2023年に読んだ本は、今日時点で105冊。私の傍には「成瀬は天下を取りに行く」があるが、もはや今年は読めないので諦める。
以前と比べてブログの更新頻度が激落ちしたが、書きたいときに書くと決めているので、来年もマイペースにやっていきたい。
というわけで、今年の3冊
堅い書名だけど、大学の講義を元にしていて、中身はかなり砕けている。いわゆる「文章読本」なわけだが、その技法的な部分というよりは、文章を書くことへの心構えを説いている本
僕は、こういう文はいいと思う、こういう文はよくないと思う。そういうことがなければ、少なくとも批評は存在できない。いや、ほんと言うと批評だけじゃなくて、文章を書くことに熱意を注ぐ、ということが存在できなくなってしまう。その熱意が、大きく言って美というものを成り立たせているからです。いいですか。いろいろあるよ、と言っていたら、美も存在できなくなるんです。(15)
例えばこんな文には”熱さ”を感じるし、それは文章を書くことだけでなく、人生そのものに対する態度を表しているようにも思う。定期的に読み直したい本。
今年読んだ本を見直したときに、「あ、これ今年なんだ」と思った。
読書メーターには、いいと思った部分の引用を普段は載せているのだが、この本に対しては、
「主人公はまだ許せるのに、白羽が許せなさそうなのはなぜか?」と考えてしまった。白羽によって就活させられるときも、社会的には”正しい”はずなのに「そっちはお前の道じゃないぞ!」と思ってしまっていて、コンビニ人間であることを主人公に望んでいるという、なかなか不思議な気持ちになった。
と感想を載せていた。
まだ異動前の部署で、精神障害や発達障害について考えていたときだったから、余計刺さったのだと思う。ただし、主人公がそういう障害を持っていたかどうかは分からないし、仮に持っていたからといってなに?という話なのだが。
すべてが分かった訳ではないけど、マルチタイムスケールの話がとてもよかった。別の本で、平井さんは
クオリアとか、みんなタダできると思っちゃってるんですよ。脳から湧いて出るみたいな。イメージだって脳から生じますといってわかった気になっちゃうけど、素材ないじゃないですか。無から作っているって神ですか、みたいな。(『ベルクソン思想の現在』P117)
と語っていて、その考えが発揮された理論だと思う。
哲学の営みは、思弁的になりやすくて、頭の中の概念操作で、ふわっとそれっぽくやることが多い。分析哲学はそれの批判として、論理的に厳密にやろうとしているわけだけど、旧来の哲学でもなく、また分析哲学でもないような、素材感のある哲学でとてもよかった。
今年は深い読書ができなかった。その原因は本のせいというより、読書に対する私の態度のせいだ。
次から次へと本を読み、記録する。
それが悪いわけではないけど、右から左へすり抜けているような感覚で、もうちょっと味わって、内容を頭に入れていかなければならないと思った。
先日の記事でも載せたように、来年は、
「忘れる・思い出す・覚える」
ということを読書の面でもやっていきたい。