かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

「車輪の再発明」に意味はないのか

「自分の頭で考えよう」というフレーズが何年か前に流行った記憶がある。
私もそのフレーズには共感した。様々な情報が行き交う中で、情報をうのみにせず、自分の頭で考えよう。そういう意味合いだった。 

しかし、先日こんなまとめが話題になっていた。

自分の頭で考えた結果、偏った思想になる。自分の都合の良い情報しか集めなくなる。
このまとめで言いたいことはつまり、「『自分の頭』って信頼できないよね。」ということなのだろう。

確かに、「巨人の肩の上に立つ」ことは効率的だし、より確実のような気もする。今の時代を見れば、必要な態度かもしれない。
しかし、それは言ってみれば「巨人の手段化」ではないだろうか。
自分で考えることの楽しさとか、喜びみたいなものがそぎ落とされているのではないか。

例えば、本を読んでいて、著名な人と考えていることと私の考えていることが一緒だったら、私はうれしい。
それは「車輪の再発明」であって、新規性なんてまるでないけど、考えるということにおいて大事なことなのではないか。

もちろん、情報が飛び交っているこの時代に、自分の頭だけで考えるのは危険な行為かもしれない。
しかし、だからといって「自分の頭で考えるな」ということとは違う。

たぶんこれは、「自分の頭で考える」vs「巨人の肩の上に立つ」という二項対立的な話ではない。
どちらも両立しうるし、両立しなければいけないような話なのだろう。

ゆとり世代における教育では「調べ学習」とか「総合の時間」というのがあったけれど、こう考えていくと、結構、的を得た教育だったのかもしれない、と今になって思う。

【現役地方公務員が語る!】結局、地方公務員は安定してるの? をアップしたのと、その補足。

www.youtube.com

「地方公務員の安定論争」について動画をYoutubeにアップしました。ぜひご覧いただければと思います。

煽る人は、地方公務員法すら触れていない。

YoutubeTwitterで、「地方公務員はこれから不安定になります!」と主張されている方は、なぜか地方公務員法について触れていない。
それどころか、某有名な方は

「リストラするとなると法律や条例の改正が必要になります。しかし、実務として条文を考えるのは公務員なので、改正の可能性は低いと思われます。」

などとご丁寧に(そして失礼に)「補足」していたりする。

さて、実際の地方公務員法はどうなっているかというと、第28条第1項第4号には、こう書いている。

(降任、免職、休職等)
第二十八条 職員が、次の各号に掲げる場合のいずれかに該当するときは、その意に反して、これを降任し、又は免職することができる。
一 人事評価又は勤務の状況を示す事実に照らして、勤務実績がよくない場合
二 心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合
三 前二号に規定する場合のほか、その職に必要な適格性を欠く場合
四 職制若しくは定数の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合

この第4号は、一般的には整理解雇(リストラ)の規定だと考えられている。
総務省の「令和元年度における地方公務員の懲戒処分等の状況(平成31年4月1日~令和2年3月31日)」を見ると、この第4号を適用して免職された人は、43人いる。

そうすると、そもそも地方公務員はこれまでもクビに出来たし、実際にしてきたということが言える。

不安定論者にとって、この条文は格好の材料だ。
「地方公務員は、実はリストラできます!」と主張できるわけだから。

しかし、なぜか引用されない。

たぶんそれは、彼らがそもそも地方公務員法についてすら調べておらず、ただ都合のいい情報だけを並べているからだろう。

動画をいくつか見ていると、不安定論者の主張の骨格は、驚くほど似通っている。

人口減少、財政問題、AIの登場・・・
どこかに「元ネタ」があるのではないか?と疑うぐらいに。

高校生や大学生が「どういう仕事に就こうか」と考えているときは、いろんな不安に駆られる。
私は独学で受験していて、自治体受験の全体像はもちろん、数的処理などの解法もYoutubeで勉強していた。
Youtubeは、今や受験生にとって立派な情報源だ。

そんなときに、私があのような動画を見たら、きっと混乱するだろう。
「地方公務員は不安定だ」という新奇性のある情報を、いい大人が、もっともらしい言葉ともっともらしい根拠で主張するのだから。

地方公務員は安定しているのか?

で、「地方公務員は安定しているのか?」という話だが、未来のことは誰にもわからない。
だからこそ、ああいう動画が作れるし、意見論評もできる(そして、それをするのは自由)。

私としては、分からないからこそ、未来の予測ではなく、現在の状況を根拠にして話していくしかない。
私は「安定」というのを、「クビにならない安定」と「収入の安定」の2つに分けた。

クビにならない安定という意味で、動画内で上げた根拠は4つ

① 企業は倒産する可能性が高く、自治体はなくなるリスクが低い。
② 地方公務員は、クビになる理由が法定されている(身分が保障されている)
③ そもそも日本は、正社員をクビにするのが難しい(整理解雇の4要件など)
④ AIに仕事が奪われるのは、ジョブ型雇用の人(詳しくは、動画で説明)

収入が安定しているという意味で、動画内で上げた根拠は2つ

① 情勢適応の原則(地方公務員法
② 生活給の原則(給与は、生計費を考慮しなければならない)

地方公務員の給与は、インデックス投資に似ている気がする

動画内ではカットしたが、こちらでは補足的に説明したい。
情勢適応の原則については「個別株投資」と「インデックス投資」の違いに似ている、と私は思っている。

民間企業は、日本全体の景気というよりも、その会社自体の業績に左右される(もちろん、景気と関係ないわけではない)。
だから、日本全体の景気は良くても、ある企業の業績は低く、給与も下がるということはありうる。
当然反対に、日本全体の景気は悪くても、ある企業の業績は良いということもある。

一方、地方公務員の給与は、民間企業の「平均」との差(正確に言えば「ラスパイレス方式」)を元に決められている。つまり、地方公務員の給与は、ある一つの企業に依存しているのではなく、民間企業の給与全体を均して決めている。
だから地方公務員の給与は、ある一つの企業の給与よりも、アップダウンが少ないはずである。だから安定していると考えている。

安定だろうが不安定だろうが、どっちでもいい。だけど、、、

 繰り返しになるが、未来のことは誰も分からない。
だから、将来的に安定してようが、不安定になろうが、考えたってしょうがない。そんなこと考えているなら、地方公務員法でも勉強してたほうが全然マシ。

だけど、Youtubeを見ているとあまりにもひどい。
地方公務員側も、積極的に情報発信をすべきで、違うものは違うと主張しないと、どんどん世の中と乖離してしまうのではないか。

そういう気持ちで、Youtubeをやっています。

面倒くさい人

職場に「面倒くさい人」がいる。
不満があると、自分の意見を大声で主張して、周りに嫌な思いをさせる。そんな人だ。

周りの人は「また始まったよ...」なんて思いながら、できるだけ関わらないように目をそらす。
上司も「面倒くさいなー」と思いつつ、反発を恐れて、強く注意できない。

そして結果的には「面倒くさい人」の意見が通る。

こういう光景を見ていると、私も大声を出したり、いろんな関係部署に電話して迷惑をかけまくったほうが、周りが気を使ってくれて、自分の意見も通るし、逆にいいのではないかという気がしてくる。

「炎上商法」というのは、まさにそういう「面倒くさい人」が行っていることかもしれない。

周りとの協調性がない。倫理観もない。むしろ炎上上等といった人たち。
炎上すれば注目されるし、PVも稼げる。オンラインサロンでファンを囲って、定期収入もできる。

お金さえ手に入れば、いかに悪名高くとも、自由な生活が出来る。
だけど、その傍らに犠牲になった人がいる。嫌な気持ちになった人がいる。

「面倒くさい人」を羨みながら、私は恐らく「面倒くさい人」にはなれない。
それは、たぶん正しいことなのだと思う。

【条例の作り方講座】第5回 ~改め文の構造とルール~ をアップしました!

「条例の作り方講座」も、あと2回ぐらいで終わりかなと思っています。
次のシリーズも考えています。応援の程、なにとぞよろしくお願いします。

「分けること」と「分かること」

目の前にピザがあって、それを8等分して、それをまた8等分して….と分けていき、分子や原子レベルまで分けていったとしたら、それはいったい「何」なのだろう。
そもそも「分けられない限界」ってあるんだろうか。 

子供のころに、そんなことを考えたことがある。

ピザを永遠に分けていったとき、おそらくどこかの時点で、それは「ピザ」ではなくなる。
生地となり、小麦粉となり、グルテンとなり、分子となり、原子となり・・・

このような認識(そしてその限界)は、その物質を名づけているからこそ出来る。

しかし例えば、名付けられないような物質について、私たちは認識できるのだろうか。
そもそもこのような「分割して命名する」という形式は、いつまで続けていけばいいんだろう。
終わりはあるんだろうか。

もっと簡単な例を思いついた。

立体は面で構成されていて、面は線で構成されていて、線は点で構成されている。
じゃあ逆に、点を集めれば線はできるんだろうか。というか、どんなものにも「長さ」があるという意味で、点って存在するんだろうか。

私たちは、分解するのが好きだ。
分解した後に、それぞれの部品に名前を付け、機能を見つけることで、それを「分かった」と考える。
出てきた部品や機能を抽象化させて、他のものに適用する。

そういった営みによって、私たちは進歩してきた。 

だけど、このような「分かる」は、キリがない。だから、分けても分けても「分かる」ことはない。

「私」と「あなた」で考えることの限界 - かつげんの拠り所 でも書いたように、「私」と「あなた」という区別された枠組みで考えたところで、結局はそれを縫合する何かが必要になる。

「分ける」ことは、「分かる」に役立つ。
だが、これから重要になってくるのは、それとは反対の行為だろう。

しかし例えそうだとして、私たちはいかにして、「分けない分かり方」が出来るのだろう。
これはあくまで想像上の分かり方なのだろうか。それとも、実際に私たちが経験していることなのだろうか。
そもそも「分けない分かり方」のそれ自体は、どのようにして「分かる」のだろう

考えれば考えるほど、ドツボにはまっている気がする。
今日はここらへんでやめておこう。