かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

グループであることが権力とみなされる

「ナニカグループ」という批判(?)の仕方があるらしい。

こういう動きを見ていると、目的を持って徒党を組むこと自体が、権力的とみなされ、忌避される傾向にあるのではないかと思う。

先日こんな本を読んだ。

ある種の人々は、徒党を組む(例えば”黒人”として集まり、政治運動をしていくアイデンティティポリティクス的な)ことは、個人の言いたいことを言えなくし、権力的であるという主張をする。

その結果、「男もいろいろ、女もいろいろ」となり、団結できずにバラバラになる。
たしかにそれは、団結によって生じる権力を排除するという意味では自由だが、しかし団結によって勝ち取る自由も排除する。

陰謀論の類は、「実は裏でつながっている」とか「ディープステート」など、グループの示唆であることが多い。逆に、陰謀論である個人がすべてを操っていたのだという話は、あまり聞かない。個人による陰謀論は、もはや宗教的になっていくのだろう。

「人は一人では生きていけない」と人生論を吹くつもりはないが、何かを達成しようとするときに、仲間を募り、一緒に行動することは重要な戦略である。そうやって社会が保たれ、改善されている面は大いにある。

そのような状況で、「徒党を組むこと自体が権力的である」と批判されてしまっては、ますます一部に権力が集中し、不自由になっていくのではないか。

競争的価値観とそこからの脱落

コンビニ人間』を読んだ。

私が大学生の頃は「個性」という言葉がしきりに重要視された。今や「個性」という言葉は、ことさら強調されなくなった。

これは「個性」の流行が終わったというよりも、個性が一般化して、言及されなくなったということだろう。

個性とは、一般的には「あるがままの自分」という意味の受け取られ方をするが、実際は他人との差別化であり、誰かを出し抜く競争的価値観である。結局、あるがままの自分は社会に認められず、「社会における自分の個性」が求められてしまう。

つまり、個性を発揮するには、社会の動きや周囲の価値観をつねにモニターし、それに自分を(適応しないという判断も含めて)適応し、自分の居場所を見つけていく必要がある。

こういった、社会への適応から脱落した人は、「繊細さん」や「HSP」といった文脈で回収されていく。つまり「繊細さん」や「HSP」というレッテルを借りることで、社会の中に居場所を見つけていくことになる。

これまでも「うつ」や「ADHD」など、病名/障害名を自己診断することで、社会の中の居場所を見つけるということはあった。精神疾患は”流行”するのである。

しかし「うつ」や「ADHD」と違い、「繊細さん」や「HSP」は、もはや病名/障害名ですらない。

ここに、社会から脱落した者のさらなる苦境を見るのは、私だけではないはずだ。

メディアの「信頼」を考える

メディア関係者が「取材対象からゲラを見せるように言われるが、メディアは信頼されていないのか?」といったツイートをしたところ、それが炎上しているらしい。

現在は非公開にしているようだが、このツイートへのコメントを見ていると、「とっくに信頼してない」とか「新聞は読んでない」とか、さんざんな言われようである。

 

さて、「信頼」という言葉を考えたとき、これは「信じる」と「頼る」に分けることが出来る。

ツイートにぶら下がるコメントは、そもそも報道内容や報道姿勢を疑っているような「信じる」ことへのコメントが多い。

ただ、このメディアへの信頼低下は、「頼る」意識の低下も影響しているのではないかと思う。つまり「テレビなんて見なくても、新聞なんて読まなくてもニュースは分かる」と。

テレビや新聞は、これまで大きい影響力があり、マスに発信する権利は、事実上寡占状態となっていた。だからこそ、取材対象者は「編集権」に目をつぶってでも、掲載をお願いしていたのだろう。

しかし今の時代、自分の言いたいことは自分で発信できる。テレビを頼らなくても動画は作れるし、新聞を頼らなくても記事は書ける。そしてそれを全世界に公開できる。

つまり、取材対象者がマスへの発信という部分で選択肢を持ち、「修正してくれないなら、掲載しなくていいです」と言いやすい状況になった。だからこそ、Twitterでこの手の"告発"が目立つのだろう。

そういう意味で、確かにメディアの「編集権」は存在するが、以前と違ってメディアは選ばれる側になり、選んでもらえるようなコミュニケーションをしなければならなくなったということは、理解したほうがよいのだと思う。

「幸せにならなきゃいけない」ということはない。

『ハッピークラシー』を読んだ。

「あらゆる出来事も、自分の心持ち次第で幸せになれる」という、いわゆるポジティブ心理学に対する批判の本だ。

この本の趣旨からはズレるかもしれないが、人間生きていて、幸せにならなきゃいけないということはない。幸福追求権はあるが、幸福追求義務はないのだ。
しかしこの社会は、確固たる幸せがあって、序列があり、その「幸せ度」を競っているように見えるときがある。

そもそも「幸せとはなにか」と考えること自体が、野暮なことのように思う。これだけ多様な世の中で、幸せの意味が一義的に決まるはずがないし、わたしたちはそんなことを考えて、日々生きているわけではない。

人間は、ただ生まれ、ただ生きて、ただ死ぬのである。

そういう、ある種の所与性やその限界について、我々はもう少し冷静に考えなければならないように思う。

”沼”という形容と被害者意識

”沼”という言い方が最近流行している。

好きなものに"ハマる"という形容が、そうさせているのだろう。カイジの"沼"の影響もあるかもしれない。
いずれにしろ、好きなものにハマることを"沼"と形容するのは、今や一般的と言える。

しかしこの”沼”という形容に、最近、違和感をおぼえるようになった。

”沼”という形容は、「抜け出したくても抜け出せない」という語感がある。しかし、その対象は自分の好きなものである。自分が好きでハマっているのにもかかわらず、あたかも誰かに強いられて、しょうがなくハマっているような言い方である。

私の違和感はここにある。

つまり、沼という形容は、自分の好きなものですら、それに振り回され、抜け出したくても抜け出せない被害者として、自分を捉えていることを意味している。

加害者になる勇気でも書いたように、自分が被害者の側に回るようにしがちな昨今、自分の好きなものですら被害者にしてしまうなら、その人生の主体性は、いったいどこにあるのだろう。

追記:2023年01月26日

推し、燃ゆを読んだ。

「沼」という形容は、「好き」という言葉ではなく「依存」という言葉で説明したほうがスッキリするのではないか。依存だからこそ、その人のためにいくらでもお金を使うのだ。

逆に言えば「沼」という形容は、その依存性を軽視しているし、むしろ自嘲的に扱っている。学校内の暴力を「いじめ」と形容するのと同じ構造のように思う。最近、ホストの依存性が取り沙汰され始めたが、それも同じ構造なのだろう。

依存は、もはや薬物やアルコールだけでなく、ゲーム、買い物、アイドル、ホストなど、あらゆるところで今後問題になってくるのかもしれない。