かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

「お願い」を聞いてもらうには

「お願い」を聞いてもらうには、大きな意味で「信頼」が必要だ。
その人がどういう人格なのか。これまでどういうことをやってきたのか。その「お願い」の中身に正当性があるか。
お願いの正当性だけはなく、これまでの経緯やお願いしている人の人格、そのお願いによって影響を受ける人、今後の見通しなど様々なことに頭を巡らせて、「お願い」が受け入れられるかが決まる。

だから、従わない人間に対して、ただ単に「従ってください」とお願いしても、説得力がなければ「どうして?」とか「お前の言うことは信用しない」と言われて、聞く耳を持ってくれないだろう。

お願いするならまだしも、「お願いに従う人間」と「お願いに従わない人間」に分けて「従う人間は素晴らしい、従わない人間はダメだ」と評価するだけでは何の意味もない。
というか、それはお願いをする立場の人間がやることではない。そのような評価が出来るのであれば、そもそもお願いする必要がないからだ。

必要なのは「お願いに従わない人間」に対して、従ってもらうように誘導することであって、そのためにはまず信頼を得ることが重要だ。信頼がないからといって、それを埋めるために強制力を持って従わせようとするのは、まさに「パワハラ」である。

そもそも「お願いに従わない人間」と言っても、人それぞれである。あえて従わない人もいれば、どうしても従えない人もいる。
そういった事情に立ち入らず、ただ抽象的にお願いを繰り返したところで、聞くはずがない。
ましてや、そのお願いを自分自身が守っていなかったり、「自分だけは特別」という態度を見せている人の「お願い」など、誰が聞くだろうか。 

こういったコミュニケーションの作法は、社会生活を営んでいれば、なんとなく分かりそうな気もするが、「偉い人にはそれが分からんのです」ということなのだろう。

日々のニュースやSNSを見ても、「コミュニケーション自体が劣化しているのではないか」と、老人の考えるようなことが、ふと頭に浮かんでしまう。

コロナ禍は、実にいろんな問題をあぶり出した。
しかし、あぶり出された問題は、結局すぐに忘れ去られて、そのうち同じ問題を繰り返すのだろう。 

あんまり人間は成長しない。
なんだかむなしい気分だ。

 

PCR検査を受けて考えたこと

仕事から帰るときに、ちょうど新型コロナのモニタリング調査をしていた。

仕事柄、病院によく行くし、ずっと検査したかったのだが自費を払うのもなーと思っていたので、いい経験だと思い、調査キットを貰って、家でやってみた。

やること自体は簡単で、円柱状のプラスチックのケースに、唾液を入れるだけ。

どちらかというと、アプリの登録とか、梱包作業とかの方が面倒だった。
「検体」であるからしょうがないことだが、もうちょっとなんとかならんのかという気持ちにはなった。

唾液を取ったりしているときは、ワクワクするというか、特別感みたいなものがあったし、検体を送って結果を待っている間は、緊張する部分もあった。
これでもし陽性になると、仕事に穴が開くわけで、「興味本位でやらなきゃよかったなー」という気持ちにもなった。

結果は2日後に来て、陰性。とりあえずホッとした。
と同時に「外出したいなー」と思うようになった(当然外出していないが)。

これだけ巷でPCRPCR!と連呼されると、やはり検査自体が神格化されているような気持ちになる。
その「特別な検査」を受けて、しかも「陰性」という結果が出たというだけで、どことなく「選ばれし者」みたいな感覚が出てきてしまったのだろう。

あれだけテレビで、PCR検査について報道されていて、私自身「その時点で陰性だっただけ」というのは頭では分かっているのだが、「PCR検査で陰性だった」という言葉の響きが、何かを許可しているような感覚になった。

「私ですらこれなんだから」と言うのもどうかと思うが、しかし「PCR検査で一度陰性だったから、気が緩んでいる」という人は意外といるんじゃないかと思う。

みんな、外出するきっかけや言い訳がほしいのだ。

corona.go.jp

セラピーとしての整体

先日マッサージに行った。

前の部署のときは、頻繁に行っていたのだが、異動してからは久しく行ってなかった。前部署はストレス過多だったのだろう。
実は、整体動画もよく見ていて、特にカイロプラクティック的な、骨をボキボキ鳴らす系の動画が好きである。

こういった整体動画でよく言及されるのは、「歪み」である。

「ここが歪んでますね」とか「左右のバランスが悪いですね」などと言われる。そして、それを「矯正する」などといって、整体が始まる。
実際カイロを受けたことがあるが、「ここが歪んでますね」と言いながら触られる場所は確かに痛いし、施術された後は、痛みがなくなる。
本当にそれで「歪み」がなくなっているのかはよく分からないが、とにかくすっきりするのは確かだ。

しかし、そもそも「歪み」というのは何だろうか。

最初は、左右のバランスのことだと考えていた。
「身体は左右対称となっているべきだ」という価値観があって、それを満たしていないことを「歪み」と呼んでいるものだと思っていた。

例えば整体動画の中でも、右足と左足の長さを比べて、著しく差があると、「歪み」と判断される。
しかし、臓器の例を考えれば分かるように、人間の身体は左右対称ではない。
そうすると整体で矯正している「歪み」も、体の左右のバランスから生じるものではない。

それでは、もっと抽象度を高めて、歪みとは「適切な位置にないこと」という定義になるかもしれない。

しかし、それでもやはり「身体にとって『適切な位置』とは何か?」という問題が残る。
人それぞれ、骨格も筋肉も臓器も異なるのに「身体にとって適切な位置」などあり得るのだろうか。
例えば、五体満足ではない人や臓器を摘出した人にとって、「適切な位置」とは何なのだろうか。 

こう考えていくと、そもそも「適切な位置」という考え方自体に「人間が目指すべき姿」という人為的な価値観が紛れているように思う。

「人間には身体的に目指すべき『適切な位置』があって、それは整体によって達成される」というのが整体の考え方だ。そして、整体によって導かれた「適切な位置」は、不摂生な生活を過ごしていると、すぐに「歪み」が出てしまう。

どこか宗教的な修行と似ている。

つまり整体やマッサージは、曖昧な「身体の適切な位置」を目指して、医学的な身体状況の改善を標榜しつつも、実際に施術したあとに「適切な位置」になっているかどうかは分からない。
むしろ、それは終わりなき追求であり、どこかブラセボ的に「治った“感じ”」を得るための施術である。

その意味で「整体セラピー」と言ってもよい。

だから「波動整体」とか「触れただけで治る神業」といった、精神世界的な考え方と繋がる整体が出てくるし、カイロプラクティック的な「ボキッ」という施術も、マジックで指を鳴らすのと同じで「キッカケ」のために必要なのだ。

しかし「人間に『歪み』があって何が悪いのか」と思う。

ちょっとの歪みぐらい許容する整体のほうが、実はいいのではないか。
「まぁ歪んでるけど、大したことないですよ」と、客を追い返す整体。

「そんな整体、あり得るのか?」と言われれば難しいかもしれないが、そういう店の方が信頼できる気がするのは私だけだろうか。

 

【元条例作成担当者が教える!】法律・条例の読み方講座 第2回 ―条例をシンプルに読む方法―

www.youtube.com

というわけで、第2回まで来ました。

今回は「条例をシンプルに読む方法」ということで、複雑な構造を持つ法令文を、どのように解きほぐして読んでいくかという話をしています。

法制執務からみた主語の抜き出し方」は、有用なわりに、意外と話されていないような気がするので、結構いいこと言ってるんじゃないか?と自分で思っています。

ちなみに最初は「条文をシンプルに読む方法」という題名でしたが、いつのまにか「条例」になっていました。
カンペもなぜか「条例」と書いていて、動画を見返したら、綺麗にカンペ通りに話してしまっていたので、取り返しが付きませんでした。

「『条例をシンプルに読む方法』なのに、出てくる例題がすべて地方自治法なのはおかしい」という有識者からのツッコミが来るのをお待ちしています。

すいませんでした。

「この地域に貢献したい」というが「地域」とは一体どこにあるのか

地方公務員のよくある志望動機として、「この地域に貢献したい」というものがある。
この核となる動機に、ボランティアとか高校時代の体験など、志望者の独自性を足していくことで、動機の独自性を形作っていく。
私も、そのように書いた記憶がある。

しかし「あなたは、自分のやっている仕事が地域に貢献していると実感していますか?」と聞かれると、なかなか難しい。

私たちは「全体の奉仕者」として「公共の利益」のために働いている。ただそれは、「そういう形式」を取っているだけで、実際のモノや形として「公共の利益」があるかというと、それはない。
「全体の奉仕者」とか「公共の利益」という単語は、あくまで訓示的なもの、目標として機能している言葉だ。

「この地域に貢献したい」と志望動機に書くのが、おかしいと言いたいわけではない。

しかし、実際に仕事をしていて「俺はいま、地域に貢献した!」という実感が湧くことは、あまりないということだ。

じゃあ何があるかと言えば「議案を作って議会に提出したときの達成感」とか「生活保護を受けている人の就労先が決まってうれしい」とか「準備したイベントが無事終わって良かった」とか、そういう実感だ。

私にとっては、こういう感覚こそ、仕事のやりがいである。

そもそも「この地域に貢献したい」とか「市民のために働きたい」というとき、その「地域」とか「市民」は、いったいどこにあって、誰なのだろうか。
「市民」という言葉でいうと、私たちが仕事で対峙するのは「窓口に来た田中さん」とか「町内会長の鈴木さん」であって、抽象的な市民と対峙しているわけではない。

「地域」という言葉は、もっと難しい。

というのも「窓口に来た田中さん」は、抽象度を高めれば「市民の一人」という属性の中に存在するが、「地域」という属性の中にはない。
「地域」という言葉は、関係を抽象化した概念である。つまり、市民一人だけでは成立しないし、そもそも人だけではなく、土地や歴史との関係も「地域」に含まれるだろう。

こうなってくると、「この地域に貢献したい」という言葉が、具体的に何を指すのかが分からなくなる。

仕事のやりがいを抽象概念に頼らない

先述したように、私にとっての仕事のやりがいは、仕事が終わったときの達成感とか、自分が支援したことによって、誰かが助かった瞬間にある。
私がやっている仕事は、確かに「市民」や「地域」への貢献なのかもしれない。しかし、私はそういう言葉を使いたくない。

「市民」とか「地域」という言葉は、便利な言葉だ。

しかしその便利さは、これらの言葉の中身が、空虚だからだ。何か言っているようで、実質的には何も言っていないからである。
そして空虚であるということは、「私が思う市民」とか「俺が思う地域」を、簡単に代入することが出来るということでもある。

こういう言葉に頼ってはいけない。

こういう言葉に頼る人は、やがて暴走する。
「私が思う市民」を勝手に代入して、そぐわない人間を「お前は市民じゃない」と切り捨てる。Twitterやヤフコメを見れば、そういう人が多くいることが分かる。

「地域のため」「市民のため」という抽象的なやりがいは、ある種の「革命思想」である。
階段を何段も飛ばして、いきなりヘリコプターで高みに着いてしまうようなことは、ほとんど出来ない。
現実は、往々にして、牛のようにゆっくり進むのだ。

目の前の仕事、目の前の人をやりがいにして仕事をする。
もしかしたら、その積み重ねが、市民や地域のためになっているのかもしれない。

私たちはそれを「やりがい」ではなく、「願い」として捉えなければいけない。