かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

地方公務員アワードを巡るHOLG代表とのやり取り

HOLGの代表である加藤さんと、地方公務員アワードに関してやり取りをしましたので、それをここに掲載します。

黒が加藤さんからの返答。青(?)がそれに対する私の返答です。

私の返答に対して、加藤さんは「一つだけ回答すべきと思ったのは、かつげんさん個人がストレスを抱えていると予想し、それを揶揄しているわけではありません。少なくとも現時点の私には、そう判断できる材料がありません。」とだけ返答がありました。

後のことについては、

と述べて、終わっています。このツイートについては、これに続くリプで回答しています。

以下、加藤さんに送った文章です。

①なぜ個人表彰なのか

個人を表彰する理由は、公務員バッシングの大きな理由は個としての公務員のリアルな存在が伝わっていないことに大きく起因している点、また、行政に関心を持ってもらうには最初に人が全面に出るべきだと考えるからです。


→その目的は理解しています。しかし私が言っているのは「個人を表彰することによって、弊害がある」とか「個人に対するフォーカスは、受賞対象を組織に変更しても失われない」という疑問です。

 まず私の基本的な認識として、役所の仕事やその成果は、ある特定の個人(リーダー的な人はいるにせよ、それも「リーダー」という役割に過ぎない。)だけで行うのではなく、組織で行っているものだと考えています。つまり、そもそも組織単位で成果を上げているにもかかわらず、その成果を個人単位でを切り出すこと自体が難しいと考えており、特に外部の方がその成果を評価するとなると、例え同じ地方公務員だったとしても、さらに難しいことだと考えています。

 組織を表彰対象とした場合、例えば陰ながらも業務に邁進したAさんがいたとして、表彰された組織内にそのAさんがいれば「俺もこの受賞に一役買ったのだ」と思えます。
 しかし個人を表彰対象とした場合は、組織で行った業務による成果をAさんではない受賞したBさんに「召し上げられる」ことになります。そうするとAさんは「俺もこの受賞に一役買ったのだ」と思えなくなります。むしろAさんは「どうせ頑張っても横からぶんどられるのだ」と思い、私の言う「分断」が受賞によって始まってしまうかもしれません。
 これはつまり、加藤さんの危惧されるような「特定の声の大きい人が代表とな」ることが、個人を表彰対象とすることで逆に生じているのではないでしょうか?
 もう一つ例を挙げると、アワードを受賞された方が異動され、その異動先では大した成果を挙げられないということは大いに考えられます。これは部署の向き不向きや周りの協力が、仕事の成果に繋がっているということを意味していると思います。それでも、こういった環境的な要因を排除した個人単位で表彰するのでしょうか。

 組織を受賞対象とした場合でも、例えば表彰式やホームページの中で成果を発表する際に、個々人の活躍を紹介し、フォーカスすることは可能であると思います。むしろ組織単位で表彰し、組織内部の人間に注目させるほうが、個人を表彰対象とするよりも「特定の声の大きい人が代表とな」ることや「召し上げられる」ことが少なくなるのではないでしょうか?
 また以前に私が申し上げたように、組織を受賞対象とした場合、誰が代表で受賞すべきかということは、組織内部で考えることであり、それで十分だと私は考えています。それを、様々な弊害がある中で、また「特定の声の大きい人が代表となる」や「召し上げられる」という懸念で、本来組織の成果であるものを個人に帰するものとするというのは、デメリットが大きいと思います。

管理職を評価するべきという妥当な理由はわかりません。

その論理だと全ての成果の行きつく先は二元代表制の最終的に首長や議会となりますが、彼らが全て受賞すべきでなく管理職が受賞すべき根拠もわかりません

→「管理職が受賞すべき」とは申し上げていません。

 「担当の仕事の集積として、一つの大きな仕事が出来るような仕組みになっている。」ということの例示として申し上げたまでです。

 そして「決定権のある者が組織の代表として受賞することは当然のこと(だからこそ「管理職」なのだが)である。」と言っているのは、決定権のある管理職はその組織を代表するものとして、受賞することが多いという一般論を申し上げているだけです。

 たしかに極論を言えば、成果の行き着く先は、首長や議会となるでしょう。しかし、世間一般的に納得できるような組織の単位で、仕事の成果を切り分けることは可能であると思いますし、実際、課単位で表彰している団体はあります。

なお、正当か不当かの基準は人それぞれなのでわかりません。Twitterではネガティブな意見が目立ちますが、実際にコメント欄を見てみると一方的にアワードが批判を受けているわけではなく、地味な仕事を評価してくれていると思っている人がXですら批判者以上にいます。また、管理職の最たる方々である首長の方々からも、開催に際するメッセージや祝辞を正式にいただいているので、その点でも一定の理解は得られていると考えています。

→もちろんその基準は人それぞれではありますが、様々な批判があるなかで、より多くの人が納得する方法を考えるべきであり、加藤さんはそれを考え、実行する立場にあると思います。

②評価方法について

公務員の方が審査員ですので、審査員の方が判断されることだと思います。

→「審査員が判断します」というのは違うと思います。
 加藤さんはこのアワードの主催であり、具体的な事例における審査はさておき、抽象的な審査方法や仕組み、基準については、考える立場にあるはずです。
 こういうときに「審査員が判断します」と言ってしまうのは、私には逃げているように見えてしまいます。

いまでも実際にはデータや形に残らないことを評価してもらっています。例えば、「子供3人を出産しながら、仕事ではこれだけのことをした」といった文章等も推薦文にはあります。
また、推薦文には人格や情熱について触れられていることも多くあり、それらは加味されていると思います。

→私が申し上げているのは、アワードの評価する「成果」とはそもそもなにかということです。詳しくは③の冒頭を参照。

ご提案頂いているチームや組織の受賞となると、人間らしさは極端に失われ、ただの事例集のようになることになり、これらは省庁が行っている表彰と類似の取り組みになるように思い、弊社が行う理由はありません。
また、チームや組織が受賞することは特定の声の大きい人が代表となり、アワードの目的達成がしがたくなります。

→①を参照。

③なぜ審査員に専門家を入れないのか

地方公務員の地味な仕事やリアルな仕事へ最も理解できるのは、専門家ではなく地方公務員だと思うからです。

→なぜそう思うのでしょうか。
 確かに地方公務員も、地方公務員の仕事に対して、ある一面において理解があるのかもしれません。しかし、地方公務員の仕事も専門化し、それぞれの仕事の価値観で業務を行う中で、「同じ地方公務員だから」というだけで、他者の成果の評価ができるでしょうか。
 具体的に言えば、隣の係の業務内容すら詳しく知らない状況で、他自治体の職員の個人業績の審査はできるのですかという疑問です。
 専門家や様々な立場の方を審査員として迎えることで、地方公務員の業務の多様性や価値が、審査により反映されるのではないでしょうか。

例えば、よく役所に呼ばれる◯◯委員や◯◯政策委員が評価した場合には、成果にフォーカスされる可能性が高いからです。

→募集要項では、その目的として「高い"成果"をあげた職員の活躍を一般市民や他自治体、そして、メディアへ共有し」とありますが、アワードの趣旨からいって、成果にフォーカスすることはむしろ真っ当なことなのではないですか?

また、仮に全部署の専門家を集めようとすると審査員だけで500人程度(仮に教育、消防、公安なども含めかかりや専門スキル単位で3名ほど集めたら)はすぐに超えると思います。適任者を専任し依頼し、とりまとめてイベントを実行するのは弊社には人的また金銭的リソースから不可能ですし、府省庁でも難しいように思います。

→加藤さんは、なぜそうやって人の話を極端に捉えるのでしょうか。
 提案に対して、リソース的に不可能なことをあえて想定し、提案を否定することは、かなり悪意があるように見えます。
 地方公務員の業務を部門ごとにすべて網羅しろとは言っていません。しかし、部門を作りある程度切り分けたほうが、見ている方は受賞理由等が分かりやすくなるのではないでしょうか。また受賞理由を説明するにあたって、土台となる独自の価値観を説明することにもつながり、分野ごとの相互理解が深まるのではないですか。

 専門家についても、すべての部門に3人ずつ付けろなんて一言も言っていません。今の審査員に加えて、1~2人でも、審査員として招くことも無理なのですか?
 つまり、聞きたいのはリソース的に不可能なのか、加藤さんの意志として専門家を入れたくないのか(=公務員の審査だけでやりたいのか)ということです。

④受賞者の偏りについて

偏りはあるかもしれませんが、N数としては81なのでその点を論じる段階でもないと思っています。受賞者を見ると同じ部署で同じような成果を上げる人はそんなに多くないと思います。例えば上下水道に関する部門では3名が受賞していますが、全員異なる動きをされています。
また目的別支出の割合と同等になることが正しい基準とは思いません。例えばバブル期において土木建設費の割合は高かったと思いますが、開発に関する方が多く受賞した場合では、特定のキラキラ系である開発担当者ばかりと批判されることになるのではないでしょうか。

→私は受賞者の部門別の割合が「目的別支出の割合と同等になることが正しい」とは言ってません。私がここで言いたいのは、
 「当然、単純な比較はできないが、アワード受賞者における受賞分野は、偏り(評価されやすい分野とそうでない分野)があるのではないか。」
という部分です。この疑問についてはお答えいただいていないと思います。
 評価されやすい分野とそうでない分野があるということも、私が申し上げている「分断」につながると考えています。

⑤地方公務員間の分断について

まだ多くの地方公務員は地方公務員アワードの存在を知らないので、地方公務員アワードが分断できているとは考えていません。画一的な評価というのは誰から見るからにもよって異なると考えますし、加えて画一的な評価がなければ地方公務員を分断しなくなるわけではないと考えています。

→分断については①を参照。何をもって「分断」というかは「人それぞれ」ですが、私は①や④で述べたようなことを懸念しています。

地方公務員アワードに対する批判については、評価方法への不満を理由に展開されますが、批判者自身が通常抱える業務や人間関係に関するストレス、また、自身がアワードに選ばれないことへの不満もあるのではないか、と同じ公務員から意見をもらっています。よって地方公務員アワードが分断しているとは考えておりません。

→それは私のことおっしゃっているのですか。
 このように、批判者に対して「こいつは表ではこう言っているが、実は無意識にはこういう考えがあるはずだ」と勝手に仮定して馬鹿にするやり方はよく見られますが、そんな揶揄の仕方を許していたら、いくらでも言いたい放題できると思います。
 そしてさらにひどいのは、加藤さんは「同じ公務員から意見をもらっています」という一言で逃げを打っていることです。そういう加藤さん自身はどう思われるのですか。
 自分の考えをおっしゃらずに他人の意見を盾にして、それとなく匂わせる方法はかなりセコい批判の仕方だと思います。
 というか、この一文を入れた意味が私への揶揄でないのであれば、蛇足であり、意味不明です。

Twitterでのリプ

そんなに噛み合ってないですかね。質問には呼応してますよね。スペース不要と考えたのは「回答するのが"筋"」と「不当」などと論理ではなく、かつげんさんのモラルを軸に会話されていることが多かったためです。目的に対するあり方ではなくモラルを会話に持ち込むと、正解は無く必ず平行線になります。

→「文章で疑問を述べたのだから、文章で回答すべき」といったのは、加藤さんがその前に「実はわたしもまとめたいと思ってたのでありがたいです。」とおっしゃっていて、私はそれを「加藤さんは文章でまとめる気なんだな」と思ったからです。
 それが急に「複数人でスペースをやりませんか?」と来たので、疑問に思って「スペースでもいいけど、まずは1:1で文章で返すべきでしょう(自分もそういってたし)」と言っただけです。
 「不当」というのも、私は正しくないと思っているから「不当」と言っているだけです。
 目的に対するあり方を考えるためには、むしろモラルを話し合うことこそ重要だと思います。正直このリプは、全体的に意味がよく分かりませんでした。

分断と相手に言ってる時点で、それはあなたのモラルの押し付けじゃないですか?私はアワードの目的を鑑みて実務論として最適かどうかという軸で話していますが、貴方は正しい在り方という空中戦で私と議論しようとしている。だから噛み合わないと感じるのではないでしょうか。

→加藤さんのいう「モラルの押し付け」や「実務論」というのは、具体的にどういうことをおっしゃっているのですか?
 あなたの感覚的な造語を押し付けられてもよくわかりません。

 私が「噛み合っていない」と言っている意味は、これまでの返答で度々出てくる「私が申し上げているのは...」とか「私は言っていません」という言葉からも分かるのではないでしょうか?
 私の書き方も悪いのかもしれませんが、加藤さんは私の疑問に対して、曲解したり話をそらしているように感じます。だから「噛み合っていない」と私が感じています。だから加藤さんのおっしゃる「空中戦云々」というのは、噛み合わなさの説明として、端的に間違っています。

 「分断」と申し上げているのは、私が本当にそう考えているからです。「モラルの押しつけ」の意味が分かりませんが、こういった自分の考えを述べることは「モラルの押しつけ」なのですか。それでは加藤さんの考えを私に表明することも、モラルの押しつけなのではないのでしょうか?
 また「実務論」というのが、「現実的な問題解決のための議論」という意味なのであれば、私はブログで具体的な提案もしていますし、今回の返答でもかなり具体的に書いているつもりです。これ以上”実務的な”批判を求めるのですか?
 これでもまだ「モラルの押しつけ」や「実務論云々」ということをおっしゃるのであれば、もはやそれは「私は自分のモラルと合う、自分の話したい議論をしたい」ということであり、「自分の気に入った意見しか聞きたくない」ということだと私は理解します。

以上、加藤さんへの返答でした。