かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

あいちトリエンナーレ2019に行ってきた

全体的な感想

 あいちトリエンナーレに行ってきた。

 全会場を一通り回ったのだが、作品そのものの凄さ(色彩とか大きさとか技術とか)ではなく、作品の意味にクローズアップした作品(取材の成果のような映像や写真)が多かった。
 ジャーナリストである津田さんが芸術監督ということもあると思うのだが、私としてはそのどちらも満たす作品を見たかったなぁと思う。

 芸術祭全体の感想としては、率直に言って、「愛知まで遠征して行くものではなかったなぁ」というところ。もちろん、すごい作品や来てよかったと思える作品はあったが、展示が中止となっているものも多く、「お金払って来たのになぁ」という全体としての消化不良感は否めなかった。

各作品の感想

 見ていて面白かった作品は、こちら。

 アマンダ・マルティネス(A03) | あいちトリエンナーレ2019
 私は、シンメトリーな作品が好きらしく、質感と相まってとても良かった。

 文谷 有佳里(A16) | あいちトリエンナーレ2019
 こちらは、建築的なパキパキした感じと、音楽的な躍動が総合されていてよかった。
 特にガラスドローイングについては、全体として図形チックなのだが、細かいところを見るとちょっと線がズレてしたりして、そこが逆に人間味が出ているような気がして、とても良かった。

 今村 洋平(A19) | あいちトリエンナーレ2019
 この作品は、個人的には今回の芸術祭の中で一番よかった。作品そのものの良さと、その裏に潜んでいる膨大な作業量のバランスと言う意味で、とても感銘を受けた。

 モニカ・メイヤー(N04) | あいちトリエンナーレ2019
 この作品は、まず、ちゃんとした形で見たかった。ただ、今回の騒動を受けて変更した表現方法が良かった。なんというか「悔しさ」を感じた。

 桝本 佳子(N05) | あいちトリエンナーレ2019
 これは作品の意味というよりも、単純に作品として「おもしろ~い」と思わせるものだと思う。
 鳥を陶器で作って、空に飛ばしてみようなど、誰も思いつかない。

 弓指 寛治(S10) | あいちトリエンナーレ2019
 今回の芸術祭は、写真や映像等を用いて、その客観性を全面に出す作品が多いように感じたが、この作品には「絵を描く意味」を感じた。
 絵を描くことによって、事実だけでなく、その弔いや愛情といった主観性を差し込んでいる作品だと思う。

在廊することの意味

 まず話したいのは、作家が在廊することの意味だ。今回ありがたいことに、弓指さんが会場にいらっしゃったので、話を聞くことが出来た。
 その詳細はまた別記事で書くとするが、普通の個展と異なり、今回の芸術祭では、作品のそばに作家がいないことがほとんどだった。
 交通費や滞在費もかかるのでしょうがないことではあるし、ツアーガイドなども行われているので、ある程度その穴を埋めようということは企画されているとは思う。ただ、やはり作家に直接話をすることができるというのは大きなことだと思う。

 このイベントに参加したときに、遠山さんもおっしゃっていたのだが、現代アートの一つの大きな利点は、「作家が生きている」ということだ。
 そういう意味で、現代アートを展示する芸術祭において、「作家に直接話をすることが出来る」というのは、非常に大きい。
 だから、そのような取り組み(例えば私なら「この作品を作りました!感想聞きたいです!」というプラカードを首からぶら下げる気がする)を、もっと進めていくべきなのではないかと思う。

お金返してよ!という話

 これが一番言いたいことなのだが、今回はあまりにも見れない作品が多い。

 世間では「表現の自由」だの「検閲」だのが論じられている。
 そういう話は確かに大事だが(公務員的には、まさかあいトレで「取消訴訟」とか「国地方係争処理委員会」なんて単語が出てくるとは思っていなかった)、そもそも同じお金を払って、交通費や滞在費もかけているのに、見られない作品がこれだけ多いとはどういうことなのか。

 表現の自由や検閲について論じる前に、まずは正常な形に復帰することに全力を尽くすべきではないか。
 この議論に携わっている関係者は、私から見ると抽象的な議論だけをして、目の前の客をおろそかにしているようにしか見えない。

 ちょうど愛知から帰るときにこのニュースが流れてきた。
 再開することは良いことだと思うが、正直「えー!損した!!!」と思ってしまった。

 でも、この議論をしている関係者は、おそらくこういう声に耳を傾けてくれない気がする。
 何のために、誰のために表現をしているのか。私にはよくわからない。

 個々の作品では、良いものもあっただけに、非常に残念な気持ちになった。

追記(2019.10.02)

 例えば「このような騒動になったことによって、日本の表現の自由の狭さが浮き彫りになった。そういう意味で、津田さんは良い芸術監督だった」というような言説は、お金を払って見に来たお客さんを、まさに軽視していると思う。

 

「歌ってみた」から「やってみた」への変遷

 「◯◯をやってみた」という動画は、動画のテーマにおいて、一番隆盛しているテーマと言ってよいだろう。

 現在は、Youtubeでの動画視聴が定番となっているが、私は元々ニコニコ動画世代である。
 思えば、ニコニコ動画時代では「歌ってみた」とか「弾いてみた」といった動画が多く、それらによってスターが生まれた。
 動画がきっかけでライブをしたり、CDデビューする者も少なくなかった。

 ニコニコ動画が流行っていた時代は、特定のスキルによる「◯◯をやってみた」という動画が多く存在していた。特定のスキルという意味では、「◯◯職人」という言葉も、スラングとしてあった。

 しかし、舞台がYoutubeに移ってからは、必ずしも特定の技能というわけではなくなってきた。

 「メントスコーラをやってみた」、「◯◯買ってみた」、「10万円課金してみた」

 特定の技能というよりは、企画力に基づいた「◯◯をやってみた」が非常に多くなったように思う。言ってみれば、バラエティ化だ。
 そしてネットのスターが目指す場所は、CDデビューではなく、イベントやTVへの出演となった。
 逆にTVタレントが、Youtubeに進出するという事態も増えてきている。

 「◯◯をやってみた」というコンテンツは、「炎上を避けて、それとなく特定の技能を披露する」という意味から「私たちが経験出来ないことを、代わりにやる」という意味に変わった。

 私は、この変遷について批判したいわけではない。
 ただ、なんとなく寂しい気もする。

モノ消費からコト消費への移行

 最近のトレンドは「コト消費」らしい。

  消費は今まで、日用品や嗜好品などの具体的な物質を対象としていた。しかし最近は、ある出来事を消費する傾向がある。
 この傾向のことを、前述の記事のように「モノ消費からコト消費へ」などと言ったりしているらしい。

 この移行の理由は、「具体的な物質が溢れすぎていて、消費者が飽きてしまった」だとか、「他の消費者との差異化を図るため」だとか言われている。

 しかし、そう単純な図式なのだろうか?
 そもそも、このような消費活動の全体は、個人の心理的な理由によって説明できるのだろうか。もっと社会的で、構造的な要因があるのではないだろうか。

流行とはなにか。

 ファッション業界では、流行は人為的に作り出されている。つまり「流行りである」と宣言することによって、消費者の購買意欲をかき立てている。
 服だけでなく、パンケーキもタピオカもチーズハットグも、私たち消費者はそのモノ自体ではなく、それに付与される「流行」という記号を購入していると言って良い。
 パンケーキもタピオカもチーズハットグも、その記号さえ手に入れてしまえば、そのもの自体は実は「不要」なのではないだろうか。

情報を乗せるモノ

 例えば、音を乗せるモノは、大まかに言って、レコード→カセット→CD→MD→ストリーミングと変化している。段々と、モノが小さくなり、必要となくなっている。ストリーミングが主流となった今では、もはやモノとしての音楽は手元にない。

 つまり、今や音楽の情報は、常に提供元にあって、そのデータを「借りる」という形で聞いているのだ。だから、「ストリーミング」というモノのない世界では、「誰がその音楽を所有しているのか」という問題が出てくる。

排泄物としてのモノ

 このように、現代においてモノは、削ぎ落とされつつある。流行も、音楽も、情報を直接やり取りできればそれに越したことはないのだというのが世界の潮流のように思う。

 そう考えると、モノは経済活動の中でどうしても出てしまう「排泄物」なのであって、なければない方が良い、必要悪の存在と言えるのではないだろうか

 そして、そうであるなら「モノ消費からコト消費へ」という移行で注目すべきは、「コト消費への移行」なのではなく、「モノ消費の消滅」なのではないか。

 

QueenとJourneyにおける原理主義への処理の比較

Queenにおける原理主義

 私は、Queenが好きだ。


 少し前に「プライド」というキムタク主演のドラマがあり、その主題歌としてQueenが流れていたことがきっかけだった。

 Queenには、フレディ・マーキュリーという絶対的なボーカリストがいた。映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、Queenのストーリーというよりもフレディのストーリーだった。それだけ彼は唯一無二の、絶対的なボーカリストだった。
 しかし、彼は1991年に亡くなる。フレディが亡くなった後のQueenは、ソロの活動はあったものの、バンドとしては活動休止をしてしまった。
 その後のQueenは、2004年にポール・ロジャースを迎えて再始動。これを2009年に解散した後、2012年からアダム・ランバートを加えて、現在活動している。

 これらのコラボは、あくまで”Queen+Paul Rodgers”や”QueenAdam Lambert”として行われており、純粋なQueen名義ではない。

 このような経緯から、Queenには「原理主義のファン」がいる。つまり「フレディのいないQueenは、Queenではない!」ということだ。上述した「コラボ」すらも、「Queenの名を儲けに使っている!」という意見が一部にある。

Journeyにおける原理主義

 さて、このような事態は、他のバンドにも見られる。

 Journeyというアメリカのバンドである。最近では、WBCで使われたこともあって"Separate Ways"の方が有名かもしれない。

 Journeyというバンドにも、絶対的なボーカリストがいた。それは、前述した動画にも出ているSteve Perryである。
 ペリーの圧倒的な歌唱力は、ヒットの要因であり、Journeyにとって必須であった。
 しかし、その後体調を理由に、ペリーは脱退。Journeyはその後も活動していたが、これといったヒットもなく、「過去のバンド」として取り扱われていた。

Queenという両輪

 さて、このQueen。実は「公認コピーバンド」がある。
 Queen Extravaganzaというバンドで、Queenのドラムであるロジャー・テイラーが企画したようだ。
「コピー」と言っても、パロディではない本格的なバンドであり、特にボーカルのMarc Martelは、映画「ボヘミアンラプソディー」でフレディ歌唱シーンの声を担当するほど、そっくりである。

 もちろん、完成度の高いコピーバンドが出てきたからといって、在りし日のQueenに代わるはずがない。そもそも「フレディの代わり」など誰にも出来やしないのだから。
 しかし、このQueen Extravaganzaは、在りし日のQueenに出来るだけ近付こうとしているバンドと言える。そして、同じく在りし日のQueenを求めるファン=原理主義的なファンへのガス抜きを狙っているとも思える。

 つまりQueenは、"Queen+○○"という現在進行系で変わりゆく面と、"Queen Extravaganza"という在りし日のQueenを再現しようとする面が両輪となって駆動しているプロジェクトといえる。

Journeyというプロジェクト

 一方Journeyは、これとは異なる方法を原理主義に対して取っている。

 Journeyは、ペリーの脱退後も活動していたものの、ペリーの時代と比べれば人気は衰えていた。そこでJourneyは、Arnel Pinedaというボーカリストをバンドへ向かい入れる。

 きっかけはこのYoutube。ギターのニールがこの動画を偶然見て、「あまりにペリーに似ている」ということで連絡をとったと言われている。
 そして連絡の結果、アーネルはJourneyに加入。つまり、Queenとは異なり、自分のバンド内で「在りし日のJourney」を取り込んでいく方向へ進んだ。

まとめ

 特に何が言いたいというわけではないが、往年の姿を外に作ろうとしたQueenと、内に取り込んだJourneyは良い比較の対象となると思う。
 この流れで言えば、XJAPANは、ホログラムによってHIDEを「蘇らせようとした」と言えるかもしれない。

 どのバンドにしろ、「昔はよかった、今は、、、」という原理主義は存在する。
 特に、単にバンド自体に問題があって、揃って解散するのではなく、バンドを代表するような存在が欠けて、やむを得ず休止等をした場合は、その対処が難しい。

 今後類型化出来たら面白いなと思っている。

追記(20190626)

 予言のようなことになってしまったので、共有いたします。
 自分でもびっくり。。。

 

 

新人を話題の中心にする

 職場に新人が配属された。

 どうやら仕事について悩んでいるようだったので、サイゼリヤに連れていって、相談を受けた。

 相談の内容はさておき、私はその話し方が気になった。
 歓送迎会などの飲み会のときとは、まるで話し方が違う。かなり饒舌なのだ。

 聞くと、大人数の飲み会は苦手らしい。
 周りがすべて「先輩」であるわけだから、飲み会の場で新人が堂々と自分の話をするということは、確かに難しい。
 実際その後に、他の若手職員も合流して、「サイゼリヤ会」は合計4人になったのだが、その新人は全く喋らずに、相づちを打つだけになってしまった。

 このような状態では、新人の話を聞くことなど、とても出来ない。

 家族の呼び名について、面白い話を読んだことがある。
 家族に子供が生まれると、その子供を中心にして、家族の関係性が変わるという話だ。

 夫婦に子供が生まれると、「夫」は「父」となり、「妻」は「母」となる。
 2人目が生まれると、「息子・娘」は「長男・長女」になる。

 つまり、家族の役割は、直近に生まれた子供=「新人」を中心にして作り変えられる。それは、単に呼び名が変わるだけではない。その関係性や役割も変わっていくのだ。

 翻って職場の状況を考えたとき、果たしてその環境は、新人を中心にして作り変えられているだろうか。
 教育係だけでなく、係員全員が新人に目を配り、話を振り、仕事をしやすい環境にしているだろうか。

 新人に、その能力を存分に発揮してもらうためにも、私たちは最大限の努力をする必要がある。