちろん、すでに行われているからと言って、浅羽通明の論が正しいというわけではない。
 その点については、この後検討する。

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 じょいともさんのループ分類は、以上のようなもの。
 右側のスライドについては、時間の都合で省略されていたので、私も検討を省略する。

 左側について、じょいともさんは、ループものを3種類に分類している。

 しかし「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」の分類について、疑義が生じた。
 この物語は、

 文化祭の前日が楽しい→文化祭前日がループする

 という物語である。
 これは確かに「日常への耽溺」とも捉えられるが、一方で、それは「ラムちゃんの理想の獲得」とも捉えられる。

 では、「うる星やつら」という作品は、一体、どこに分類されるのだろうか。
 これを私は勝手に「ラムちゃん問題」と呼ぶことにする。

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 前述した浅羽通明の本でも、ループ作品を4つに分類している。
 しかし、ここでも「2つ以上にまたがる作品も多くなりました」と述べている。

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 じょいともさんも浅羽通明も、作品の分類をしておきながら、その分類に当てはまらないような作品の存在を示唆している。

 これは、2人の作った分類が「全く無意味だ」というつもりはないが、しかし、少なくとも100点満点ではないということである。

 このような事態になったのは、この2人の分類がいずれも、登場人物への心情(「理想」「悲劇」「耽溺」「ネガティブ」「ポジティブ」「楽しんで肯定する」)に依拠して分類してしまっているからではないか。

 つまり、何を「理想」とし、何を「ネガティブ」とするかは、結局は読者が決めることであり、その登場人物の心情は、原理的に読み取ることが出来ない。
 例えば、「1回目と2回目で、読んだときの感想が異なる」ということが生じるのは、そういった曖昧さ故の効果なのである。

 そして、そもそも「物語」というのは、その曖昧さこそが一つの要点ではなかったか。
 つまり、登場人物の心情に依拠して分類することは、そもそも「物語」という構造上不可能なのではないだろうか。

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 一通りの批判をしたところで、「それではお前はどう思うのか?」という話になってくる。
 そこで、ここからは「かつげん的ループ物語論」を展開していく。

 不可逆的ループは、「時間」自体は遡らない。しかし、その生産物や成果がリセットされるループである。
 例えば、賽の河原やシジフォスの神話などは、時間が遡っているわけではなく、頑張った成果が、他者によって台無しにされるという繰り返しを描いている。

 タイムトラベルは、時間の客観化によって生じた。今までは、生業と時間が密接になっていた(例えば「農業時間」など)ものが、交易などにより、客観化されるようになった。
 客観化された時間は、やがて数字で表すようになり、その性質から「時間が遡る」というイメージを喚起するようになった。
 その結果、タイムトラベルが生じたと言える。

 しかし、タイムトラベルには、タブーやパラドックスがついて回る。
 例えば「時間を遡って、自分の親を殺すことが出来るか?」という問題がある。殺すことができれば、そもそも自分の存在が矛盾した状態となってしまう。

 このパラドックスを解決したのが、多世界解釈である。

 多世界解釈は「ある行動をした自分としない自分で、世界線が分岐する」という理論である。詳細はwikiなどで見てほしいが、これを導入することにより、タイムパラドックスを説明できるようになった。
 つまり、「時間を遡って、自分の親を殺すことは出来る。しかし、それは違う世界線の親である」と説明することが出来る。

 この「辻褄合わせ」に私は納得しているわけではないが、その物語上で理論的説明が出来るようになった。
 その結果、これら3つの要素を組み合わせるような形で、近年の時間ループ作品が登場しているのである。

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 物語の構造は、おおよそスライド右部のような構図になっている。

 物語の世界は、登場人物たちが生きている世界であり、時間・分岐・階層の3軸で分けることが出来る。
 時間はループに、分岐は並行世界(多世界解釈)に、階層はメタフィクションに関連している。
 これらは、それぞれの軸に対応する関数(スライド左下)に分解することが出来る。

 また、物語の世界の外側には、メタ的世界が広がっている。
 東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)で取り上げていたのは、この部分である。

 物語の世界の登場人物が、そのメタ的世界へ視線を向ける(例えば、ever17のココのように)とする。その視線は、本来はメタ的世界への目線であるが、その矢印を延ばしていくと、そのさらに外側にある私たちの世界に達する。
 つまり、ゲームにおけるメタ的目線は、本来はメタ的世界への目線であるはずなのに、「私たちの世界のことを指しているのだ」と誤解をしやすい構造になっている。

 一方でゲームとは、私たちの世界から物語の世界を操作することではなかったか。ゲームとは、外から内への操作(視線)ではなかったか。

 つまりここでは、内から外と、外から内という(偽の)相互作用やコミュニケーションが働いていることになる。
 東浩紀が行ったゲーム分析のある部分では、このような議論が行われているのではないかと考えている。

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 時間的ループは、このような図で分けられる。まず登場人物が、そのループを理解していのるか、していないのか。
 次に、そのループは自分の意志又は希望で行えるものか、そうでないか。

 前述した「ラムちゃん問題」は、どのように解決されるか。

 うる星やつら2におけるラムちゃんは、

  ループについて途中から気づいている。
  ラムちゃんの願望が、ループを生んでいる。

 ことから、「手段」に割り振られることになる。
 では、「日常の耽溺」や「ループそのものを楽しんで肯定する」といった分類をどう捉えればよいのだろうか。

 「ラムちゃんは、ループ自体が目的なのではない」というのが私の回答である。

 ラムちゃんの目的はあくまで、「文化祭前日の楽しい日をずっと続けたい」という目的なのであって、その目的を達成するのであれば、例えば、毎日文化祭を開くことによっても可能なのである(それが実際に可能であるかはさておき)。

 だから、そもそも「ループ自体を目的にする」という目的があるとすれば、それはその先の大目標のための手段であると解するのが自然である。
 「ループ自体が目的でループする」という分類を許してしまえば、他と違うメタ的な分類になってしまい、レベルを合わせることができない。

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 さて、今まで「ループ物語論」を考えてきた。しかし、前述のじょいともさんの発表では、絵画やCMなど、物語以外の作品も分析している。
 そもそもよく考えてみれば、ループは物語のものだけではない。
 ここからは、簡単ではあるが、他の分野におけるループを考えていく。

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 音楽においても、「ループ」や「リフレイン」など、繰り返しの概念は多数用いられている。

 物語との異同は、音楽がポリフォニー的(ハモれる)であるが、物語はモノフォニーである。
 一方、始まりから終わりに向かうという方向性があることについては、物語と似ている。

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 絵画における繰り返しは、線対称などの幾何学的なパターンと言う意味での「マクロ的繰り返し」と、この右の絵のような「ミクロ的繰り返し」に分けることが出来る。

 この絵を見たときに、私たちはこの絵の中に入り込んで、初めて繰り返しであることを知る。
 この「入り込み」による繰り返しのことを「ミクロ的繰り返し」と呼ぶ。

 建築においても繰り返しは考えられるが、音楽や絵画と異なるのは、建築が私たちの生きている世界と同じ次元に存在するということである。
 音楽や絵画は、あくまで虚構的世界に存在しているが、建築はそうはいかない。

 そうなると、建築の分野における繰り返しとは、前述したマクロ的繰り返しとミクロ的繰り返しが同居するような、そういった繰り返しになるのではないか、と考えている。

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 さて、ここからは今回の試論に当たって、思いついたことを論点として挙げていきたいと思う。

 1つ目は「ループから脱出することは可能か?」である。

 登場人物がループから脱出したとしても、その先がまた異なるループである可能性があることを、誰が否定できるのだろうか?という問題である。
 ループが起こる世界とは、それだけで超常的な世界なのであって、ループから脱出したら普通の世界に戻るということ自体、よく考えればおかしな話ではないか。

 例えば、世にも奇妙な物語で「さっきよりもいい人」という物語がある。


 私は幼い頃にこれをみて、トラウマになったのだが、よく出来た物語だと思う。
 果たして彼は、いつになったらループから抜け出せるのだろうか。

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 「ループ」と聞くと、たいてい「円」を思い浮かべる。
 これは、始点と終点が一致していて、かつ、その間に線分があるときに、その最短距離であるのが円の形をしているからである。

 しかし、物語においては「円」である必要はない。むしろ、物語とは紆余曲折を経て、回り道をして描かれるものである。
 そういう意味で、物語におけるループは、むしろ「円」でないほうが良い。

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 ループには2つの面がある。

 一つは、「たった3分しかない!」というときの時間的・空間的制限からくる閉鎖性。
 もう一つは、選択肢の増加からくる開放性である。

 この2つの面は、おそらく1ループあたりの時間(1日を繰り返すのか、1時間を繰り返すのか)から大まかに分けることが出来るのではないか。

 そうすると、そのボーダーラインは、一体どこにあるのだろうか。
 また、この2つの面が共存するような物語はあるのだろうか。

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 私たちの社会において、ループは日常茶飯事に行われている。
 それは「PDCAサイクル」といった言葉が隆盛していることからも読み取ることが出来る。

 解決してもさらなる問題が生み出されてしまう社会において、前述した「さっきよりもいい人」のように、私たちは、このループから抜け出すことが出来るのであろうか。
 抜け出すことが出来たとして、どのようになるのだろうか。

雑記

 というわけで、土曜会にて発表した内容とその補足を書いてみた。

 発表の中で取り上げた浅羽通明さんにも来ていただいたようで、驚いた。
 お褒めの言葉(皮肉でなければ)をいただき、大変光栄だった。

 個人的には、別にループ論にこだわりがあるわけではないので、これについてさらに突き詰めて考えようとは思っていない。

 これまでもこれからも、書きたいことをただ書くだけのブログにしていきたいと考えています。
 何卒よろしくおねがいします。

かつげんが3月に読んだ本

遅くなりましたが、3月に読んだ本の紹介。

今月読んだ本

リーダーを目指す人の心得 文庫版
『必要だと思う以上に親切にしなさい。あなたが思うよりもはるかに強く、親切を受け取る側はその新設を必要としているのだから』
(2019年03月01日)

自治実務セミナー 2019年 03 月号 [雑誌]
『「自分は合意できない」という人間がでてきたとき、そこからすべてが始まる。』
(2019年03月05日)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
『私たちはいま、ひとつのパッケージでひとつの物語を受容するよりも、ひとつのプラットフォームのうえでできるだけ多くのコミュニケーションを交換し、副産物としての多様な物語を動的に消費する方を好む、そういう環境の中に生き始めている。言い換えれば、物語よりもメタ物語を、物語よりもコミュニケーションを欲望する世界に生き始めている。』
(2019年03月08日)

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版
ゲーテルは、何とかして命題を数で表すことができさえすれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた。いいかえれば、符号化の考えが彼の構成の中心にある。』

法学教室 2019年 03 月号 [雑誌]
(2019年03月12日)

はじめての日本近代画(京都で配布されていた冊子)
(2019年03月13日)

新超高速勉強法
『ただし、注意することがあります。この(エビングハウスの)忘却曲線は、無意味な言葉や数字をおぼえたときの結果に過ぎないことです。意味のある言葉や数字、あるいは印象深いこと、衝撃的なことは、この曲線のように忘れていくわけではありません。』
(2019年03月15日)

勉強の技術 すべての努力を成果に変える科学的学習の極意 (サイエンス・アイ新書)
『勉強できなかった理由を書くことそのものが苦痛になり、勉強するようになる。』
(2019年03月16日)

図説・標準 哲学史
(2019年03月21日)

完全保存版 できる人の勉強法
『勉強時間を確保するために、睡眠時間を削るといいますが、削る時間は他にもいっぱいあるはずです。』

ほか、仕事関連の本3冊。。。

 雑感

 試験勉強に向けて、勉強法の本を何冊か。ためになる部分もあるし、ならない部分もありました。
 結局は「やるかやらないか」なのだろうと思っております。

 今月は異動もあり、現段階では少しバタバタしております。
 いまのところ、帰宅後は試験勉強のみをしているので、息抜き程度に本を読んでいくことになるのだと思います。

 自分の読みたいものが読めないというのは、ストレスでもありますが、仕方ない。
 終わったときのことを考えながら、ちょっとずつ進めていきます。