かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

繰り返すことに対する試論 -解説-

はじめに

 ここでは、2019年04月06日の土曜会で発表した「繰り返すことに対する試論」について、スライドを交えながら解説していきます。
 スライド自体は、土曜会のHPでも後日公開されると思いますので、そちらも御覧ください。

 今回の発表は、1月の土曜会で発表されたじょいともさんのループ論を受けて、自分なりにループ論を考えたものです。

発表の中身

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 今回の目次です。
 まず、じょいともさんのループ論を検討したあと、私のループ論→その拡張→まとめといった流れになっています。

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 じょいともさんのループ論は、「ループ物語論が、ある特定の時期の作品しか論じられていないのではないか?」という疑問から生じている。
 そのため、最近のループ作品(=SF的ループ)だけではなく、それ以前の作品へ遡って、同じ「ループ論」の中に組み入れるというのが、発表の目的となっていた。

 しかし、これはすでに浅羽通明時間ループ物語論で、論じられていることである。
 ちなみに、浅羽通明は、浦島太郎まで遡って、時間ループを検討している。

 もちろん、すでに行われているからと言って、浅羽通明の論が正しいというわけではない。
 その点については、この後検討する。

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 じょいともさんのループ分類は、以上のようなもの。
 右側のスライドについては、時間の都合で省略されていたので、私も検討を省略する。

 左側について、じょいともさんは、ループものを3種類に分類している。

 しかし「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」の分類について、疑義が生じた。
 この物語は、

 文化祭の前日が楽しい→文化祭前日がループする

 という物語である。
 これは確かに「日常への耽溺」とも捉えられるが、一方で、それは「ラムちゃんの理想の獲得」とも捉えられる。

 では、「うる星やつら」という作品は、一体、どこに分類されるのだろうか。
 これを私は勝手に「ラムちゃん問題」と呼ぶことにする。

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 前述した浅羽通明の本でも、ループ作品を4つに分類している。
 しかし、ここでも「2つ以上にまたがる作品も多くなりました」と述べている。

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 じょいともさんも浅羽通明も、作品の分類をしておきながら、その分類に当てはまらないような作品の存在を示唆している。

 これは、2人の作った分類が「全く無意味だ」というつもりはないが、しかし、少なくとも100点満点ではないということである。

 このような事態になったのは、この2人の分類がいずれも、登場人物への心情(「理想」「悲劇」「耽溺」「ネガティブ」「ポジティブ」「楽しんで肯定する」)に依拠して分類してしまっているからではないか。

 つまり、何を「理想」とし、何を「ネガティブ」とするかは、結局は読者が決めることであり、その登場人物の心情は、原理的に読み取ることが出来ない。
 例えば、「1回目と2回目で、読んだときの感想が異なる」ということが生じるのは、そういった曖昧さ故の効果なのである。

 そして、そもそも「物語」というのは、その曖昧さこそが一つの要点ではなかったか。
 つまり、登場人物の心情に依拠して分類することは、そもそも「物語」という構造上不可能なのではないだろうか。

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 一通りの批判をしたところで、「それではお前はどう思うのか?」という話になってくる。
 そこで、ここからは「かつげん的ループ物語論」を展開していく。

 不可逆的ループは、「時間」自体は遡らない。しかし、その生産物や成果がリセットされるループである。
 例えば、賽の河原やシジフォスの神話などは、時間が遡っているわけではなく、頑張った成果が、他者によって台無しにされるという繰り返しを描いている。

 タイムトラベルは、時間の客観化によって生じた。今までは、生業と時間が密接になっていた(例えば「農業時間」など)ものが、交易などにより、客観化されるようになった。
 客観化された時間は、やがて数字で表すようになり、その性質から「時間が遡る」というイメージを喚起するようになった。
 その結果、タイムトラベルが生じたと言える。

 しかし、タイムトラベルには、タブーやパラドックスがついて回る。
 例えば「時間を遡って、自分の親を殺すことが出来るか?」という問題がある。殺すことができれば、そもそも自分の存在が矛盾した状態となってしまう。

 このパラドックスを解決したのが、多世界解釈である。

 多世界解釈は「ある行動をした自分としない自分で、世界線が分岐する」という理論である。詳細はwikiなどで見てほしいが、これを導入することにより、タイムパラドックスを説明できるようになった。
 つまり、「時間を遡って、自分の親を殺すことは出来る。しかし、それは違う世界線の親である」と説明することが出来る。

 この「辻褄合わせ」に私は納得しているわけではないが、その物語上で理論的説明が出来るようになった。
 その結果、これら3つの要素を組み合わせるような形で、近年の時間ループ作品が登場しているのである。

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 物語の構造は、おおよそスライド右部のような構図になっている。

 物語の世界は、登場人物たちが生きている世界であり、時間・分岐・階層の3軸で分けることが出来る。
 時間はループに、分岐は並行世界(多世界解釈)に、階層はメタフィクションに関連している。
 これらは、それぞれの軸に対応する関数(スライド左下)に分解することが出来る。

 また、物語の世界の外側には、メタ的世界が広がっている。
 東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)で取り上げていたのは、この部分である。

 物語の世界の登場人物が、そのメタ的世界へ視線を向ける(例えば、ever17のココのように)とする。その視線は、本来はメタ的世界への目線であるが、その矢印を延ばしていくと、そのさらに外側にある私たちの世界に達する。
 つまり、ゲームにおけるメタ的目線は、本来はメタ的世界への目線であるはずなのに、「私たちの世界のことを指しているのだ」と誤解をしやすい構造になっている。

 一方でゲームとは、私たちの世界から物語の世界を操作することではなかったか。ゲームとは、外から内への操作(視線)ではなかったか。

 つまりここでは、内から外と、外から内という(偽の)相互作用やコミュニケーションが働いていることになる。
 東浩紀が行ったゲーム分析のある部分では、このような議論が行われているのではないかと考えている。

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 時間的ループは、このような図で分けられる。まず登場人物が、そのループを理解していのるか、していないのか。
 次に、そのループは自分の意志又は希望で行えるものか、そうでないか。

 前述した「ラムちゃん問題」は、どのように解決されるか。

 うる星やつら2におけるラムちゃんは、

  ループについて途中から気づいている。
  ラムちゃんの願望が、ループを生んでいる。

 ことから、「手段」に割り振られることになる。
 では、「日常の耽溺」や「ループそのものを楽しんで肯定する」といった分類をどう捉えればよいのだろうか。

 「ラムちゃんは、ループ自体が目的なのではない」というのが私の回答である。

 ラムちゃんの目的はあくまで、「文化祭前日の楽しい日をずっと続けたい」という目的なのであって、その目的を達成するのであれば、例えば、毎日文化祭を開くことによっても可能なのである(それが実際に可能であるかはさておき)。

 だから、そもそも「ループ自体を目的にする」という目的があるとすれば、それはその先の大目標のための手段であると解するのが自然である。
 「ループ自体が目的でループする」という分類を許してしまえば、他と違うメタ的な分類になってしまい、レベルを合わせることができない。

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 さて、今まで「ループ物語論」を考えてきた。しかし、前述のじょいともさんの発表では、絵画やCMなど、物語以外の作品も分析している。
 そもそもよく考えてみれば、ループは物語のものだけではない。
 ここからは、簡単ではあるが、他の分野におけるループを考えていく。

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 音楽においても、「ループ」や「リフレイン」など、繰り返しの概念は多数用いられている。

 物語との異同は、音楽がポリフォニー的(ハモれる)であるが、物語はモノフォニーである。
 一方、始まりから終わりに向かうという方向性があることについては、物語と似ている。

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 絵画における繰り返しは、線対称などの幾何学的なパターンと言う意味での「マクロ的繰り返し」と、この右の絵のような「ミクロ的繰り返し」に分けることが出来る。

 この絵を見たときに、私たちはこの絵の中に入り込んで、初めて繰り返しであることを知る。
 この「入り込み」による繰り返しのことを「ミクロ的繰り返し」と呼ぶ。

 建築においても繰り返しは考えられるが、音楽や絵画と異なるのは、建築が私たちの生きている世界と同じ次元に存在するということである。
 音楽や絵画は、あくまで虚構的世界に存在しているが、建築はそうはいかない。

 そうなると、建築の分野における繰り返しとは、前述したマクロ的繰り返しとミクロ的繰り返しが同居するような、そういった繰り返しになるのではないか、と考えている。

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 さて、ここからは今回の試論に当たって、思いついたことを論点として挙げていきたいと思う。

 1つ目は「ループから脱出することは可能か?」である。

 登場人物がループから脱出したとしても、その先がまた異なるループである可能性があることを、誰が否定できるのだろうか?という問題である。
 ループが起こる世界とは、それだけで超常的な世界なのであって、ループから脱出したら普通の世界に戻るということ自体、よく考えればおかしな話ではないか。

 例えば、世にも奇妙な物語で「さっきよりもいい人」という物語がある。


 私は幼い頃にこれをみて、トラウマになったのだが、よく出来た物語だと思う。
 果たして彼は、いつになったらループから抜け出せるのだろうか。

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 「ループ」と聞くと、たいてい「円」を思い浮かべる。
 これは、始点と終点が一致していて、かつ、その間に線分があるときに、その最短距離であるのが円の形をしているからである。

 しかし、物語においては「円」である必要はない。むしろ、物語とは紆余曲折を経て、回り道をして描かれるものである。
 そういう意味で、物語におけるループは、むしろ「円」でないほうが良い。

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 ループには2つの面がある。

 一つは、「たった3分しかない!」というときの時間的・空間的制限からくる閉鎖性。
 もう一つは、選択肢の増加からくる開放性である。

 この2つの面は、おそらく1ループあたりの時間(1日を繰り返すのか、1時間を繰り返すのか)から大まかに分けることが出来るのではないか。

 そうすると、そのボーダーラインは、一体どこにあるのだろうか。
 また、この2つの面が共存するような物語はあるのだろうか。

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 私たちの社会において、ループは日常茶飯事に行われている。
 それは「PDCAサイクル」といった言葉が隆盛していることからも読み取ることが出来る。

 解決してもさらなる問題が生み出されてしまう社会において、前述した「さっきよりもいい人」のように、私たちは、このループから抜け出すことが出来るのであろうか。
 抜け出すことが出来たとして、どのようになるのだろうか。

雑記

 というわけで、土曜会にて発表した内容とその補足を書いてみた。

 発表の中で取り上げた浅羽通明さんにも来ていただいたようで、驚いた。
 お褒めの言葉(皮肉でなければ)をいただき、大変光栄だった。

 個人的には、別にループ論にこだわりがあるわけではないので、これについてさらに突き詰めて考えようとは思っていない。

 これまでもこれからも、書きたいことをただ書くだけのブログにしていきたいと考えています。
 何卒よろしくおねがいします。