かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

それは妖精のおかげではない

溜まっていたシュレッダーのゴミがなくなっているのは、妖精のおかげではない。

朝来たら、ポットのお湯がすでに沸いているのは、妖精のおかげではない。

使いたい付箋がいつも倉庫に用意されているのは、妖精のおかげではない。

用紙を切らさずにいつも印刷できるのは、妖精のおかげではない。

トイレがいつもきれいなのは、妖精のおかげではない。

車のガソリンがいつも満タンなのは、妖精のおかげではない。

保健所の仕事がなんとか回っているのも、妖精のおかげではない。

頑張りが吸い取られる

自分で言うのも癪だが、私は今の職場では割と頑張って仕事をしている方だと思う。成果もかなり上げている。ただ、この職場で頑張ったとしても、あまり意味がないような気がしてきた。

うちの職場は、この前書いたこんな人や、もう異動したこんな人の他にも、変な人が多い。自分の仕事を責任感を持ってやる感じではなく、「できれば仕事をしたくない」とか「他の人に押し付けたい」というスタンスで仕事をしている人が多い。

前からこの傾向には気づいていたのだが、私はまだ余力があったし、異動してきたばかりだから、信頼を得ようとしゃかりきに仕事をしてきた。他の人の仕事を代わりにやることもあった。

ただ、近ごろはそれに嫌気が差している。やればやるほど相手はサボり、頑張りが吸い取られていく。そして私が頑張ることが当たり前になっていく。正直「もう頑張らなくてもいいかな」とやる気がなくなっている。

頑張るのがバカらしくなるこの構造とは、一体なんなのだろうか。

アウトプットデーを導入した

私は基本的に、図書館で借りた本を読んでいる。借りて読んだ上で気に入った本だけ買っている。これは節約という意味でもいいのだが、図書館の本は返却期限が設けられているから、積ん読を防げるのも1つのメリットだ。

ただ、返却期限を意識するあまり、次から次へと読もうとするところがある。いちいち「この本の返却期限は何日で…」と考えているわけではないから、とりあえず早め早めに読んでおいて、読み終わったらすぐ返すようにしている。
このような習慣だと、本を読むばかりで、ブログを書く時間がなくなる。通勤途中で思いついたメモの断片は溜まっていく一方で、それをちゃんとした文章にする時間がなくなってしまう。

そこで今月から「アウトプットデー」を設けることにした。毎週水曜日は、基本的に本を読まない。代わりに「何か書くことはないかな?」と考えたり、これまでに溜まったメモをそれなりの文章にすることにした。

最初は、毎日「アウトプットタイム」を設けようと思ったが、それだとメモのほうが枯渇しそうだし、文章を書くにはある程度まとまった時間が必要な気がしたので止めた。

こんなことを言いつつ、この文章自体は通勤途中に書いている。自分でも何をやってるのかよく分からないが、読書だけでなく文章を書く方も、バランスよくやっていきたい。

錯覚しがちなこと

「新しいことだから良い」ということはない。
今までにない新しいコトやモノが出てきても、それが私たちによい影響を及ぼすとはかぎらない。だが、新しいことを実践したり、新しいものを手に入れている人に対して、私たちは憧れを抱いてしまうことがある。それは、個人的な羨ましさかもしれない。または「膠着した世界を変えてくれるかもしれない」という希望を見ているのかもしれない。とにかく私たちは「新しいから」という理由だけで、それを良い方向に、過大に評価してしまうことがある。

「他の人と違うから良い」ということはない。
自分のやっていることが他と違うからといって、それが時代の最先端とはかぎらない。個性につながるわけでもない。周りの人がやらないのは、これまで失敗例を多く見てきたからかもしれない。だが私たちは「他の人と違うから」という理由で、それをやったり、評価することがある。それは「まだ誰もやったことないことをやる」という冒険心かもしれないし、アイデンティティの渇望からくるものなのかもしれない。とにかく私たちは「他の人と違うから」という理由で、それを過大に評価してしまうことがある。

行政のキッカケ主義

日本の行政には、「キッカケ主義」があるんじゃないか。

「オリンピックをキッカケに...」や「DXをキッカケに...」といって、「その予算は、どこから出てきたんですか?」という額の予算が、関連事業に付いたりする。

そして、補助金目当てに、自治体や企業がそれっぽい事業を始めたりする。

それが一概に悪いと言いたいわけではないけど、そんなに予算があるなら、もっと普段から「地味ながら大事なこと」に振り分けたって良いんじゃないか?と思う。そしてそういう「地味な振り分け」こそが、行政の本懐だろう。

「オリンピックをキッカケにしないと、建物が建てられない」とか「DXをキッカケにしないとツールが導入できない」というのは、本来おかしな話だ。競技場を作る必要があるなら、そのとき作ればいい。ツールを導入したほうがいいなら、そのとき導入すればいい。

「キッカケ主義」というのは、ある種の「新奇性」なんだろうけど、そういう”上っ面”で事業を動かしたところで、いい結果につながるんだろうか?

必要性が新奇性に取って代わられると、行政としてはマズイことになる気がする。