かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

30歳の課題

後輩を飲み会に誘う。
気を遣って、「嫌だったら断ってもらっていい」と、なんども伝える。相手からは「また誘ってください」と言われる。だから誘う。
しかし後になって「あのとき、実は嫌だったんです」と言われる。

 

そういうことが最近起きた。
私は他人との距離感を測るのが苦手で、一応気を遣っていたものの、こんなことになってしまった。

私は、他人と適切な距離を保つことが我慢できない。より近づこうと、より仲良くしようとするところがある。「距離を近づけることが良いことである」という価値観を無意識的に持っているのだろう。もともと「何かをやり切ること」とか「出来ることは全部やる(そして天命を待つ)」という気持ちが強いので、なおさら、そうなるのかもしれない。

しかしそういう考え方は、そろそろ終わらせなければならない。

卑近な例だが、「大盛り無料」とか「食べ放題」に惹かれた結果、具合が悪くなるようなものである。何においても、やりすぎはよくない。

人間関係において、ほどほどで適切な距離感を保つということに慣れていかなければならない。これからどんどん歳を取り、年下や後輩は増えていく一方なのだから、なおさらだ。

30歳のテーマは「中庸」だなと思った。

「ほどほどにすることが、結果的にはよい」
これからは、そういう経験を積極的に積んでいきたい。

価値観の作られ方

人生は決断の連続である。

とは言っても、それが決断であることを自覚しているのは稀で、結婚やマイホーム、子育てなど重要な決断のときだけ、そのように自覚したりする。

しかし、実際のところ、大なり小なり我々は決断している。

通勤電車に乗るかどうか、お昼ごはんは何にするか、係長に根回ししておくか、子供の送り迎えをどうするか。そんなことを日々考え、決断しながら生活している。そして、結婚やマイホーム、子育てといった"重要な決断"は、日々の小さな決断が積み重なった先にある。

そういう意味で"重要な決断"というものは、本来は存在しないかもしれない。すべて繋がっているという意味では、すべてが等価であって、すべてが重要と言える。

だが、我々はそんなふうに考えない。なぜなら、人間の能力には限界があって、次々迫ってくる選択をいちいち吟味していられないからだ。

だから優先順位をつけて、"重要な決断"を人為的に作り出す。そうすることで自分の頭のリソースを効率的に投入する。

それを繰り返すことで出来上がるのが、その人の価値観ではないかと思う。

「意識しよう」という解決策

先日、職場の打ち合わせがあり、事務ミスが多いという話になった。その上司いわく「意識すれば、ミスは減るはず」とのこと。

他にも、その上司が気になっていた"問題"を次々取り上げられた。例えば「電話を取る人が偏っている」とか「離席するときは、周りの人に声をかけよう」などの問題が話された。ただ解決策は「普段から意識しよう」だった。

私は途中から聞く気がなくなってしまった。なぜなら、そもそも話されている"問題"は大した問題ではない。その上司が、話し合いのために準備した問題にしか聞こえなかった。事務ミスはさておき、小学校の先生が説教するような内容を、仕事を止めてまで話し合うのか?とイライラしていた。

さらに、そこで示される解決策が「意識しよう」しかないことに驚いた。そんなこと言って、意識が高まるわけがない。打ち合わせ後に一時的に高まることはあれど、しばらくして意識が低くなったら、また打ち合わせをするんだろうか。

どうもその上司は、本当に問題を解決したいというよりも、「職員に向けて説教したい」という欲求が強いように見えた。

 

さて、問題解決のためによく「意識」が持ち出される。「普段からミスのないように意識していこう」というように。

しかし、意識することは、基本的にその対象が普段とは異なっていたり、新しかったりするから起こる。ここでいう「意識」とは、正確に言えば「注意」だろう。だから「普段から意識する」というのは、構造的にほとんど無理である。もはや語義矛盾と言ってもいいだろう。

事務ミスを減らすには、「意識」に注目するのではなく、むしろその「慣れ方」に注目しなければならない。つまり「複雑なことをいかに意識せずに出来るようにするか」ということが重要になる。

そのような視点がなく「意識しよう」という掛け声だけでは、問題解決には程遠く、むしろミスは増えていくだろう。

無駄に気づくには、別の視点が必要である。

自分のやっている仕事やその方法が「無駄だ」と気づくには、別の視点が必要である。その方法を続けたところで、確かに洗練されて効率的になることはあれど、限界がある。

例えば、ショートカットキーを使うことに慣れている人から見れば、マウスを使ってポチポチ選んでいる人は、無駄な時間を使っているように見える。

しかし、マウス派から見れば、そもそもショートカットキーを使うという発想がない。そういう世界が見えていない。だから自分の方法が無駄であるということに気づけない。

だから「無駄」は、自分の知っている世界を広げて、自分のやっていることに別の視点を介入させて、初めて気づくものである。

そのためには、今やっていることを愚直にやり続けるのではなく、自分よりできる人を観察したり、たまに休んで他のことを考えたりすることが重要だろう。

自分と向き合わなければならない

彼女と別れた話を先日書いた。(別れ話 - かつげんの拠り所)それでは自分にはどういう人が合うんだろうか。

いろんな条件に思いめぐらすのだが、彼女が新たにできたところで、自分の孤独感は消えないように思う。むしろ「彼女がいるのに寂しい」という感情によって、孤独感は増幅するかもしれない。

もちろん、自分の孤独感を消すために彼女を作るわけではない。ただ、これまでそういうことを期待して彼女が欲しいと思っていたフシは、あるかもしれない。

結局、いままで私は、自分に足りない部分を埋めるものを外に求めていたように思う。それに向けて頑張っているときは、自分の孤独感と向き合うことはないし、成果を出せばうれしい。そういう繰り返しによって、“食いつないできた”のかもしれない。

哲学や政治思想に興味があるのも、自分と向き合うためではなく、他人の思想をかいつまんで、それで自分の孤独感を埋めようとしていたのではないか、という気がする。どこか外向きで、自分のことを分かりたいようで、本当にそのつもりがあるのか、自分でもよく分からない。

私がこれから向き合わなければならないのは、何をしても後ろをついて回る孤独感であり、「そもそも自分はどういう人間なのか?」ということなのだろう。

自分の孤独感がどこから生じて、どう対処する(受容も含めて)のがよいのか。いままでぼんやりとイメージで抱いていた自己について、真剣に考えていかなければいけないようだ。

そうでないと、仮に彼女が出来て結婚しても、趣味に打ち込んだとしても、どこか虚無感のある人生にしかならない。

こういうことをウンウン自分で考えても、深みに嵌まるだけで、いい結果に結びつくとは思えない。だから誰かと話していくなかで、考えていった方がいいのだろう。

私が占い好きなのも、ここで書いたように誰かと話して、カウンセリングをしてもらうことが必要だと、無意識のうちに気づいているからではないだろうか。

それであれば、いいのか悪いのか分からない占い師よりも、理論的根拠のあるちゃんとした心理カウンセラーに通った方がいいという気がする。ハードルが高いし、安くもないから、これからまた検討しなければならないが、自分と向き合うには誰かの助けが必要であることは間違いないだろう。

私は今年で30歳になる。30歳は「而立」で、40歳になると「不惑」である。

やはり30歳は、こういうことを考え始める時期なのかもしれない。