かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

2023年、今年の3冊

2023年に読んだ本は、今日時点で105冊。私の傍には「成瀬は天下を取りに行く」があるが、もはや今年は読めないので諦める。

以前と比べてブログの更新頻度が激落ちしたが、書きたいときに書くと決めているので、来年もマイペースにやっていきたい。

というわけで、今年の3冊

堅い書名だけど、大学の講義を元にしていて、中身はかなり砕けている。いわゆる「文章読本」なわけだが、その技法的な部分というよりは、文章を書くことへの心構えを説いている本

僕は、こういう文はいいと思う、こういう文はよくないと思う。そういうことがなければ、少なくとも批評は存在できない。いや、ほんと言うと批評だけじゃなくて、文章を書くことに熱意を注ぐ、ということが存在できなくなってしまう。その熱意が、大きく言って美というものを成り立たせているからです。いいですか。いろいろあるよ、と言っていたら、美も存在できなくなるんです。(15)

例えばこんな文には”熱さ”を感じるし、それは文章を書くことだけでなく、人生そのものに対する態度を表しているようにも思う。定期的に読み直したい本。

 

今年読んだ本を見直したときに、「あ、これ今年なんだ」と思った。

読書メーターには、いいと思った部分の引用を普段は載せているのだが、この本に対しては、

「主人公はまだ許せるのに、白羽が許せなさそうなのはなぜか?」と考えてしまった。白羽によって就活させられるときも、社会的には”正しい”はずなのに「そっちはお前の道じゃないぞ!」と思ってしまっていて、コンビニ人間であることを主人公に望んでいるという、なかなか不思議な気持ちになった。

と感想を載せていた。

まだ異動前の部署で、精神障害発達障害について考えていたときだったから、余計刺さったのだと思う。ただし、主人公がそういう障害を持っていたかどうかは分からないし、仮に持っていたからといってなに?という話なのだが。

 

すべてが分かった訳ではないけど、マルチタイムスケールの話がとてもよかった。別の本で、平井さんは

クオリアとか、みんなタダできると思っちゃってるんですよ。脳から湧いて出るみたいな。イメージだって脳から生じますといってわかった気になっちゃうけど、素材ないじゃないですか。無から作っているって神ですか、みたいな。(『ベルクソン思想の現在』P117)

と語っていて、その考えが発揮された理論だと思う。

哲学の営みは、思弁的になりやすくて、頭の中の概念操作で、ふわっとそれっぽくやることが多い。分析哲学はそれの批判として、論理的に厳密にやろうとしているわけだけど、旧来の哲学でもなく、また分析哲学でもないような、素材感のある哲学でとてもよかった。

 

今年は深い読書ができなかった。その原因は本のせいというより、読書に対する私の態度のせいだ。

次から次へと本を読み、記録する。

それが悪いわけではないけど、右から左へすり抜けているような感覚で、もうちょっと味わって、内容を頭に入れていかなければならないと思った。

先日の記事でも載せたように、来年は、

「忘れる・思い出す・覚える」 

ということを読書の面でもやっていきたい。

忘れる・思い出す・覚える

読んだ。

さいきんの私の悩みとして、物事が忘れっぽくなり、思い出せなくなったということがある。さすがに年を取ってきたのかと思ったのだが、この本を読んで「思い出す力を鍛えていないからだな」と思った。

これまで私は、なにかあるたびにメモを取り、そのメモを集約してマニュアルを作成していた。これは、そのメモの内容を外部化し、いつでも参照できる環境を作ることで、その物事を忘れたいという発想からやっていたことだ。

これはこれで上手く行ったと思ったのだが、忘れたがゆえに、いちいちそのマニュアルを見なければならないという問題が発生している。忘れるためにマニュアルを作っているのだから、この帰結は当たり前なのだが、この本の読んで、そろそろ次のステップへ進まなきゃいけないような気がした。

何でもかんでも外部化して、その都度マニュアルを参照するようでは、手間である。ある程度のことは、自分の頭の中に覚えておかなきゃいけないし、その覚えている量が多ければ多いほど、仕事の能率は上がる。

そのためには、それを忘れて外部化するだけでなく、それを思い出し、頭に覚えさせなければならない。

つまり「忘れて、思い出して、覚える」というセットで考えなければいけない。

私はこれまで「忘れる」しかやってこなかった。それが全くダメというわけではない。「忘れる」しかやっていないことが問題なのである。

そして、思い出す能力を身につけるには、自分の頭を鍛えるしかない。

本の中でコーネル式ノートの話があった。このノートの取り方は私も知っていたが、いまいちその要諦を掴めなかった。「ただのまとめノートじゃん」と。しかし、著者の「思い出すためのノート」という解釈を読んで、腑に落ちた。

左側に書いた疑問やキーワードから、その内容を”思い出すために”まとめるのか、と。

ということで現在、Ankiを使って、本の内容から疑問文を作り、「疑問文-本の内容」となるような単語カードを作成中。作り終わったら通勤中にやる予定

これまで新しい本をどんどん借りて、右から左に読書していた。しかし再読して、頭に定着させる作業をしていかないと行けないなと、この本を読んで思い始めている。

来年の抱負は「鍛える」になった。

地方公務員アワードを巡るHOLG代表とのやり取り

HOLGの代表である加藤さんと、地方公務員アワードに関してやり取りをしましたので、それをここに掲載します。

黒が加藤さんからの返答。青(?)がそれに対する私の返答です。

私の返答に対して、加藤さんは「一つだけ回答すべきと思ったのは、かつげんさん個人がストレスを抱えていると予想し、それを揶揄しているわけではありません。少なくとも現時点の私には、そう判断できる材料がありません。」とだけ返答がありました。

後のことについては、

と述べて、終わっています。このツイートについては、これに続くリプで回答しています。

以下、加藤さんに送った文章です。

①なぜ個人表彰なのか

個人を表彰する理由は、公務員バッシングの大きな理由は個としての公務員のリアルな存在が伝わっていないことに大きく起因している点、また、行政に関心を持ってもらうには最初に人が全面に出るべきだと考えるからです。


→その目的は理解しています。しかし私が言っているのは「個人を表彰することによって、弊害がある」とか「個人に対するフォーカスは、受賞対象を組織に変更しても失われない」という疑問です。

 まず私の基本的な認識として、役所の仕事やその成果は、ある特定の個人(リーダー的な人はいるにせよ、それも「リーダー」という役割に過ぎない。)だけで行うのではなく、組織で行っているものだと考えています。つまり、そもそも組織単位で成果を上げているにもかかわらず、その成果を個人単位でを切り出すこと自体が難しいと考えており、特に外部の方がその成果を評価するとなると、例え同じ地方公務員だったとしても、さらに難しいことだと考えています。

 組織を表彰対象とした場合、例えば陰ながらも業務に邁進したAさんがいたとして、表彰された組織内にそのAさんがいれば「俺もこの受賞に一役買ったのだ」と思えます。
 しかし個人を表彰対象とした場合は、組織で行った業務による成果をAさんではない受賞したBさんに「召し上げられる」ことになります。そうするとAさんは「俺もこの受賞に一役買ったのだ」と思えなくなります。むしろAさんは「どうせ頑張っても横からぶんどられるのだ」と思い、私の言う「分断」が受賞によって始まってしまうかもしれません。
 これはつまり、加藤さんの危惧されるような「特定の声の大きい人が代表とな」ることが、個人を表彰対象とすることで逆に生じているのではないでしょうか?
 もう一つ例を挙げると、アワードを受賞された方が異動され、その異動先では大した成果を挙げられないということは大いに考えられます。これは部署の向き不向きや周りの協力が、仕事の成果に繋がっているということを意味していると思います。それでも、こういった環境的な要因を排除した個人単位で表彰するのでしょうか。

 組織を受賞対象とした場合でも、例えば表彰式やホームページの中で成果を発表する際に、個々人の活躍を紹介し、フォーカスすることは可能であると思います。むしろ組織単位で表彰し、組織内部の人間に注目させるほうが、個人を表彰対象とするよりも「特定の声の大きい人が代表とな」ることや「召し上げられる」ことが少なくなるのではないでしょうか?
 また以前に私が申し上げたように、組織を受賞対象とした場合、誰が代表で受賞すべきかということは、組織内部で考えることであり、それで十分だと私は考えています。それを、様々な弊害がある中で、また「特定の声の大きい人が代表となる」や「召し上げられる」という懸念で、本来組織の成果であるものを個人に帰するものとするというのは、デメリットが大きいと思います。

管理職を評価するべきという妥当な理由はわかりません。

その論理だと全ての成果の行きつく先は二元代表制の最終的に首長や議会となりますが、彼らが全て受賞すべきでなく管理職が受賞すべき根拠もわかりません

→「管理職が受賞すべき」とは申し上げていません。

 「担当の仕事の集積として、一つの大きな仕事が出来るような仕組みになっている。」ということの例示として申し上げたまでです。

 そして「決定権のある者が組織の代表として受賞することは当然のこと(だからこそ「管理職」なのだが)である。」と言っているのは、決定権のある管理職はその組織を代表するものとして、受賞することが多いという一般論を申し上げているだけです。

 たしかに極論を言えば、成果の行き着く先は、首長や議会となるでしょう。しかし、世間一般的に納得できるような組織の単位で、仕事の成果を切り分けることは可能であると思いますし、実際、課単位で表彰している団体はあります。

なお、正当か不当かの基準は人それぞれなのでわかりません。Twitterではネガティブな意見が目立ちますが、実際にコメント欄を見てみると一方的にアワードが批判を受けているわけではなく、地味な仕事を評価してくれていると思っている人がXですら批判者以上にいます。また、管理職の最たる方々である首長の方々からも、開催に際するメッセージや祝辞を正式にいただいているので、その点でも一定の理解は得られていると考えています。

→もちろんその基準は人それぞれではありますが、様々な批判があるなかで、より多くの人が納得する方法を考えるべきであり、加藤さんはそれを考え、実行する立場にあると思います。

②評価方法について

公務員の方が審査員ですので、審査員の方が判断されることだと思います。

→「審査員が判断します」というのは違うと思います。
 加藤さんはこのアワードの主催であり、具体的な事例における審査はさておき、抽象的な審査方法や仕組み、基準については、考える立場にあるはずです。
 こういうときに「審査員が判断します」と言ってしまうのは、私には逃げているように見えてしまいます。

いまでも実際にはデータや形に残らないことを評価してもらっています。例えば、「子供3人を出産しながら、仕事ではこれだけのことをした」といった文章等も推薦文にはあります。
また、推薦文には人格や情熱について触れられていることも多くあり、それらは加味されていると思います。

→私が申し上げているのは、アワードの評価する「成果」とはそもそもなにかということです。詳しくは③の冒頭を参照。

ご提案頂いているチームや組織の受賞となると、人間らしさは極端に失われ、ただの事例集のようになることになり、これらは省庁が行っている表彰と類似の取り組みになるように思い、弊社が行う理由はありません。
また、チームや組織が受賞することは特定の声の大きい人が代表となり、アワードの目的達成がしがたくなります。

→①を参照。

③なぜ審査員に専門家を入れないのか

地方公務員の地味な仕事やリアルな仕事へ最も理解できるのは、専門家ではなく地方公務員だと思うからです。

→なぜそう思うのでしょうか。
 確かに地方公務員も、地方公務員の仕事に対して、ある一面において理解があるのかもしれません。しかし、地方公務員の仕事も専門化し、それぞれの仕事の価値観で業務を行う中で、「同じ地方公務員だから」というだけで、他者の成果の評価ができるでしょうか。
 具体的に言えば、隣の係の業務内容すら詳しく知らない状況で、他自治体の職員の個人業績の審査はできるのですかという疑問です。
 専門家や様々な立場の方を審査員として迎えることで、地方公務員の業務の多様性や価値が、審査により反映されるのではないでしょうか。

例えば、よく役所に呼ばれる◯◯委員や◯◯政策委員が評価した場合には、成果にフォーカスされる可能性が高いからです。

→募集要項では、その目的として「高い"成果"をあげた職員の活躍を一般市民や他自治体、そして、メディアへ共有し」とありますが、アワードの趣旨からいって、成果にフォーカスすることはむしろ真っ当なことなのではないですか?

また、仮に全部署の専門家を集めようとすると審査員だけで500人程度(仮に教育、消防、公安なども含めかかりや専門スキル単位で3名ほど集めたら)はすぐに超えると思います。適任者を専任し依頼し、とりまとめてイベントを実行するのは弊社には人的また金銭的リソースから不可能ですし、府省庁でも難しいように思います。

→加藤さんは、なぜそうやって人の話を極端に捉えるのでしょうか。
 提案に対して、リソース的に不可能なことをあえて想定し、提案を否定することは、かなり悪意があるように見えます。
 地方公務員の業務を部門ごとにすべて網羅しろとは言っていません。しかし、部門を作りある程度切り分けたほうが、見ている方は受賞理由等が分かりやすくなるのではないでしょうか。また受賞理由を説明するにあたって、土台となる独自の価値観を説明することにもつながり、分野ごとの相互理解が深まるのではないですか。

 専門家についても、すべての部門に3人ずつ付けろなんて一言も言っていません。今の審査員に加えて、1~2人でも、審査員として招くことも無理なのですか?
 つまり、聞きたいのはリソース的に不可能なのか、加藤さんの意志として専門家を入れたくないのか(=公務員の審査だけでやりたいのか)ということです。

④受賞者の偏りについて

偏りはあるかもしれませんが、N数としては81なのでその点を論じる段階でもないと思っています。受賞者を見ると同じ部署で同じような成果を上げる人はそんなに多くないと思います。例えば上下水道に関する部門では3名が受賞していますが、全員異なる動きをされています。
また目的別支出の割合と同等になることが正しい基準とは思いません。例えばバブル期において土木建設費の割合は高かったと思いますが、開発に関する方が多く受賞した場合では、特定のキラキラ系である開発担当者ばかりと批判されることになるのではないでしょうか。

→私は受賞者の部門別の割合が「目的別支出の割合と同等になることが正しい」とは言ってません。私がここで言いたいのは、
 「当然、単純な比較はできないが、アワード受賞者における受賞分野は、偏り(評価されやすい分野とそうでない分野)があるのではないか。」
という部分です。この疑問についてはお答えいただいていないと思います。
 評価されやすい分野とそうでない分野があるということも、私が申し上げている「分断」につながると考えています。

⑤地方公務員間の分断について

まだ多くの地方公務員は地方公務員アワードの存在を知らないので、地方公務員アワードが分断できているとは考えていません。画一的な評価というのは誰から見るからにもよって異なると考えますし、加えて画一的な評価がなければ地方公務員を分断しなくなるわけではないと考えています。

→分断については①を参照。何をもって「分断」というかは「人それぞれ」ですが、私は①や④で述べたようなことを懸念しています。

地方公務員アワードに対する批判については、評価方法への不満を理由に展開されますが、批判者自身が通常抱える業務や人間関係に関するストレス、また、自身がアワードに選ばれないことへの不満もあるのではないか、と同じ公務員から意見をもらっています。よって地方公務員アワードが分断しているとは考えておりません。

→それは私のことおっしゃっているのですか。
 このように、批判者に対して「こいつは表ではこう言っているが、実は無意識にはこういう考えがあるはずだ」と勝手に仮定して馬鹿にするやり方はよく見られますが、そんな揶揄の仕方を許していたら、いくらでも言いたい放題できると思います。
 そしてさらにひどいのは、加藤さんは「同じ公務員から意見をもらっています」という一言で逃げを打っていることです。そういう加藤さん自身はどう思われるのですか。
 自分の考えをおっしゃらずに他人の意見を盾にして、それとなく匂わせる方法はかなりセコい批判の仕方だと思います。
 というか、この一文を入れた意味が私への揶揄でないのであれば、蛇足であり、意味不明です。

Twitterでのリプ

そんなに噛み合ってないですかね。質問には呼応してますよね。スペース不要と考えたのは「回答するのが"筋"」と「不当」などと論理ではなく、かつげんさんのモラルを軸に会話されていることが多かったためです。目的に対するあり方ではなくモラルを会話に持ち込むと、正解は無く必ず平行線になります。

→「文章で疑問を述べたのだから、文章で回答すべき」といったのは、加藤さんがその前に「実はわたしもまとめたいと思ってたのでありがたいです。」とおっしゃっていて、私はそれを「加藤さんは文章でまとめる気なんだな」と思ったからです。
 それが急に「複数人でスペースをやりませんか?」と来たので、疑問に思って「スペースでもいいけど、まずは1:1で文章で返すべきでしょう(自分もそういってたし)」と言っただけです。
 「不当」というのも、私は正しくないと思っているから「不当」と言っているだけです。
 目的に対するあり方を考えるためには、むしろモラルを話し合うことこそ重要だと思います。正直このリプは、全体的に意味がよく分かりませんでした。

分断と相手に言ってる時点で、それはあなたのモラルの押し付けじゃないですか?私はアワードの目的を鑑みて実務論として最適かどうかという軸で話していますが、貴方は正しい在り方という空中戦で私と議論しようとしている。だから噛み合わないと感じるのではないでしょうか。

→加藤さんのいう「モラルの押し付け」や「実務論」というのは、具体的にどういうことをおっしゃっているのですか?
 あなたの感覚的な造語を押し付けられてもよくわかりません。

 私が「噛み合っていない」と言っている意味は、これまでの返答で度々出てくる「私が申し上げているのは...」とか「私は言っていません」という言葉からも分かるのではないでしょうか?
 私の書き方も悪いのかもしれませんが、加藤さんは私の疑問に対して、曲解したり話をそらしているように感じます。だから「噛み合っていない」と私が感じています。だから加藤さんのおっしゃる「空中戦云々」というのは、噛み合わなさの説明として、端的に間違っています。

 「分断」と申し上げているのは、私が本当にそう考えているからです。「モラルの押しつけ」の意味が分かりませんが、こういった自分の考えを述べることは「モラルの押しつけ」なのですか。それでは加藤さんの考えを私に表明することも、モラルの押しつけなのではないのでしょうか?
 また「実務論」というのが、「現実的な問題解決のための議論」という意味なのであれば、私はブログで具体的な提案もしていますし、今回の返答でもかなり具体的に書いているつもりです。これ以上”実務的な”批判を求めるのですか?
 これでもまだ「モラルの押しつけ」や「実務論云々」ということをおっしゃるのであれば、もはやそれは「私は自分のモラルと合う、自分の話したい議論をしたい」ということであり、「自分の気に入った意見しか聞きたくない」ということだと私は理解します。

以上、加藤さんへの返答でした。

地方公務員が本当にすごい!と思う地方公務員アワードへの疑問(と提案)

Twitterでホルグの代表の方にいろいろ質問しようと思ったのだが、項目がありすぎて整理できなさそうなので、ブログで書いて見ようかと思います。

時間がない中で書くので、乱文になると思いますがご了承を。

(10/8追記:その2へ続きます。)

1.なぜ組織ではなく、個人を表彰するのか。

地方公務員の仕事は、係ごとどころか担当ごとに細分化されていて、そういった担当の仕事の集積として、一つの大きな仕事が出来るような仕組みになっている。

それなのに、組織やその代表者ではなく、個人を表彰するのはなぜか。

特定の個人のみを表彰し、その大きな仕事の土台となるような仕事をした各担当や最終的な決定を行うという重責を担った管理職を評価しないから「アワードは地味な仕事を評価しない」という批判を受けるのではないか。

こういった評価の仕方は、地方公務員の仕事を評価する上で正当なのだろうか。

2.公の仕事に対する評価方法について

例えば、生活保護ケースワーカーAさん・Bさんがいて、それぞれ80人のケースを担当していたとする。

Aさんは、2人を就労に結びつけ、その2人は安定した生活を営むことができた。
Bさんは、30人を就労に結びつけたが、就労した者はそれぞれ半年程度でやめてしまった。

このとき地方公務員アワードは、どのようにこの2人を評価し、表彰するのだろう。

直接的に言えば、データや形として残らない”実績”(そういう実績こそが公務員の目指すべきところであると私は思う)を、どうやって評価できるのだろうか。

3.なぜ審査員に専門家を入れないのか

2で書いたことにつながるが、アワードの審査員は、これまでのアワード受賞者が行っている。

しかし、担当が違えばその仕事の価値観も異なる中で、他部署の仕事に対しては「素人」である受賞者(それは受賞者自身が分かっているはずだし、個人的には「よく審査できるな」と思っている)が、果たして正当な評価を行えるのだろうか。

結局のところ、素人が「すごいと”思う”人」を表彰しているのと同じようなものであって、実際に「すごい人」は表彰できていないのではないか。そしてその傾向は、HOLGのホームページで「推薦文の書き方」が掲載されているように、結局のところ「すごいと思わせる力がすごい人=PRが上手い人」が受賞することに繋がっているのではないだろうか。

地方公務員の仕事を正当に評価したいのであれば、地方自治研究者やそれぞれの分野の専門家に審査員をお願いすべきではないか。

また審査員を以前の受賞者とすることで、縁故主義的に受賞が決まっているまたはそう疑われることになっていないか。

4.受賞者の偏りについて

総務省の出している「地方財政の状況」における「目的別支出」の割合と、アワード受賞者の受賞分野の割合では、乖離があるように見える。

具体的には、アワードにおいては、財政支出割合が比較的低いはずの商工分野や農林水産分野における受賞者が多く、逆に支出割合の多い民生分野や衛生分野における受賞者は少ない。

当然、単純な比較はできないが、アワード受賞者における受賞分野は、偏り(評価されやすい分野とそうでない分野)があるのではないか。そしてその偏りは、アワードの画一的な評価に起因しているのではないか。

5.アワードによって、地方公務員を分断していないか

結局のところ、公の仕事の評価はかなり難しく、アワードの評価・表彰はかなり画一的な視点で評価されているように見える。

このような画一的な評価・表彰によって、地方公務員を応援するどころか、地方公務員を分断する結果となっているのではないか。

 

以上、お忙しいと思いますが、お答えいただけるとありがたいです。

追記 いくつかの提案

「匿名地方公務員は批判ばっかり」と言われる未来が見えたので、アワードに対するいくつかの提案をしたいと思う。

1.受賞単位を個人から組織にする。

地方公務員は、チームで仕事をしている側面が強いため、現状の個人単位での表彰は適切でない。

加藤さんは「チームで受賞となるとチームで一番権力のある方や、声の大きい方の評価として、召し上げられる」と言っているが、決定権のある者が組織の代表として受賞することは当然のこと(だからこそ「管理職」なのだが)である。また誰が代表して受賞するかは、その組織が決めることである。

地方自治体の活動を表彰する仕組みは、総務省の行っている「ふるさとづくり大賞」や日本広報協会が行っている「広報コンクール」など様々あるが、加藤さんが言っていることが正しいのであれば、これらの表彰は「一番権力のある方や、声の大きい方の評価として、召し上げられる」ものであるということなのだろうか。

地方自治体の業務における個人の評価は、基本的にあくまで地方自治体の人事制度によって行うべき(もちろん例外はある)であり、外部が個人をピックアップして表彰するのは、業務の性質上合わない。

そういった試み自体が全てダメというわけではないが、根拠ある理由がない限り、受賞単位は組織とすべきである。

2.部門別受賞とする。

現在は「地方公務員アワード」という単一の受賞(協賛賞はある)となっているが、これでは「ごった煮」の状態であり、何がどう評価されて受賞に至っているのか分からない。それが「縁故的な受賞ではないか」とか「派手な人しか取り上げられていない」という疑惑を生じさせている。

そこで地方公務員アワードの中で、企画広報部門・総務部門・福祉部門...など部門を分け、それぞれの部門で受賞者を決定することで、説明責任を果たすという意味でより専門的な理由によって受賞が決まることに繋がり、「本当にすごい人」と「すごいと思われる力がすごい人」の「ごった煮」状態はいくぶん解消される。

3.専門家を審査員として招く

部門別受賞とセットにしなければならないのは、それぞれの部門ごとの審査員として専門家を入れるということである。

受賞者のみを審査員とするのは、私が疑問の部分で書いたように結局のところ「すごいと”思う”」でしかない。運営側はデータや実績による客観性を担保していると主張するだろうが、そこには現れない実績を適切に評価するには、地方自治や各部門の専門家に評価してもらうのが一番良い。

言ってみれば今の審査体制は、視聴者とゲスト審査員で勝敗を決める「紅白歌合戦」と同じである。

エンタメとしてこのアワードを運営し、審査も正当性は関係なく、「”思う”を超えない範囲で良いのだ」という気持ちでやっているのであれば、今のままで良い。

しかし、表彰に客観性や正当性を付与したいのであれば、専門家による審査は必要である。

 

以上、提案です。

 

あとは、読んでくれたらいいな程度の雑感。

このアワードは公的な仕事に対して民間的なアプローチで評価するということに、ねじれがある。

そもそも地方公務員の仕事は、市場原理では対応できないからこそ行われている(と言われている)。例えば、警察・消防・防災・福祉などは、その最たるものであるように思う。

こういった分野の評価方法は、それはそれで専門的なアプローチが必要であり、民間人にわかるような「効率的になった」だけで評価できるほど、単純な世界ではない。効率化による弊害も加味しなければならない。例えば、これまでのアワードの受賞者のせいで被害を被った人だっているかもしれない。

そういう仕事の複雑さを画一化して、表彰しているのがこのアワードであり、だからこそ民間人にも評価しやすい経済系の部署の受賞人数が多いように思う。

「いろんな部署の人が受賞していますよ」という反論もあるが、数をこなせばそういう人も存在するだろう。しかしその割合は、地方公務員の仕事を評価し表彰するには不当に偏っているとしか言いようがない。

こういった指摘に対して「万人に受ける表彰は無理。あなたがそういうアワードを作ればいい」と言われるだろう。

しかし、各団体が行っている地方自治体への表彰と違い、地方公務員アワードがこんなにTwitterで叩かれているのはなぜか。やはりそこには(私から見ると一定程度正当な)理由があるということは、自覚する必要があると思う。

 

なんとなくおすすめの本

その2へ続く

katsugen0331.hatenablog.com

 

大阪に行った

初めて大阪にいった。感想をいくつか。

目当ては太陽の塔だったが、太陽の塔は本当に良かった。現地でしかわからないデカさや異様さというのは、やはりこの目で見ておいてよかった。内部も見たが、展示に加え、音楽がかなり好きだった。渋谷の岡本太郎記念館は行ったことがあるので、今度は川崎の方をちゃんと行ってみようという気になった。

万博記念公園は、周辺の感じがモロに舞浜という感じだった。公園に行くまでの橋といい、バスターミナルといい、ららぽーとといい、山の中にあるはずなのに、なんだか海の近くに来たように錯覚した。

他にも通天閣中之島に行ったのだが、こっちは「うーん、東京で足りるな」という感じ。大阪は都市化されていることもあって、「これは東京にあるな...」と思うことが多く「意外と見るものが少ないな」と思った。

すれ違う人を見て思うのは、いかつくて派手な人が東京より多い。街の中心部にいるということもあるかもしれないが、それにしても、髪を染めたり肌を出している人が多い印象だった。

それに比べて街自体は、東京を目指しているようで「大阪は東京とは違う」というプライドもあって目指せていないというか。行き交う人のファッションに比べて、街並みが追いついていないような印象を受けた。

食いだおれという意味では、GWということもあってどこも激込み。人気店は90分待ちが当たり前という状況だったので、目当てのお店にはいけず。2番手・3番手のお店でお茶を濁した。

あと、普通に梅田を歩いていたら、カズレーザーがいた。あの格好で背が高い。本当にあのまんまなんだなーと思った。