かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

罪悪感のない積読は、積読ではない

積読という言葉は、5年ぐらい前から出てきたような気がする。今や、

という本が出るぐらいだ(中身は必ずしも「積読全肯定」というわけではないと思うが)。

 

さて、私はこういった「積読肯定論」に対して、違和感を持っている。

そもそも本は「読むもの」である。読まなければ意味がない。”買う”とか”積む”という行為は、本を読むという目的のために、二次的に必要なだけだ。「とりあえず本を買っておけばいい」とか「読まなくても積んでるだけで意味がある」などと、二次的な行為に意味を見出すこと自体、なにか倒錯した意図を感じる。

例えば「買うだけでもいい」とか「積むだけでもいい」という積読肯定論者は、図書館の存在や本の貸し借りについてどう考えるのか。買いもせず、積みもせず、ただ借りて読むだけの行為は、積読の本筋から言うと「積んではいない」のだから、否定されてしまうのではないだろうか。しかし、積読を肯定する人は、図書館の存在も肯定する人が多い。私には理解が出来ない。

積読に価値を見出す人は、「読書家」ではなく「蒐集家」なのだと思う。「ある分野の本を余すことなく蒐集したい」とか「蒐集した本を眺めたい」とか「家に本がいっぱいあるのがカッコいい」という欲求から、本を買い、積んでいるのではないか。著者に対しても「買ったんだから、どう扱ったって所有者の勝手でしょ?」というわけである。

もちろん、蒐集家目線で本を買うことは否定しない。それならそれで良いと思う。先日書いた角川武蔵野ミュージアムに行ってきた - かつげんの拠り所の陳列方法に対する違和感も、蒐集家の陳列であって、読書家のそれではないことから起因するのだろう。

しかし、本をいくら買っても、いくら積んでも、本を読んだことにはならない。むしろ、この「本を積んでも、本を読んだことにはならない」という罪悪感こそが「積読」という言葉のキッカケではなかったか。それが今や「本を積むことも一つの読書だ」となってしまっている。知識欲が所有欲に取って代わられている。

このような積読肯定論は、電子書籍サブスクリプションの隆盛に対する反発という面があると思っている。出版業界も売上が落ちているから、とにかく本を買ってくれというわけだ。

しかし、”蔵書”といえば格好はつくが、その本はどこに積むのか?引っ越しはどうするのか?残念ながら私は、本棚をバカスカ買うだけの財力や、蔵書できるだけの空間を持っていない。

結局、電子書籍サブスクリプションの隆盛は、こういった生活上の必要から生じているのであって、「蔵書という響きがいいじゃないか」とか「この紙の匂いがいいのだ」と言わんばかりに、ロマンだけを主張されても困る。

はっきり言えば、たかが読書である。
積読とか紙の本が...などと、本を神格化すればするほど、読書という行為は高級化して、市民は本を読まなくなる。しかし、それでも「積んであれば十分だ」というのであれば、もはやそれでいいのかもしれない。

 

角川武蔵野ミュージアムに行ってきた

角川武蔵野ミュージアムに行ってきた。

f:id:katsugen0331:20210919173919j:plain建物は非常によかった。遠くから見える異様な建物は目を引いたし、近くで見ると意外と大きい。

まず、一番注目されているのは「本棚劇場」だろう。

f:id:katsugen0331:20210919174304j:plain上から下まで本棚で埋まっている空間は、壮観だ。
プロジェクションマッピングはこんな感じ。f:id:katsugen0331:20210919174438j:plainただ「劇場」というには狭いし、プロジェクションマッピングの内容も、何が言いたいのかよく分からない。本棚に映写されて、おそらく角川から出版された本の書名が、音と共にポツポツ浮かび上がるだけである。時間もおそらく4~5分程度。

これなら、YOASOBIの「夜に駆ける」を流し、紅白のときに使った映像を見たかった。楽しみだっただけに残念。

本棚劇場に向かう途中には、「エディットタウン」と呼ばれる、通路兼図書館がある。

f:id:katsugen0331:20210919175357j:plainNDCには沿わず、テーマごとに独自の分類で本を陳列している。

こういった陳列方法は、最近流行している。書籍をジャンルに分類するということへの忌避というか、「書籍は、そんな簡単なものじゃない!」という反発から来るものだろう。その思いはなんとなく分かる。ただ、正直な話、本を手に取る側としては分かりづらい。

また、本が置いてある場所も、手に取れない位置にあるものもある。本が飾りのようになっていて、少しかわいそうな気がした。

このような陳列方法は、例えばGINZASIXの蔦屋書店に行けば、味わうことが出来る。おそらく書籍数も、銀座のほうが多いし、中にギャラリーもある。だから「東所沢に行ってまで...」という気持ちになる。

最後に武蔵野坐令和神社について

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ここも、なんだか違和感があった。建物の外に賽銭があるが、ガラスが反射して外から本尊が見れない。鳥居も含めて現代的なのは良いかもしれないが、飯田橋駅前にある教会に似ているなと思ってしまい、神社というよりは教会という印象だった。

 

全体として、日本の伝統とサブカルチャーの融合を目指した施設なのだと思う。ただ「なぜ、日本の伝統とサブカルチャーを融合しなければならないのか?」という問いを立てると、それは結局、カドカワのためなのではないか。
そういう思いが浮かんでからは、色んなものが悪趣味に見えてきてしまった。

隣に公園もあり、敷地内のスペースで催し物もやっていた。「エディットタウン」も「図書館」だから、近所に住んでいるカップルや親子連れのお出かけスポットとしては、オススメだと思う。また、サブカル好きな人やカドカワ好きな人も合うだろう。

ただ、「新しい観光名所が出来たから行ってみよう」という感じで、都内からわざわざ行くべきところかと聞かれれば、行かなくていいよと答えると思う。

小林秀雄は少し苦手だった

最近、小林秀雄の本を何冊か読んだ。

なぜ小林秀雄なのか?と問われると、答えるのが難しい。ただ、何かに付けて名前は知っていたし「学生との対話」はなぜか読んでいたので、集中的に読んでみようと思った。

結論からいうと、小林秀雄は、私にとっては少し苦手な部類の著述家だったようだ。

彼は、個別的な経験とか日常的な知性を重視する。反対に、抽象的な概念や科学的知性を嫌う。その態度は、文章にも現れていて、「俺はこう感じた」という印象論で文章が続いていく。抽象度を高めて、読者を説得しようという感じがない。

だから、ある一文に対して共感することはあれど、文章全体としては、「それってあなたの感想ですよね?」と、なってしまう。批判しようとしても、分析的に書かれているわけではないから、「いや俺はこう思ったんだよ」と言われて議論が終わってしまうと思う。

 

小林秀雄の場合、日常的な知性と科学的知性の境目は、「言葉」にあるのだろう。

自然は文を求めはしない。言って文あるのが、思うところを、ととのえるのが歌だ。思うところをそのまま言うのは、歌ではない、ただの言葉だ。(考えるヒント 90)

例えば、こういうフレーズを見たときに、なぜ”文学的な自然”を歌にするのは良いのに、科学的自然を概念を使って整理することについて、彼は嫌悪感を覚えるのか。単に「学問嫌い」とか「理系嫌い」というだけではないか、という気もする。

「学生との対話」では、

だから、科学というものは個性をどうすることもできない。しかし、僕らの本当の経験というものは、常に個性に密着しているではないか。個性に密着しても、僕は生物たる事を止めやしない。だから、科学よりも歴史の方がもとです。(学生との対話 28)

などと、トーンダウンしていて、これならまだ理解できる。

 

君達のイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さればならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。(「考えるヒント」28)

このようなことは、柄谷行人も言っていたような気がする。
影響を受けたのか、たまたま同じことを言っているのか分からないが、そんなものなのかもしれない。10年ほど前に「ワンイシュー」などと言って盛り上がっていたことを思い出した。

改訂版 小林秀雄の哲学 (朝日新書)にも書いてあるが、小林秀雄の著作は、結局のところ「彼の世界に入り込めるか、入り込めないか」に依るのだろう。

この後輩がすごい!2021

このミステリーがすごい!」という賞があるが、それにあやかって「この後輩がすごい!」と思ったことを書いてみたい。

登場人物は、今年入庁したばかりで新人のAさんと、Aさんの教育係で3年目のBさん。
教育係のBさんは、入庁して初めての部署が今の部署で3年目。そして、私も今の部署で3年目。つまり、私は彼と同じタイミングで、今の部署に配属された。

 

先日、新人のAさんと2人で出張にいくことがあった。ついでだから「最近どうなの?」などと話を振って、いろんな話を聞いた。

その中で、教育係のBさんの話になった。

Aさん曰く「Bさんはすごい!」らしい。分からないことを質問すると、デスクの中からファイルがすぐ出てきて、分からないことを教えてくれる。資料が整理されていて、質問したらサッと出てくるのがすごい!と言うのだ。

この話を聞いて、私は少し感動してしまった。

まず、Aさんが「資料が整理されていて、すぐ出てくるのがすごい」と思うのがすごい。Aさんは今年入庁したばかり。ということは配属されて半年しか経っていない。この時期だと、普通は「なんかよく分からないけどすごい」ぐらいの、ざっくりした感想しか持たないだろう。それが、すでに具体的なすごさを見抜いている。感心する。

そうやって“すごさ”を分解して、理由を考察するのだから、この人は伸びるだろう。「人を見て技を盗め」を実直にやっている。

次に、教育係のBさんが、資料をきちんと整理していたということにも感心した。当たり前と言えば当たり前の話だが、1年目のときからBさんを見てきた私としては、「そういうこともできるようになったのか...」と親心のようなものが芽生えた。

出張を終えたあと、私から「Aさんが『ファイルにまとめててすごい!』ってあなたのことを褒めてたよ」とBさんに伝えた。するとBさんは、照れながら「いやぁー、仕事が覚えられないんですよ、僕」とのこと。

覚えられないなら、資料を残して整理しておくという発想も、またすごい。3年もやっていたら、業務のすべては当然覚えられない。逆に忘れてもいいように資料を残し、すぐ引き出せるように整理するという方向にシフトできたのが素晴らしい。

仕事の技術というのは、こういうものを言う。

この出来事は、技術が後輩に引き継がれていく様子を見ているようで、とても気持ちが良かった。そのうち、私を追い抜いて上司になってしまう気がするが、この2人なら抜かれても良い。

 

やりたい仕事だけをやるには

面倒な人が職場にいる。

すでに定年を超え、再任用として働いている人だ。私は、その人と一緒に仕事をしている。

どのように面倒か。

彼は公務員に向いていない。自分でもよくそう言っていて、それを誇りに思っている部分すらある。つまり「俺は、“ルールだから”という理由では従わないぞ!」という態度がみられる。

しかし、そのような態度を取ることが出来るのは、ルールに従う理由や経緯を知らないからだ。実際に意味のないルールがあるわけではない。ただ結局、正規の順序を踏まなくても仕事が出来てしまうから、彼は「ほら、くだらないルールだろ?」という思いを強くする。ただ、周りが上手いことやってくれていたり、たまたまトラブルにならなかっただけのことなのに。

このようなことを繰り返しているうちに、彼の中で次第に「俺ルール」が出来てきた。「既存のルールなど知らない。俺の仕事は俺のやり方でやる」という感じだ。最初は、「必ずしもルールに従うわけではない」という、ルールの存在を留保するという態度だったのに、次第に「自分のルールにしか従わない」という態度へ変わってきた。

こうなると彼は、「俺ルール」に従って、自分のやりたい仕事しかやらない。慣習やルールが定まっていることでも「俺ルール」を押し通す。そして「俺ルール」は、決して中立的に決まっているわけではないから、気分によってルールは変わるし、やりたくない仕事は「俺ルール」の中で“やらなくてよい仕事”に振り分けられる。

もっとも、「俺ルール」の中では“やらなくてよい仕事”であっても、実際には誰かがやらなければならない。周りが諦めて尻を拭うことで、なんとか保っている。

やりたい仕事をやるのが、職業人生の理想だと言われるが、間近で見ると、羨ましく思えないのはなぜだろう。