かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

一部の人のせいで、全体が迷惑してしまう問題

こういう、ごく一部の人のせいで全体が犠牲になることが、最近多い。一部だから我慢しろという話ではなく、一部を取り上げてまるで全部がそうであるかのように捉えられてしまう。特にTwitterが出てきて以降、このような話が多くなった。

この話も、その亜種かもしれない。「頭の悪い人」を取り上げて、相手全体を「頭の悪い人」としてしまうわけだ。

このようなことを防ぐためにはどうすればいいだろう。

おそらく「ごく一部の人」がまさに「ごく一部」であることを、私たちが認識するしかない。しかし普段の生活のなかで「一部の人を全体と取り違えるなよ!」とお説教をしても、聞き入れてくれないだろう。「そんなこと分かってるよ!」と言われるのがオチだ。しかし、そんなこと分かっていながら、結局はそのように取り違えてしまう。

つまり「ごく一部の人がやったことを全体に敷衍してしまうこと」は、錯覚とか思考のクセのようなもので、人間として逃れられないもののように思う。

そうすると、究極的には、その”一部”とは誰なのかを特定できる仕組みが必要なのかもしれない。「”この人”が悪いんです」と指し示せるような仕組みが必要だ。しかしそれは全体管理化につながる。

2000年代に、ネットの匿名/顕名論争というのがあった。ネットの誹謗中傷は、匿名性によるから、顕名にしてしまえば抑えられるだろうという発想だ。いつの間にかその話題は立ち消えになったが、ここまでネット上の問題が深刻化すると、もう一度この論争が回帰するのではないだろうか。

論争当時に比べて、「一部の人に迷惑している全体の人」が非常に多く、2000年代のときよりも、匿名性の排除に傾きやすいように思う。また「ネット上での匿名性は保持したままで、行政や第三者機関からは常に特定することができる」という仕組みは構築可能だろう。マイナンバーと結びつけることだって出来るかもしれない。

こうした具体的な提案が出てきたとき、以前のようにネットの匿名性を堅持する主張は出来るのか。さすがにもう難しいような気がしている。

 

工夫は、暇から生まれる

何回か保健所へ応援にいって見ているかぎり、たしかに保健所業務は逼迫している。ある人はひっきりなしに電話をかけて健康観察をしているし、またある人は何枚にも積み重なった発生届を崩して、登録の必要な「ハーシス」へ一生懸命入力している。

正直、みんないっぱいいっぱいで、今の仕組みの中で回すのが精一杯といった状況だ。

保健所に限らず、このように必死に回している現場を私のような部外者が見ると、「もっとこうすればもっと効率的になるのでは?」と思うところもある。もちろん、私はあくまで部外者だから、内部の人しか分からない都合というのもあるだろう。いろいろ調べてみると、実は現状のほうが効率的だったということもある。ただ少なくとも、ただ目の前の仕事だけに集中している現場に、工夫は生まれない。

工夫は暇から生まれるのであって、暇のない現場には工夫は生まれづらい。さらに言えば、その工夫を思いついたときに、それをチャレンジできる時間と労力が必要である。

これを解決するためによく取られる手法は、「企画部署」や「業務改善部署」を作ることだ。つまり、工夫を考えるチームを別に作って、工夫を考えること自体を「仕事」にしてしまおうという魂胆である。

なるほど。
確かにそれは”効率的なやり方”なのかもしれない。しかしこのような部署が出来ることによって、本当に工夫は考案され、実現するのだろうか。

なにせ思いついた工夫は、あくまで現場と区別された場所で立案されたものである。その工夫が、本当に現場での業務改善につながるか分からない。

そんなわけで、本当に業務改善をしたいのであれば、それは実働部隊と頭脳労働部隊を明確に分ける方向ではなく、実働部隊を増やして全体的に暇にさせたほうが上手くいくのではないか。

一番の問題は、その暇を市民が許してくれるかどうかであるが...

 

やりたい仕事は、自分で作っていく

地方公務員は、異動希望を出したところで、それが叶うことはない。万が一叶ったとしても、「思ってたのと違う!」となることなんてザラにある。というか、むしろ自分のやりたい仕事は、出来ない方が普通である。

また、もし仮に、希望する部署に配属された上に、思ったとおりの仕事を任されたとしても、しばらくすればまた異動してしまうだろう。

このように、自分のやりたい仕事が出来ることなど、公務員の世界ではほとんどない。そのようなことが起こったら本当にラッキーだし、恵まれたことだと思う。

一方で「自分のやりたい仕事をやってみたい」という気持ちは、消えることはない。異動希望を書くたびに、そんな”希望”を掻き立てられ、潰える。当然これでは疲弊してしまう。

こういう構造に何年か前に気づいて、仕事に対する考え方を少し変えた。

それは「やりたい仕事は、与えられるまで待つのではなく、自分で作ってしまう」という考え方だ。

私は、自分の考えを文字にして落とし込むのが好きであり、得意である。だから、前の部署でも今の部署でも、自分の業務をまとめたマニュアルを作るようにしている。今の部署のマニュアルは、少なくとも7万字に到達していて、レアケースごとに作った書類なども含めれば、10万字は到達するだろう。

またこのマニュアルを活用して、自分の業務を周知するための職員報を作っている。おそらく次の部署でも同じようなことをやるだろうから、そのうち「職員報のかつげん」みたいな通り名も出来るかもしれない。

またここにも書いたが、「仕組みを作る」ということも同じように好きな仕事と言ってよいだろう。

こういうことをやっているとき、私は「趣味」に勤しんでいるような気分になる。「楽しい」とまでは言わないが、少なくとも「仕事としてやっている」という感覚がない。

これらの仕事は、別に上司から言われてやっているわけではない。マニュアルづくりは勝手にやってるし、職員報は、上司の許可をとりつつ、ある程度自由にやらせてもらっている。

このように私は、自分の業務の範囲でやりたいことや得意な仕事を、あえて作るようにしている。仕事量は増えるが、そういう仕事が一つあるだけで、気が楽になるし、少し満足する部分があるからだ。

もちろんこの考え方は、例えば「条例の仕事がしたい」という人には適用できない「やりたい仕事を作る」と言ったところで、勝手に条例を作るわけにもいかない(まぁ試しに案を作ってみてもよいかもしれないが...)。このように具体的なやりたい仕事がある人は、自主的に勉強するなり、やりたい仕事に関連した資格をとって、上司にアピールするのがよいだろう。

しかし、多くの人はそこまでしてやりたい仕事があるのか、とも思う。あればもちろん喜ばしいことだと思うが、「やりたい仕事がある」というより「今の仕事をやりたくない」という逃避的な一面もあるのではないかと、思ったりする。

やりたい仕事を作るクセを身につけると、業務内容に左右されづらいから、「あの部署は嫌だ」とか「やりたくない仕事だ」などと言うことも少なくなる。

問題は、そのような得意分野をどうやって見つけるかだろう。一言で言えば「自己分析」ということになる。具体的にいえば、

 ○どういう仕事をしているときに自分は楽しいと感じるのか。
 ○周りの人には出来ていないが、自分は自然にできてしまうことは何か?
 ○周りの人は気にしていないが、自分は気になってしまうことは何か?

などを考えると、分析しやすいかもしれない。

往々にして自分の得意なことや、やりたいことは、本人にはその実感がなかったりする。得意なものこそ得意にならないものだ。だから、まずそういうものを見つける。そして、それを今の仕事に当てはめるとどうなるかを考えていくと、自ずと「やりたい仕事」は見つかってくるように思う。

結局のところ、望んだ通りの仕事を与えられることはまずない。ましてや、やりたい仕事を何十年も続けることは絶対にない。

であれば、他人から与えられるのを待っているよりも、自分から作ってしまったほうが、よいのではないかと思う。

そして、そういう仕事が一つでもあれば、少しは気が楽になるものだと思う。

福祉は待つのも仕事である

福祉の仕事をしていると、この仕事がいかに人の価値観に左右されているかかが分かる。相手がどういう言動・行動を取るのか検討もつかないし、こちらが何かを勧めても、相手が嫌だといえば、仕事は前に進まない。

内部の職員相手の仕事なら、相手の行動に予測がつく。人それぞれ違う人生を歩んでいるとは言え、ケースに比べれば似たような人生を歩んできたし、お互い職務上の立場があるから、異常行動に歯止めがかかる。このようなある程度「よく知った仲」での仕事は、相手の行動に予測がつくから、自分の努力が結果に結びつきやすい。

しかしこのような「よく知った仲」の感覚で、福祉の仕事は出来ない。

こちらが”常識的”に、その人にとって”メリット”しかない提案をしたとしても、断られてしまう。申請すれば、お手軽にお金が貰えるのに拒否をする。今より良い暮らしが出来るはずなのに拒否をする。こういう本人の”非常識”な対応に、嫌になってしまうケースワーカーもいる。私は慣れた方だと思うが、それでも「なんで拒否するの?」とイラッとすることもある。

人間は、それを「やってみたい」と思わなければ、やらない。本人に自発性がないと、本人は動かない。

私たちは「周りの空気を読んで、やりたくなくてもやる」ということが出来る。だからこそ外圧が通用する。「やりたくなくてもやる」という行為は一種の社会適応能力だが、しかし、その能力が十分にある人ばかりではない。自分の思ったことを、適切な手段で表現するのが苦手な人だっている。イライラするからカッターナイフを振り回したり、寂しいから警察を呼ぶといったように。

こういう社会適応能力が十分でない人もいるということ自覚しないと、福祉の仕事は辛くなる。こちらの都合のいいように、無理やりやらせたとしても、信頼関係が破綻して、回り回って悪影響を及ぼすこともある。

だから福祉の仕事では、「やった分だけ結果が出る」という関数的な考え方を改めなければならない。そうしないと、ケースもケースワーカーも不幸になってしまう。人間へのアプローチはテスト勉強とは違う。やってもやっても結果が出ないのが福祉なのだ。

ではどうすればいいのか。何もしなくていいのか?そういうことではない。やるべきことはやらなければならない。本人が断ってくるだろうことが予想されても、様々な選択肢があることを本人に示す。通院を促す。支援員と相談する。ケース診断会議にかける。

結果が付いてくるかどうかは、本人次第だ。であれば、こちらはこちらで、自分が後で批判されないように、やるべきことを抜け目なくやる。「結果が出たらラッキー」ぐらいのスタンスがちょうどよいのかもしれない。

その上で、あとは待つしかない。

「待つ」といって嫌な気持ちになるなら「時間に仕事をさせる」と言ってもよいだろう。先ほども言ったように、何かをやれば結果が出るものではない。「サボっているような気持ちになるからアプローチしたい」なら、それはもはや本人のためではなく、ケースワーカーの欲でしかない。

やるべき仕事をやったなら、あとは時間に仕事をさせるしかない。
状況が変わらないなら、変わるまで待つ。我々の手段は、もはやこれしか残されていないのである。

じゃんけんで決めるのをやめる

中学生ぐらいのときだったか、担任の先生から「じゃんけんで決めるのをやめろ」と言われたことがある。学級委員とか掃除当番とか、誰かを割り当てなきゃいけないときに、じゃんけんで決めるなという意味だ。

当時は「へいへい、わかりましたよ」と思っていたのだが、今考えると、その先生は結構いいことを言っていたのだなと思う。なにより「じゃんけんで決めることの違和感」を学習的にではなく、半ば生得的に得られたのは大きい。

つまりその担任が言いたかったのは、「偶然に任せて決めて、イヤイヤながらにやるな」とか「やるからには自発的に、責任を持ってやれ」ということだ。偶然に任せて決めてしまえば、「あの時じゃんけんに勝っていればなぁ...」などと延々に”後悔”することになるだろう。そのような態度は、前向きとは言えないし、責任感のある態度とは言えない。

この考え方の重要性は、仕事をやりはじめると身にしみて感じる。

結局のところ、「しょうがなくやる仕事」は面白くない。時間が経つのが遅い。それなら「この仕事嫌だな」と思っていても、それが必要だと思えば手を挙げたほうがいいし、手を上げたなら責任感をもって仕事をするのがよい。

また、仕事が例えじゃんけんのように偶然に自分に降り掛かったとしても、それを出来るだけそれを引き受けて自発的な形で仕事をすること。

つまり「じゃんけんの亡霊を消すこと」が、その仕事をよりよいものにする。